前回でこの話題は終わらせようかと思っていたが、やはり状況がそれを許してはいただけそうにないこと(苦笑)、私自身やり残した感も強くあったので、今回も引き続き、ローカルかつピンポイントでディープな話におつきあいいただける方はよろしくということで。
さて、「目で見る品川区100年」の73ページ3枚目の写真は果たして通称どんどん橋のものなのか(絵解きにはどんどん橋付近とあって、必ずしもどんどん橋と特定はしていないが)、開通時(昭和2年8月28日)のものなのか、そして1枚目の写真との関係性はあるのかなどなど、コメント欄に頂戴したご意見等も踏まえつつ、またまた分析していこう。
まず初めは、3枚目の写真が本当に通称どんどん橋であるのか否かについて検討しよう。現況の通称どんどん橋は、正式名称を「旗の台一の橋」といい、昭和43年(1968年)11月に竣工したとある。橋はアーチ状になっており、線路から橋までの高さは5メートル以上はある感じだ。
そしてもう一度、「目で見る品川区100年」の73ページ3枚目の写真を見ると、
アーチ状にはなっておらず、掘割とした線路用地を跨ぐように板を乗せたような(こんな単純ではもちろんないが)格好となっている。これは高さに余裕があったのかなかったのか、あるいは単にぎりぎりの高さで施工しただけのものとそうでないものの違いなのか(法令や基準の違い)。確実に言えることは、池上電鉄線開通時から昭和8年(1933年)頃では長原駅~旗ヶ岡駅間には跨線橋と呼べるものが全部で2つしかなく、一つが通称どんどん橋、もう一つがコの字跨線橋(昭和8年までに撤去)である。
ここで、池上電鉄線(東急池上線)と道路等の交叉状況における昭和初期と現在の比較を行ってみよう。長原駅側より、大森田無線(現 環七通りに相当)、町界道路(現在の品川・大田区界)、通称どんどん橋、コの字跨線橋、新設踏切道、三間道路(現 三間通り)とあって、昭和4年(1929年)時点では、
- 長原駅 → 平面
- 大森田無線 → 平面交叉
- 町界道路 → 平面交叉
- 通称どんどん橋 → 立体交叉(線路が下)
- コの字跨線橋 → 立体交叉(線路が下)
- 新設踏切道 → 当時は存在しない(掘割で線路がやや下)
- 三間道路 → 平面交叉
で、現在(昭和43年以降)は
- 長原駅 → 地下
- 環七通り → 立体交叉(線路が下)
- 区界道路 → 立体交叉(線路が下)
- 旗の台一の橋 → 立体交叉(線路が下)
- コの字跨線橋 → 存在しない
- 新設踏切道 → 平面交叉(道路位置切下げ)
- 三間通り → 平面交叉
となっており、環七通りに対する連続立体交叉事業によって、立体交叉状況が大きく変わったことが確認できよう。特に区界道路から通称どんどん橋までの約100メートルほどの間は劇的な変化があったことは確かである。というのも、開業時からしばらくの間は、
- 町界道路 → 平面交叉
- 通称どんどん橋 → 立体交叉(線路が下)
だったものが、連続立体交叉によって
- 区界道路 → 立体交叉(線路が下)
- 旗の台一の橋 → 立体交叉(線路が下)
となったのだから。なお、池上電鉄(東急池上線)で最も標高が高いのは長原駅付近で、標高30メートル超あり、その前後の洗足池駅や旗ヶ岡駅(旗の台駅)は標高約20メートル程度であったので、短区間に10メートルという高低差を上り下りする必要があった。これが長原駅地下化(と連続立体交叉)によって、5メートル程度は頂点が引き下げられたのだから、急勾配も相応に低くなった(解消された)はずである。ところが、話はそう単純ではない。というのは、
この写真(旗の台駅側から旗の台一の橋方向を撮影)から確認できるように、旗の台駅方向から長原駅方面に向かうまでの間、上り勾配で進むものの、とある場所から下り勾配に変わり長原駅に向かうようになるのである。単純にだらだらと上り勾配にすればいいものを、わざわざ上った後に下るようにしたのはなぜだろうか。ポイントは、変曲点(上りから下りに変わる所)がどこか、である。この写真と先の長原駅側から旗の台一の橋を撮影した写真から、変曲点は旗の台一の橋(通称どんどん橋)あたりであることがわかり、ここから次のような推測ができる。
通称どんどん橋から新設踏切道、三間通り(三間道路)、そして旗ヶ岡(旗の台)駅方面の線路は、開業時から大きな高低差の変化(施工)はなく、連続立体交叉で大きな変化があったのは通称どんどん橋から長原駅方面で、中でも通称どんどん橋から町界(区界)道路の間が大きく線路が切下げられた。
