一週間のご無沙汰です。
さて、前回の話題の続きで電子書籍に対する愚痴みたいなもの。テキストが電子データになって何が便利になるかといえば、電子書籍にかかわらず「検索が簡単にできる」というものが第一にあげられるだろう。30年以上前、電子書籍などという言葉がない時代で、今から振り返ればそれほど長くないテキスト(2,000文字程度)であっても検索できるというだけでメリットがあった。
そう、電子データ(テキスト)となって最も利便性が向上したとなるのは、何と言っても「検索のし易さ」を第一にあげることができるのだ。いかに頭から読むだけの電子書籍と雖も、本に索引はつきものであるし、しおり(付箋)も当たり前に使えなければならない。紙の本と電子書籍では「解像度」という差を埋めることが当面の間は困難であるのだから(Retinaとかいったところで紙の書籍にははるかに及ばない)、紙の本を超えるものがなければ同価格の価値はない。それは軽いとか、たくさん持ち運ぶことができるとか、可搬性の点で大きなメリットがあるとはいえ、実際の「読書」という行為において、電子書籍ならではのメリットが発揮できなければならないわけだ。
これが「通常の(リフロー型の)」電子書籍であれば、文字の大きさを自由に変えることができる、目次からのリンクでページジャンプができる、不明なキィワードを電子辞書で意味をすぐに調べることができる、そして文字列の検索ができるという、紙の書籍では困難なことが当たり前のように簡易にできる。だが、単なる画像データではまったくそういうことを望むことができない(目次だけは画像データにせずに対応しているものもあるが)。
確かに、中にはレイアウト固定型でなければならないものもあるだろう。だが、既にPDFではそんなことは当たり前にできている。いわゆる画像PDFでなければ、レイアウト固定で画像や図がたくさんあるものであっても文字列検索はできるし、辞書検索だってできる。そういうものが既に実現できていながら、電子書籍ではそれができない。マシンパワーの問題、もないわけではないが、最近のマイクロプロセッサであればARM系であってもそこそこ展開時間はかからないはずである。
そこで行き着くのは、結局手抜きだということでしかない。文字中心なのに画像データ、古文(書体)のように画像データであることそのものに意味があるのならまだしも、そうでないものに存在価値はない。そう言いたいくらい増えてきている現状を憂いつつ、今回はここまで……… なんか前回と同じことを書いているが、要はそれだけ憂いているということで。
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