さて、週末のお楽しみは地域歴史研究のコーナーです。タイトル通り、前回の続きです。積み残しは、「目で見る品川区100年」の73ページ3枚目の写真は果たして通称どんどん橋のものなのか、という疑義に一定の回答と理由を示したまではいいが、現在の「旗の台一の橋」は昭和43年(1968年)11月竣工とあるので、写真に写る通称どんどん橋は「旗の台一の橋」に架け替えられるまでの間まで存在したのか。もっといえば、池上電鉄線開通時から連続立体交叉工事までほとんど変わらなかったのか。これを考えることは、つまり写真に写るどんどん橋はいつまで存在したかを確認することで、もし往事(昭和初期)のものと変わらないのであれば、池上線の勾配についての変遷も合わせて考察できるのではないかという考えによる(横道に逸れるが)。
私の現時点までの調査では、どんどん橋は架橋(昭和2年=1927年)されてから昭和40年(1965年)前後の連続立体交叉工事工事まで生き残り、昭和43年(1968年)11月に旗の台一の橋にその地位を譲るまで存在したのではないか(架け替えの間の一定の期間はこの場所を渡ることができなかったと見るが)、となる。よって、池上線の勾配も長原駅地下化工事とセットで、どんどん橋~長原駅間で線路の切下げ工事が施工されたと見る。では、そう判断した理由を以下に示そう。
まず、最初に示すのは昭和38年(1963年)の航空(空中)写真である。これには、簡単な位置説明を付したが、確認できるように連続立体交叉工事の直前状況といっていいものである。注目は、無論どんどん橋で、若干斜め上から撮影されたことから、この橋が接続道路とフラットに架かっておらず、橋の袂の盛り上げて架橋した様子が見える。つまり、現在の旗の台一の橋と同様に、線路までの高さを確保するためにかさ上げしているわけである。このシリーズのコメント欄に読者の方からもご意見をいくつか頂戴しているように、どんどん橋は道路とフラットではなく、橋の前後で上り下りを要する構造となっていたのだ。
では、昭和38年(1963年)当時のどんどん橋は、昭和2年(1927年)架橋時のそれと同じものなのか否か。この36年間の間で、最も大きな変動は太平洋戦争中、特に米軍による空襲による被害に遭ったかどうかがポイントとなる。
昭和22年(1947年)の航空写真で、先ほどの昭和38年(1963年)のものよりも縮尺を大きく取っている。左下に長原駅、右斜め上に上がっていく線が池上線である。長原駅からまだ細い環七通りを渡って、区界道路の踏切を越え、徐々に下りながらどんどん橋をくぐり、右上の現在旗の台文化センターがある脇の踏切(73ページ1枚目の写真にある踏切)までが写っているが、周囲には家が密集していることがわかるように、このあたりは奇跡的に空襲による被災を受けなかったエリアなのである(もちろん、周囲には焼け野原となってしまった地域も多い)。
この写真に写っているどんどん橋は、周辺の家々と同様、被災しなかったと思われる。つまり、昭和22年(1947年)あたりまでは問題なく遡ることができると考えられるわけだ(昭和22年~昭和38年の間に架け替えられた可能性はほとんどない。理由は当時より連続立体交叉工事は計画されており、大変動(大地震)等で橋が使えなくなるような事象が発生しない限りは架け替えないため)。
では続いて、昭和11年(1936年)の航空写真を確認しよう。なるべく、昭和38年(1963年)当時の航空写真と合わせるような工夫をしたのでボケ気味なのはご容赦だが、道路や鉄道の基本構造は変わっていない(旗の台駅ができたのは大きな変化だが、どんどん橋を含め前後は同じ)。つまり、この写真は昭和2年(1927年)からわずか9年しか経過していないので、よほどの事情でもない限り架け替えることはないだろう。もし、あるとするなら、どんどん橋近くにあったコの字跨線橋のような簡易構造で、かつ不用になった(踏切新設による)くらいの理由しか思いつかない。こうして10年単位での航空写真を見比べること、この地域に起こった事象等を考慮に入れると、どんどん橋は架橋されてから連続立体交叉工事までの間、そのままあり続けたと結論づける。ということは、同じく連続立体交叉工事までは長原駅~旗の台駅(旗ヶ岡)間の線路の勾配等も変わることはなかった、となるのである。