当たり前の結論をわざわざ書く必要もないかとも思ったが念のため。区界道路はかつては池上電鉄線(東急池上線)と平面交叉していながら、それが現在では跨線橋(旗の台二の橋)となっているのだから、線路位置が大きく下げられたのは確かである。一方、線路の勾配を見ると、旗の台駅方面から旗の台一の橋までは上り勾配でありながら、そこから先より下り勾配とされているのは、かつては単調上り勾配だったものが連続立体交叉工事で長原駅周辺が約5メートル下になったことで、途中から下り勾配とする必要が生じたことによる。本来であれば、地下化されたとはいえ長原駅の方が旗の台駅よりもまだ標高が高いことから、電車の運行だけを考えれば緩やかな単調上り勾配とした方がいい。にもかかわらずそうしなかったのは、既存の道路との交叉、特に平面交叉を考慮に入れてのことで、三間通りや1枚目の写真にあった踏切道との高低差を存置し、そこから先、つまり旗の台一の橋から先の線路を切下げたというわけである。
よって、連続立体交叉前の旗の台一の橋(通称どんどん橋)から区界道路までの約100メートル程の間の急勾配が、実際にはどの程度のものだったのか。以下の簡単な計算から推測してみよう。
まず、区界道路から旗の台一の橋間を約100メートルとし、旗の台一の橋下の線路はそれよりも5メートル低いとする。そして、旗の台二の橋と旗の台一の橋の高さがほぼ同じとすると、区界道路から通称どんどん橋までの高低差も約5メートルとなる。つまり、100メートルの間に高低差が5メートル生ずるような勾配は単純に50‰(パーミル)となってしまうので、ちょっとこれはないだろう…となってしまう。
そこで、手持ち資料を漁ってみたところ、なかなかに興味深い資料が見つかった。それは、池上電気鉄道線路断面図と書かれた池上停車場から終点(五反田停車場)までが記載されたもので、この一部分を見にくいのを承知で掲載しよう。
上の方にある半分黒くて半分白い円が駅(停車場、停留場)の中心点をあらわし、左から洗足池前停車場、長原停車場、旗ヶ岡停車場とあるので、第三期工事区間のものとしては最も新しいものであり、この断面図に近い形で実施設計(施工)されたと見込まれる。この図から長原~旗ヶ岡間をトレースし、他位置関係を示すものを付記したものが以下の図(三間道路はもうちょっと左です。書き損じ…というかトレースし損じ)である。
長原から旗ヶ岡の勾配は 1/40、つまり25‰であることが断面図に記されているが、仮に町界道路からどんどん橋までも25‰とした場合、たったの2.5メートルしか高低差を確保できない。いくらなんでもそれはあり得ず、これは鉄道省への工事許認可申請を通過させるためのものではないかと予想する(池上電気鉄道の十八番)。
とはいえ、この断面図が大いに参考になるのは間違いなく、どんどん橋あたりでは掘割部分で跨線橋は欠かせないものとなるだろうし、1枚目の写真の踏切に関してはわずかに地面(道路)の方が高いため、そのままでは線路と平面交叉はできず、道路側を切下げなければならないことも裏付けられる。
では、ここまで見てきたことで一つ目の(ようやくかよと感じた方、どうもすいません)問いに対する答えを出そう。あの写真は通称どんどん橋のものなのか。私の見解は、どんどん橋を南西方向から撮影したものと見る。撮影場所は、現在でいうと東京都品川区旗の台五丁目20番、ゼンリンの電子地図で示せば以下のとおりだ。
大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
こことした理由は、
- 長原駅~旗ヶ岡駅間の跨線橋は、通称どんどん橋と一時期のみ存在したコの字跨線橋しかなく、両方とも当該写真には写されていること(コの字跨線橋は橋脚くらいしか見えないが)。
- 当該写真の奥側を見ると、だんだん下りになっていくように見える。もし、長原駅方面を向いて撮影したなら、むしろ奥側の方が高くなっていくように見えるはずであり、このように見えるのは旗ヶ岡駅方面を向いての撮影となること。
- これはまったくあてにはできないが、電柱の位置関係が似ている。当該写真には跨線橋の手前に2本の電柱があるが、現在もほぼ同じ位置に(当時とは異なるが)電柱がある。
といったところか。とここで、いったん続きとします。続きはこちら。
数字に弱いもので、大変精査して書かれておられるのだろうということぐらいはわかるものの、頭の中に正確にその姿がインプットされなくて、残念です。(単に私がおバカだ、ということでアリマス)
ただ思うのは。
このどんどん橋とされる写真が、どちら方向を向いていたとしても、「前方に踏切が見えない」ということ。
これが、幻の跨線橋に向いているのならば、隣りが踏切でなくて(今の写真を見ると、踏切はすぐそばにあるのですね)跨線橋だった。ということになりますが。
反対を向いていたとしたら、そこにこそは、踏切がなくちゃならない。これもありませんよね。
だから私は、長原方面から旗ヶ岡方面に向かって撮った写真だろうと思っています。
で、これがどんどん橋の原型なのか。と思うと。
不思議な感じがします。階段のない、どんどん橋なんて……
投稿情報: りっこ | 2011/07/03 20:38
東京都建設局が作成元である大田区立図書館の東京都都市計画図昭和32年版に示されている海抜を見ると
