今回は、標題にあるように東京都目黒区にある東急東横線及び東急大井町線の自由が丘駅前が、1940年(昭和15年)当時どうだったのかを地図で確認してみようという内容である。では早速、地図から確認。
これは住宅地図のように見えるが、いわゆる火災保険地図と呼ばれるもので、火災保険会社はこの地図を参考に保険料設定に利用していたためにその名がある。建物が木造なのか鉄骨(鉄筋。不燃系)であるかや、建物が建て込んでいるか否か、接道状況はどうか、などなど現地確認を行う前に参考とするには十分な内容を持っている。
さて、地図を見てみよう。既に自由ヶ丘駅は東横線が上(高架)、大井町線が下(地上)という構成となっているが、当時2両ないし3両編成であったため、ホーム延長は今ほど長くはない。東横線ホームは大井町線を跨ぐ部分までホームは延びておらず、1本の島式ホームであることから急行電車と普通電車の乗り継ぎもできない構造である。一方、大井町線は自由ヶ丘駅出入り口の場所(現在の自由が丘東急プラザ)から二子玉川寄りは現在とほとんど変わらず、現在の6両編成対応は大井町側にホーム延長されたことが確認できよう。
そして先にふれたように自由ヶ丘駅本屋は、現在の自由が丘東急プラザの場所にあり(自由が丘東急プラザは当時の駅本屋より西側に大きく張り出している)、小さいながらも駅前広場もある。東京横浜電鉄が本路線を建設した当初は駅前広場などない駅ばかりだったが、ここ自由ヶ丘駅は以前に当blogでふれたように、二子玉川線が奥沢駅から九品仏駅(自由ヶ丘駅→自由が丘駅)に接続駅が変更になった際、九品仏駅の位置を南側に移動し、駅名も衾駅と変える予定だったものを地元の強い意向で自由ヶ丘駅とした。この移転・高架化工事とあわせて駅前広場が作られたのだった。なお、現在の駅前広場は1940年の地図に「自由ヶ丘」と書かれている下の2街区(自由ヶ丘駅と東横線に隣接する街区。その右側(西側)の街区)も駅前広場となっている。自由ヶ丘駅周辺は駅付近を米軍による空襲で焼かれており、駅前広場となった2街区もそれにあたり、戦後間もない1946年(昭和21年)に地主によって寄贈されたのである。
さて、火災保険地図で興味深い点を見ていこう。左上に「石井漠舞踏体育学校」と表記されているのは、舞踏家として著名な石井漠氏が開いていた学校(教室)で、自由ヶ丘と命名される前から当地域に居住し、衾駅から自由ヶ丘駅への改称運動に携わった方でもある。今はTSUTAYAなどがテナントとして入っている「自由が丘エヌケービル」となっており、石井氏の関係者がかかわっているかはわからない。
そして、今も健在なのは不二家書店。場所は現在地ではなく、今は駅前広場となった場所であるが、いい場所にあることに変わりはない。他に現在まで続いているところは、あまり自由が丘の店舗については承知していないので何とも言えない。なので、この地図上に明記されている店舗をすべて列挙することで、誰かに気付いてほしいと他人任せとしたい(苦笑)。パンヤ、セトモノヤ、肉ヤ、八千代食堂、モスリン店、川辺カメラ、吉田クスリヤ、菊地歯科医院、十菱本ヤ、クツヤ、田中セトモノ、スシヤ、キッサ、ヤマヤ食品店、栗山手芸店、石川写真館、小森洋装店、菓子店、コーヒー、ラヂオヤ、根元玩具店、寝具ヤ、ゲタヤ、菅田菓子店、本ヤ、ワカバ洋装店、レコードヤ、ささき料理、クダモノ、むさしや呉服店、洋品店、京染店、むさしや雑貨店、朝倉クツヤ、飯尾トケイ、内田センベイ、木村ヤパン、ポパイカワグチ、加賀見菓子店、小川雑貨、森田商店、堀クスリヤ、イヅミヤ洋品店、ナルセ文具店、平井花ヤ、パリー院、福島ハキモノヤ、松永家具店、山田ハキモノ、村林金物店、自由ヶ丘市場、運送店、吉田ペンキ、麻雀トキワ、ラヂオ鈴木、ソバヤ、岡田魚ヤ、蟹江医院、丸井家具店、タンポポキッサ、古賀造型社、渡辺印刷所、室賀風呂店、床ヤ。
最後に比較のため、1941年(昭和16年)撮影の航空(空中)写真をご紹介しよう。火災保険地図よりも範囲を拡大してあるが、近い年代であることからおおよその見当はつくはずだ。といったところで、今回はここまで。
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