そうなると、前回、この写真に対して「アーチ状にはなっておらず、掘割とした線路用地を跨ぐように板を乗せたような(こんな単純ではもちろんないが)格好となっている。これは高さに余裕があったのかなかったのか、あるいは単にぎりぎりの高さで施工しただけのものとそうでないものの違いなのか(法令や基準の違い)」としたが、そうではなく、そのまま架橋してしまうと線路からの高さを確保することができないため、橋の袂を盛り土するなどして高さを上げた。となる。これは、コメント欄で読者の方からのご意見ももちろんだが、昭和38年(1963年)の航空写真(ここにご紹介した以外のものも含めて)から、切り(盛り)上げた構造と確認でき、これが施工(架橋)当初から継続していたとすれば、区界道路からどんどん橋までの高低差からあり得ない急勾配となってしまう矛盾も解消される。
と、ここまで進めて横道逸れから戻し、この写真はいつ頃撮影されたものか(開通時=昭和2年8月28日に撮影されたとある「目で見る品川区100年」の絵解きが正しいのか)、について考察していこう。
この写真のポイントをこれまでの話を踏まえ列挙すると、
- 73ページ1枚目の池上線開通記念とされた、実は昭和8年(1933年)以降の踏切開通記念の写真に写る人たちとは明らかに異なる面々が写っている(1枚目は和装が多いが、この3枚目の写真は洋装がほとんど。一人神主装束が混じる)。
- どんどん橋後方にコの字跨線橋と見られる橋脚が写っている。
- 橋の袂が盛り土されているので判断に苦しむが、橋右手側にまったく建物が見えない。
- 擁壁(斜面)の草木の茂り具合や記念撮影におさまる人の服装が秋から冬にかけての印象に感ずる。
こんなところだろうか。この4つの中で注目したいのは、3番の橋周囲の様子から建物がまったく写っていないことで、これまでにご紹介した昭和4年(1929年)1万分の1地形図や昭和8年(1933年)の航空写真には、写真右側に建物(家屋)が存在しており、撮影角度から見て写り込んでいなければおかしいからである。
左下端ぎりぎりで見にくいが、どんどん橋右側には建物表記があり、コの字跨線橋の橋脚写り込みの具合からして、この場所に建物があったのならあの写真に写っていなければおかしい。つまり、73ページ1枚目の写真と3枚目の写真は同じ絵解き(池上線開通記念で同じ撮影日)としているが、双方の写真は同一日の撮影ではない。1枚目は昭和8年以降の撮影であり、3枚目は昭和4年以前の撮影と判断されるので、同じ絵解きとしたことは誤解を招くもの、いやそれ以前に単なる誤りでしかない。
では、3枚目の写真は昭和4年(1929年)以前の撮影とするなら、それは池上電鉄第三期線開業日(昭和2年8月28日)まで遡ることができるのだろうか。服装からすると8月28日のようには見えないが、正装(お祝い)となれば暑苦しい格好でも不自然であるとは言いがたいような気もする。決定的な証拠がないので保留とし、ここまで7回にわたって引っ張り続けた「池上線開通式典の写真を分析する」を総括する。
「目で見る品川区100年」の73ページの3枚の写真は、いずれも貴重で価値の高い興味深い写真ではあるが、その絵解きは誤りが多く、しかも品川区でない写真(2枚目のもの。ここは現在の東京都大田区田園調布一丁目)や池上線開通式典でない写真(1枚目のもの。これは昭和8年以降の踏切開通関連式典)が含まれており、読者に対してウソの押しつけとしかなっていない。このような地域の歴史を語るものは、なかなか絵解きの解説を適切に記述するのは困難であり、世に言う郷土史家と名乗る人のレベルは玉石混淆どころか天と地ほどに差がありすぎ、同じ肩書きを使ってくれるなといった印象を再確認できた、となる。といったところで、たった1ページで長々と書いてきたが、いったんここで終了。お疲れ様でした(苦笑)。
XWIN II 様
ご指摘の通り古いどんどん橋の後に地下化のときに新たに架け替えられたことは間違いなく、終戦直後友人の家を訪れましたが奇跡的にこの地域は戦災免れています。しかしりっこ様がご指摘されているように階段の落差が現在より大きかったことも確かです。昭和2年の橋を強化したのか全く新しい橋にしたのか、また橋脚を取り替えたのかあるいはコンクリートで補強したのか分かりませんが、車の通れない純然たる歩道橋ですので大掛かりな補強は必要なかったとは思いますが当初建設されてから年月を経ていますので何とも言えません。疑問として残るのは古い写真の両橋詰めに階段が無く地面とフラットになっていることです。