ここ数回は、地域歴史研究関連の話題を連続しておおくりしているが、「回想の東京急行Ⅰ」及び「回想の東京急行Ⅱ」とWikipedia日本語版の誤りに関して費やしてきた。で、改めて読み返してみてバランスを欠いていることに気付いたので、もう一回だけ連続して地域歴史研究関連の話題を続ける。タイトルにもあるように、Wikipedia日本語版の旧目蒲線部分に関しての誤りを検証し、旧池上電気鉄道及び旧目黒蒲田電鉄の各駅情報を総括する。なお、Wikipedia日本語版を最終確認したのは、2010年2月24日午前5時00分である。
不動前駅
「「目黒不動前駅」からすぐに「不動前駅」に変更されているが、これは目黒不動尊へは当駅からも隣の目黒駅からも最寄り駅であったためである」←意味不明。むしろ、これに続く文となる目黒駅との紛らわしさという方の主張が妥当だろう。
「当駅が目黒不動への一番の最寄り駅であることをアピールするため、あえて紛らわしい「目黒」を抜いて「不動前駅」にして集客を増やしたとされる」←「~された」という類推の類なので、気にすることはないが、実際には改名直後にたいして増えてなどいない。
年次 目黒駅 乗車客/降車客 不動前駅 乗車客/降車客
大正12年 1,218人/1,218人 13人/13人
大正13年 8,218人/8,218人 52人/52人
大正14年 15,401人/15,401人 448人/448人
大正15年 20,325人/20,325人 1,840人/1,840人
大崎町郷土教育資料(大崎町小学校長会。昭和7年9月30日発行)より。人数は一日平均。
以上のように、不動前駅の乗降客は終点(始点)で乗換駅の目黒駅に比べて少ないのは当然だが、不動前駅に改名したことによる乗客増があったかと言えば微妙だろう。大正14年(1925年)以降、急激に増えるのは、関東大震災以降の人家密集によるものである。
武蔵小山駅
「開業当時は「小山駅」だったが、同名駅がすでに東北本線に設置されていたため、旧国名「武蔵」を冠して「武蔵小山駅」となった」←このように言われているし、また同時期に武蔵を冠した改名も行われているので、私もこれが正しいとは思う。だが、武蔵小山商店街の歴史を調べてみると、大正10年(1921年)田園都市株式会社に対して、小山停留場誘致請願が成されており、この翌年までには商店街(会)として「武蔵小山」という名が誕生している(武蔵小山という呼称自体は大正9年とされている)。つまり、武蔵小山とする「武蔵」の冠称はこれをきっかけとした可能性があることを指摘しておく。
西小山駅
「もともと西小山は大正時代に渋沢栄一が作り上げた閑静な高級住宅街で駅設置の予定はなかったが、近隣に武蔵小山駅が設置されると小山に住む住民が増加し、武蔵小山駅だけでは手狭になったため、急遽当駅が設置された」←完全な誤り。まず、西小山は田園都市株式会社の分譲する田園都市圏外であり、立会川の低地地帯であるので高級住宅地とは無縁である。関東大震災以降、武蔵小山駅が混雑したのは事実であるが(そのために早くから駅に接続する地下道が設けられている)、これが理由で駅が設置されたのではない。積極的な理由は、この付近の立会川周辺が三業地の指定を受けることを見越したことによるもので、さらに繁華街となることが明らかになったからである。もちろん、駅間距離(武蔵小山~洗足間)が長かったことも理由の一つだろう。また、渋沢栄一が云々のくだりは勘違いを通り越して錯誤と言っていいものだろう。
洗足駅
「元々の地名は「荏原郡千束郷」で当駅も「千束駅」になる予定だったが、近隣の洗足池の伝説にちなんで「洗足駅」として開業した」←誤り。元々の地名というものをどこまでさかのぼるかによるが、洗足(千束)池の伝説に因んでではなく、洗足田園都市という分譲地名が洗足駅という駅名に先行しており、駅名の由来とするなら洗足田園都市に由来する、となる。ただ、大正10年(1921年)に田園都市株式会社が第二期線となる目黒駅~大岡山の免許時には、当駅は「碑文谷駅」と仮称されており、千束駅は第一期線(大井町駅~旭野間)の途中駅として別に存在していた。これが、目黒蒲田電鉄設立前後までの間にどのような経緯があったのかは未調査だが、碑文谷駅が千束駅となり、さらには洗足駅として開業となった流れである。ただし、洗足という漢字が採用されたのは、日蓮上人の袈裟掛け松伝説に因むとして正当。