環七の所で34.23メートルでどんどん橋を通る道の海抜が32.50メートルと記載されています。その差が1,73メートルですので写真の橋の橋詰めが車が通れる様になっていたとすれば、後から盛り土した道路を住宅を建てるために取り除いたことになり、公道としてそのようなことが許されるものかと疑問が残ります。旗の台駅の次の三間通りの踏み切りと次の踏み切りのほぼ中間に33.33パーミルの勾配標識がありますのでその辺から登り始めてどんどん橋のところで5パーミルの下り勾配になっていることは以前にも述べましたが、私はやはり環七の立体工事に対する工事費の都による負担が関連していると思います。大田区で切り貼り編集していますので品川区の区境の部分だけですので都立図書館で更に調べてみますが、大体この程度の海抜差であるとおもいます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/03 22:34
新旧の橋脚を比べてみると新しい方は底部のコンクリートが強化されており、上部の扇型部分がコンクリートで覆われているように見えます。鉄の柱はコンクリートで覆うことで錆びとり、錆び止めと塗装の必要が無くなるのか専門家ではないので分かりませんが、以前の橋は交換されたのでしょうか。実地検証しても分かりませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/03 23:02
区境道踏切の当時の掘り下げと環七からの勾配など、皆様の丁寧な解説と、改めてスキャンしていただいた写真で疑問が氷解しました。
橋の右手に高さ2m程度の斜路の擁壁が見えるので、確かに「どんどん橋」位置での線路と橋のレベル関係はあまり変化していないのですね。斜路の背後には空しか写っていませんが、ここは昭和4年の地図では既に宅地開発された旨のハッチがかかっていますから、やはりこれは昭和4年より前に撮影されたものということになりますね。
投稿情報: titus | 2011/07/03 23:12
検討違い、というご批判覚悟の上で、あえて全くの異説を唱えてみます。
この橋が、果たして、「どんどん橋あたり」だったのか、ということです。
品川Web写真館に、池上線が地下化される以前の太鼓橋付近の写真として
(太鼓橋ってどこでしょう(;^_^)?)
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/photo/?cls=srchdtl&pid=886
が載っています。
背景の橋には車が通っておりますので、橋がフラットなんだ、ということがわかります。
私は、この線路の直線っぷりが、上記の「どんどん橋あたり」の写真とそっくりだなぁと思いました。
もしやして、撮影された場所が全然違う。。ということも、何せ「品川区の100年」ですから、あり得るかも(;^_^)
ちなみに、この写真は、町会誌の中に入っていた写真かどうか、まだ定かではありません。少なくとも抜粋版にはありませんでした。73ページの踏切通り初めの写真以外は、出展が全く違う、ということも考えられます。
投稿情報: りっこ | 2011/07/04 09:05
新旧の写真の線路の両側を比較すると、ハッチでも分かる様に最近宅地造成などによく見られる側壁を斜面に設けてそこに盛り土して鉄道用地いっぱい迄宅地を広げている様子が分かります。所有の関係がどうなっていたかわ分かりませんがこれも両側の階段と関係あるかもしれません。
国際公文書館の平運輸02156100昭和2年分
08月01日双信閉塞器設置および変更
08月19日勾配変更
08月20日桐が谷仮停車場云々
08月22日跨線橋変更新設
08月23日跨線橋仮設
08月25日仮線使用期限延長
08月26日桐が谷停留場を仮停車場に変更
08月27日雪が谷桐が谷間旅客運輸営業開始
09月27日桐が谷仮停車場を停留場に変更
昭和3年分
03月03日自動閉塞信号機設置云々
03月19日自動閉塞信号使用開始云々
の内容を見ればある程度つかめるかもしれませんがあまり期待できないかもしれまんが、昭和2年8月28日に開通と言っても桐が谷ではざっくばらんのところお祭り騒ぎする程のことは無いと思いますが。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/04 09:29
XWIN II Weblog
2010年06月06日のこの橋の竣工日が昭和43年に付け替えられていることを見落としました。私が最後にこの橋を渡ったのは昭和21年頃に友人の家に行った時ですが、橋の段差がもっと高かった、即ち段数が少なかった様に思いましたが、付け替えの時に段数を増やしたのでしょう。子供の通学に考慮したのでしょうか。大人には段差が低すぎる様に思いますがコメントをお待ちしています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/04 18:33
木造院電車両マニア様
段差ですが。我々が小さいときも、もっと1段、1段が高かったと記憶しています。もしかしたら、木造院電車両マニア様が上られた階段と、我々とは同じものだったかもしれません。
