最近、雪ヶ谷駅(→雪ヶ谷大塚駅→雪が谷大塚駅)に関していくつか進展があったが(雪ヶ谷→雪ヶ谷大塚への改名時期が昭和17~18年1月までに行われた。奥沢線計画時には現在の石川台2号踏切南にあったものが実際には石川台3号踏切南に移った等々)、近いうちにこれをまとめようと考えている。この考えを整理する過程で、次のような史料(資料)を加工・作成してみた。名付けて、雪ヶ谷(雪が谷大塚)駅変遷過程図(まんまですね)。
まずは、昭和4年(1929年)1万分の1地形図。これより以前の1万分の1地形図はないが、2万分の1地形図や3,000分の1都市計画図は当blogでも紹介したことがある。雪ヶ谷駅は、奥沢線(新奥沢線)開通により北側に100メートルほど移動し、地図上の位置に移った(地図上の北側に雪ヶ谷駅が存在したことはない)。
昭和11年(1936年)撮影の航空(空中)写真。昭和8年(1933年)撮影のものもあるが、相当にピンボケであるのでほとんど参考にならない。雪ヶ谷駅は、まだ奥沢線(新奥沢線)があった当時の場所にあることが写真からわかる(駅本屋が白い長方形として見える)。
昭和12年(1937年)1万分の1地形図。推測だが、昭和11年撮影の航空写真を補正用として活用したのではないかと見ている。ただし、雪ヶ谷駅が南側に移動しているので、これは航空写真を参考にせず、移動後の場所に書き直したとなるだろう。
昭和22年(1947年)航空(空中)写真。雪ヶ谷大塚駅と改名したのは、昭和17年~昭和18年1月までの間。このあたりは太平洋戦争中、幸いにして空襲から免れたため、昭和19年(1944年)撮影の航空写真とほとんど変わらない様子である。改名と駅の移動はリンクしていないことも、この写真とその前の地図とで確認できるだろう。無論、昭和8年(1933年)に調布大塚駅と合併もしていないし、雪ヶ谷大塚駅と改名もしていないし、駅の位置も変わっていない。にもかかわらず、昭和8年にこのようなことがあったような文献があるのは、「東京急行50年史」に誤った情報が多数記載されているためである。東急電鉄から委託を受けた学者の罪は重いし深い。
そして現在。建物は変わっても、都市構造はほとんど変わっていない。雪ヶ谷大塚は雪が谷大塚と表記を変え、駅ビルもできるなど変化はあるものの、駅の場所は変わっていない。「続・初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」をあわせてご覧いただけば、初代と三代目(現在)の位置がほとんど同じで、二代目だけが石川台3号踏切南側にあったとなる。どう考えても、石川台1号踏切そばに初代雪ヶ谷駅があったというのも疑問符しか付かない。
以上、これらを踏まえて近いうちに雪が谷大塚駅の歴史をまとめたいとしつつ、今回はここまで。
1924年の復興局の制作で出版人が遠藤市次の調布北部の地図によると、まだ奥沢線もまた雪谷から先の工事すら行われていない状態で、雪谷駅は昭和4年の地図とほぼ同じ場所にあります。石川台3号踏み切りは従ってありません。この地図は地図で見る大田区に掲載されていたもので、原版から縮尺されていましたので、他の区域との繋ぎ合わせに苦労しました。原版は国会図書館にも無く、恐らく大田区の教育委員会のどなたかがお持ちなのでしょう。国会図書館でも他の地域でも原版が失われたものも多数有り、貴重な存在だと思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/04/09 10:23