「また大井町線の北千束駅とも駅名が似ているが、こちらも当駅や洗足池駅と同じく「千束」に由来している。漢字が違うのは、行政区域が違う(当駅は目黒区洗足、北千束駅は大田区北千束)からである」←誤り。現在の行政区域及び町名は今日の東急目黒線や東急大井町線の開設後に決まったものであり、目黒区洗足は洗足田園都市に由来したもので、洗足を田園都市株式会社が採用したからにほかならない。一言で誤った理由を言えば、歴史的経過を無視し、後付けの知識だけで判断したことによる。
大岡山駅
「明治時代には荏原郡碑衾町大字衾字平南大岡山・平北大岡山と読まれていた」←誤り。細かいが碑衾町となったのは昭和になってから。明治時代は村である。また、明治22年より前は、当地域は衾村だった。また、読まれていたというのは意味がわからず、地租改正時に字名として命名されたとする方がよい。
奥沢駅
「元の地名(荏原郡奥沢村)が由来。ただし、開業時は奥沢村ではなく玉川村になっていた」←誤り。荏原郡玉川村大字奥沢に由来。町村制度と大字との関係を理解していないための誤りと思われる。もちろん、明治22年(1889年)に玉川村が周辺村を合併して誕生する以前は、荏原郡奥沢村であったのは確かであるが、駅の開設された時期(大正12年=1923年)を考えれば、奥沢村が由来とはならないだろう。
田園調布駅
「駅設置当時、荏原郡調布村大字上沼部字旭野に立地していたが、村名を採って「調布駅」としたものである。間もなく「田園」を冠することになるが、東急では「田園都市づくりから」としている」←誤り。これは東急電鉄(グループ関連会社含む)の社史に誤った情報が記載されているのが、根本的な問題と言える。では、個別にあげていくと「大字上沼部」ではなく「大字下沼部」が正しい。また、大正15年(1926年)田園調布駅となったのは、その前年に荏原郡調布村に区制(当時の市制町村制における区設置規定のこと。いわゆる行政区や特別区のことではない)が敷かれ、田園都市株式会社が分譲する調布田園都市の区域が田園調布という区域名になり、これを採用したからである。間接的には「田園都市づくりから」ではあるが、それは東急電鉄(目黒蒲田電鉄)によるものではないことを強調しておく。
「2009年現在は駅名に合わせて「田園調布」となっている」←誤り。現在から見れば一致しているので、そう見えるのも仕方がないが、歴史的経過からすれば誤りである。先にもふれたように田園調布は、調布田園都市の区域を第二区として成立。それが駅名に採用される。そして、昭和7年(1932年)にこの地域が東京市に編入される際、田園調布区域を含む東調布町大字下沼部、同上沼部のすべてが田園調布一丁目から四丁目までに拡大採用され、のちに田園調布一丁目~七丁目に再編成、そして住居表示制度によって現在の田園調布一丁目~五丁目、田園調布本町、田園調布南となるのである。要は駅名からではなく、調布田園都市に由来したのである(上沼部、下沼部の名放棄)。
多摩川駅
由来の記載なし。
沼部駅
記載の致命的誤りはない。
鵜の木駅
由来の記載なし。地名の由来なら別記事にあり。
下丸子駅
記載の致命的誤りはない。
武蔵新田駅
記載の致命的誤りはない。
矢口渡駅
記載の致命的誤りはない。
以上で、東急目黒線(都内のみ)及び東急多摩川線の検証を終える。東急多摩川線は「記載の致命的誤りはない」としているが、ほとんど記載がないので誤りようがないとも言える。さて、次回こそ、地域歴史研究関連以外の話題をおおくりする予定である。
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