「数値と客観性 科学と社会における信頼の獲得」(著者:セオドア・M・ポーター,訳者:藤垣祐子,発行所:株式会社みすず書房)は、1996年に北米で出版された「Trust in Numbers: The Pursuit of Objectivity in Science and Public Life」(著者:Theodore M. Porter)の全訳である。原著は1997年頃購入したが、あまりに難解(というか様々な教養を求められる)だったので、つまみ食い的にしか読むことができなかった。それがようやく今年になって、みすず書房さんから邦訳版が出るというので、前のめりで待っていた。そして、先月ようやく手にすることができたのである。
本書の帯には、
なぜ「数字は正しい」のか。ギリスピーとクーンに学んだ科学史家が、数値化の政治・文化を照射。ローカルな知識か客観性か。専門家に対する信頼がゆらぐとき。国際科学技術社会論学会Fleck賞。
とあるように、一般的には客観性を持つとされる数値化が必ずしも自明ではないことを論じている。さらに、本書裏表紙には、
GNP,PISA,放射線量.数値にした瞬間に一人歩きするものは世に多い.なぜ数字になると信頼するのだろう。どうして星や分子や細胞の研究で成功した方法が、社会の事象をあつかうにも妥当と認められるようになったのか.ギリスピーとクーンに学んだ科学史家が,19-20世紀イギリスの保険数理士,フランスの技術官僚,アメリカ陸軍技術団の史実に即し,社会が数値化される過程を徹底追求.ひるがえって自然科学にとっての数値化の意味を照射する.
ローカルノレッジ(局所的な知識)を越える卓抜な技術としての標準化.専門家の裁量に不審の目が向けられるとき.エキスパート・ジャッジメントか客観性か.
科学者共同体と社会の鮮やかな政治的・文化的構図を描き,1997年4S(国際科学技術社会論学会)Fleck賞受賞.「日本語版への序」には,東日本大震災とフクシマの原子力発電所事故から2年後の日本の読者にあてたメッセージをふくむ.科学技術社会論をリードする訳者が明快な改題を付す.
と、本書の概要がわずかな文章で的確に示されているように、数値化とは客観性を示すだけでなく、その評価としての客観性にまで昇華される。だが、それは評価する側の信頼性が失われていく過程でもあったのだ。
振り返れば、中国の春秋戦国時代。戦いの勝者とは戦闘に勝利するだけではなく、礼に合した行動原理を伴っていなければならなかった。のちには礼など無視して何が何でも勝てばいいとなり、最後にはどれだけ相手将兵の首を多く切り取ったかが勝利の判断基準となった。要するに、礼に合しているかという高度な判断(エキスパートジャッジメント)ができる人がいなければ、あるいはそれを判断する人の信用が失われれば礼などどうでもよくなるのはもちろん、さらには勝利者の判定が敵の首を切り落とした数(誰でも数えられる客観的指標としての数値化)となっていく過程も、本書が指摘する「数値と客観性」の一例だろう。既に2000年以上前の中国でこうだったのだから、本書で指摘していることは普遍的なものであると言えるかもしれない。
また、本書には原著にはない「日本語版への序」が追加され、ここにも著者の興味深い指摘が多く見られる。やや長いが以下に引用すると、
本書6~7ページ
東日本大震災とフクシマの原子力発電所事故から二年後の二〇一三年に日本語版が出版されることを想うと、本書が技術者に焦点をあてていることは、たいへん的を射たものに見えることだろう。しかし被災地でいっそう直接的な論点となっているのは、コストに対する便益比というより、リスクの定量化である。公共的意思決定の道具としてのリスク計測の技術は、いまや少なくとも費用便益分析なみに洗練されている。日本の原子力技術者は、アメリカの技術者が直面したような世間一般による監視の目からは、驚くほど切り離されていた。このことは、彼らの実践してきた定量化の形式に反映されているに違いないと私は考えている。アメリカ式の計画立案と計算は明らかにオープンネス(公開性)が高いが、そのことがより高い安全基準をもたらすのかどうか、重要な問いではあるけれども私には答えられない。疑わしく思う理由はある。アメリカの原子力産業の人目を引く公式ウェブサイトは、アメリカの原子炉のすばらしい安全性を謳うばかりで、震災までは世界のモデルと目されていた日本のシステムが失敗したことを、それによって自国の安全評価を見直さなければならないかもしれないにもかかわらず、認めようとしていない。リスク心理学の専門家にとって、原子炉は長らく、素人の非合理性を示す格好の例と見なされてきた。というのも普通のひとびとは「あらゆる証拠」にもかかわらず、巨大原子力発電所のほうが自転車や家電製品の危険性より不安であると一貫して言い募ってきたからだ。公衆の疑念を和らげ、疑いのかけられた事柄を取り扱うには、まず、数値や計算が動員されるだろう。
とあるように、公共的意思決定の道具として専門家の判断ではなく、リスクを数値化したもの(これが一人歩きしているものも含む)であること。そして、日本のシステムの失敗を顧みない米国の原子力産業を批判しつつ、実は日本(政府)自身がその失敗を顧みていないということにも気付かされるのである。
というわけで、本書は実に読み応えのある、示唆の多いものであって、今年購入した書籍の中で間違いなく五指に入ると思っている。そんなこんなで今回はここまで。
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