現在は両方の法面の斜面にコンクリートの側壁を設けて盛り土して宅地化しているのでそのとき本来の標高すなわち田無道路の標高34,23メートルから橋のある所の標高32.5メートルの差1.73メートルだけ削りその分階段を設けたのだと思いますが、地下化の時により低い段差の階段を設けたことはなにか児童の通学に配慮した様におもいますが、何れにしても自転車でさえ年寄りには持ち上げるのに一苦労しますのでそれしか考えられません。何としても不可解な歩道橋ですね。橋のオーバーヘッドクリアランスは、田無道路の少し先から33.33パーミルで先述のかさ上げを考慮に入れれば5メートル位確保できるとおもいます。踏み切りの渡り初めは旗が東洗足誠交会のものとすれば、東洗足が旗が岡の営業開始と同時ですのでそのとき既に町会が設立されていたとは考え難いので開通式のものではないでしょう。踏み切りといい、跨線橋といい、地元との話し合いが難しいようですね。大森と川崎の間に未だに踏み切りが残っているので廃止が如何に困難かが分かります。何れにしてもウイキペディアを含みこの手の記述を鵜呑みにすると危険であることは間違いありません。今迄の貴重なご意見有り難う御座います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/09 16:34
いつも楽しみに拝聴しています。今回の例の写真は幻の橋そのものだと思っています。
かなり専門的な資料で分かりにくいところもあるのですが、旗の台駅からどんどん橋までの勾配は、開通当時と変わっていないのではないでしょうか?ゆえにどんどん橋も最初から階段つきのまま存在していると考えています。資料というものには間違った情報もかなりあることは、このブログでご指摘の通り。
例の写真のキャプションは、どんどん橋あたりであって、どんどん橋ではない。そのままだと思います。
追伸
昭和42年の頃のどんどん橋の階段は、一段がとても高く昇るのが大変でした。
投稿情報: nuu | 2011/07/09 23:01
私の推測です。
「どんどん橋辺り」と、場所をぼやかして書いているのは、この写真の持ち主も、特定ができなかったものと思われます。
「多分どんどん橋だろう」としたのは、この写真が、旗の台5丁目町会か、南町会の一般の方からの提供だったからではないでしょうか。少なくとも、踏切渡り初めの写真は、町会保存ではなく(私が送付いたしました2枚は町会保存なのですが)一般の方からのものだったそうです。
「品川区の100年」編集部としても、「どんどん橋の近在住居の方から提出された写真だから、多分どんどん橋だろう。でも、もしかしたら違うかもしれない。」ということで、あえて断定的にせず『どんどん橋あたり』という表現にしたように感じました。
どんどん橋は、「旗の台一の橋」という名称がついているものの、その名前は地元でほとんど認知されておりません。どんどん橋は、あくまでもどんどん橋であり、木造院電車両マニア様がおっしゃっておられるとおり、自転車の通行ですら、拒んでいます。そして私は、どんどん橋と言われるのは、やはりこれが両端に階段がついている、という、池上線の跨線橋の中でもユニークな形状の橋だったからではないかと思います。
この橋がフラットだったのか、最初から階段がついていたのか。これは、この橋の近くに住み、現在90歳以上で、記憶がしっかりした方にお話を聞けない限り、無理かなと思っております。ということは、かなり不可能に近いですね。
ならば、1枚の写真をもとにして、こうしていろいろ考察してみることは、そこには確たる正解は出ないかもしれないけれど、どの可能性も考えられるということで、これはこれで大変、ロマンのある、楽しい連載でした。
本当に、3枚の写真について、詳細な考察、ありがとうございました。
今まで見たことのない、数々の歴史的記録を表示していただいて、感激いたしました。これからもどうぞよろしくお願いいたします!
投稿情報: りっこ | 2011/07/10 06:12
nuu様
昭和42年頃のどんどん橋の階段が登るのにきつい程段差があったと述べられていますが、これは私の昭和8年代と昭和21年の記憶と一致します。何らかの理由で小刻みになったのでしょうが、地元の要望で段差が変更されたのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/10 11:33