「先秦時代の領域支配」を読み始める、の続きというのもヘンだが、前回書き足りなかったことがあるので、徒然とそれを補完するつもりで書き連ねていく。前回、書籍の写真を
このように示したが、「先秦時代の領域支配」のほかに「中国先秦史の研究」をあえて見せたように、本書(「先秦時代の領域支配」)についてはこの「中国先秦史の研究」と合わせて語っていくためである。というわけで、十八番の横道に逸れていくが、私が中国先秦史(特に春秋戦国時代と位置づけられる時代)に興味を持つに至ったかを示し、いかにしてこれら両書につながるのかを以下より書いていく。
私は小学生の頃から歴史が好きであったが、のちにそれ以上に物理学に興味を持ち、ちょうど大学受験時に歴史よりも物理だったことから理科系の大学(理学部物理学科)を選択した。しかし、歴史への興味も断ちがたく、機会があればその手の本を熟読したり、自身でもサークル活動を行うなどして理科系なのに歴史という異種混合のような学生生活を送っていた。歴史といっても、日本史よりは世界史で欧州史や統一王朝が続く前(元の滅亡あたりまで)の中国史がお好みで、中でも春秋戦国時代は「史記」「春秋左氏伝」「戦国策」を読み込むくらいにのめり込んでいた。
無論、学者先生の書かれた著作なども読んだりしていたが、なかなか面白い説を発表する平勢隆郎氏の著作を読むに至り、氏の「新編 史記東周年表──中國古代紀年の研究序章」を購入(2万円以上したなぁ、確か)。当初はなるほどと思っていた(衛の滅亡年や春秋における魯の立年称元による解釈など)のだが、「史記」の数多の年代矛盾を整理すると浮かび上がってくる真説に違和感を覚えた。年表でない、一部のみを抽出、一般向けに平易に解説した著作(例えば「『史記』二二〇〇年の虚実 : 年代矛盾の謎と隠された正統観」(のちに講談社学術文庫で中身をかなり入れ替えた「史記の「正統」」となる)や「『春秋』と『左伝』 : 戦国の史書が語る「史実」、「正統」、国家領域観」など)を読めば、なるほどと思わせるもの(一般人のみで業界人が読んだらそうでないのかもしれないが)であるのだが、年代矛盾とされるものとして「年代操作」を頻繁に行っている「新編 史記東周年表──中國古代紀年の研究序章」をじっくり読んでいくと、これって単に恣意的で我田引水的な独自解釈による年代操作でしかなく、理解困難だからとほいほい都合のいい年代に改竄するだけではないかとしか見えなくなってきた。
この独自解釈に嫌気を覚える中、吉本道雅先生の「中国先秦史の研究」に出会ったのである。本書は500ページを超えるまさに読み応えのある内容で、「春秋左氏伝」等を横に置きながら読み進めつつ、なるほどと唸らせる論理構成。戦国時代の扱いが薄いのが残念だが(春秋時代と同程度のボリュームなら1,000ページ近くなるか…)、史料批判を行いつつも極力原資料を尊ぶ姿勢には好感が持てた。本書は、それこそ汚い話で恐縮だが、手垢が付くほど何度も読み直し、遠方の出張の際には荷物になるが携えて機内やホテル内でも読み込んだほどである(2006~2008年頃)。
で、話は「先秦時代の領域支配」に戻り、本書著者のこの若い知性は間違いなく吉本道雅先生の薫陶を受けていることがわかったことから、是非ともこれは読んで確認したいと思ったのである。まだ第二章を読み終えたところであるが、間違いなくこれは買って読んで正解だったと感じている。そんなことを感じつつ、今回はここまで。
コメント