先日、実際に上り下りしましたが、階段はかなり年季が入っておりました。でも、我々が小さいときには、この階段ではなかったと、一緒に歩いた友人とも話をいたしました。
投稿情報: りっこ | 2011/07/04 20:17
りっこ様
写真は平塚1葉目9にある戸越銀座の踏み切りから次の跨線橋の上から荏原中延に向かって次の跨線橋を撮影したものの様です。地下化前はその橋から33.33パーミルの勾配で次の踏み切り迄登っていました。写真が荏原中延に向かって撮影されている証拠として右下の電車に電力を供給するためのケーブルと信号用の3300ボルトのケーブルが見えることで電車が五反田方面に向かっていることが分かります。これが太鼓橋と呼ばれていたかどうかはしりませんが、撮影点は現在の住居表示になっているので撮影日時は今日の住居表示となった後でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/05 00:33
りっこ様追伸
写真の右側は京陽小学校の一部のように見えますが自信はありません。跨線橋の先から登って26号道路と平面交差していましたが、現在は立会川の手前迄地下化されています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/05 00:59
りっこ様
どんどん橋
貴女様の段差の印象が正しいとすれば、架け替えた時に地元の要望を汲んで浅くしたと思いますが、東洗足誠交会は駅の移転とともに活動を停止したと聞いておりますので、この辺を地元の有力者に聞けばその辺の事情が分かるかもしれませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/05 09:37
XWIN II様
池上電気鉃道線路断面図に関して戸越銀座から26号道路の踏み切り迄の勾配は実際は33.33パーミルでしたがその旨の記載が免許申請に添付された図面に記載されているでしょうか。多分通り易くするために25パーミルとして認可が下りてから設計変更すると言う田中角栄が好きそうな常套手段をここでも多分使っているでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/05 12:09
>木造院電車両マニアさま
ありがとうございます。
この文章はどこか変ですね。
「地下化される」って、荏原中延のあたりが地下化されたのは、平成元年ですから、それより16年も昔の写真を載せて、「地下化される」もないもんだと思います。
ところで、旗の台に行ってまいりました。
南町の役員であるとある商店主に、渡り初めの写真の場所を聞いたら、あっさり「旗の台文化センターのところだよ。」と言われました。あの写真は、結構有名らしいです。
そして、同日のもっと他のバージョン写真もあるらしいのです。発掘を待ちたいところです。
投稿情報: りっこ | 2011/07/06 17:21
りっこ様
ご指摘のとおり地下化との時差が大き過ぎて気の抜けたビールのようですね。
渡り初めの写真ですが、清水湯の煙突の少し右の三間通りと交差する辺りとまた東洗足の裏の三間道路に面してに結構大きな建物が見えますが住宅ではないようです。商業地図には載っていませんが、付近に家屋がかなり密集しているので昭和2年とは思われませんが、店主の方は撮影が何時頃か述べておられましたか御尋ねします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/06 19:54
>木造院電車両マニア様
残念ながらそこまではわかりませんでした。これは、確定情報ではないのですが、その店主のお母様が、あの式典に参加していたみたいなんです。「あれは、何かのお祭りで、お菓子を配るというので子供が集まったらしいよ」とのこと。ただそれ以上のことは無理でした。彼のお母様は数年前に亡くなっておられるので……何とも残念であります。この店主のおたくには、その当時の風景写真はないとのことでした。
投稿情報: りっこ | 2011/07/07 08:00
りっこ様
情報有り難う御座います。昔のことをご存知の方が次々と他界され情報を得ることが日々困難となる事は残念ですが致し方の無いことですね。ここで掲題の写真の旗の一方が東洗足誠交会のものとすると東洗足も旗の台もほぼ同時に開業していますので、開通した時点で既にこの町会が存在したかどうかを確かめればこの写真の撮影日時もある程度分かるかも知れませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/07 21:23
公文書館の記録によれば、言い訳として沿道町村の希望、踏み切り道路跨ぎ橋の関係で勾配を1/30{33.33パーミル}に変更すると、届け出ています。何とでも言い抜けできるのですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/08/17 21:12