東京都目黒区洗足。この町名の由来については、かつての田園都市株式会社(現在の東急電鉄の前身…というか母体)が最初に分譲した際、洗足住宅地として命名し、最寄り駅名を洗足と定めたことに加え、自身がこの地に本社を移転させた際、正式には荏原郡碑衾村大字碑文谷字南原であった地名を東京市外洗足町と自称(碑衾も碑文谷も荏原郡も表記したくなかったのだろう)するなどして定着したものが、昭和7年(1932年)この地が東京市に併合されるにあたり、東京市目黒区洗足として正式町名となった由来がある(長い文になったな…)。つまり、この地はもともとの地主(おそらく江戸期以前より由来)から田園都市株式会社が土地を買い上げ、耕地整理組合(田園都市株式会社による一人施工)を立ち上げ耕地整理(区画整理)し、土地分譲を行ったものである。よって、どんなに早くともこの地の土地を購入できるのは図面販売時の大正11年(1922年)6月であり、実際に住宅を建設できるようになるのは、耕地整理工事も終了に近づいた大正11年(1922年)年末から翌大正12年(1923年)前半であった。(分譲地に必須となる電気供給を田園都市株式会社は大正11年末に開始。)
住宅建設が始まった頃、まだ目黒蒲田電鉄線(現在の東急目黒線及び東急多摩川線)は工事施工中であり、目黒駅~丸子駅(現在の沼部駅)の開通は大正12年(1923年)3月10日だった。そして、その約半年後、関東大震災に見舞われることになるが、洗足分譲地にあった40戸あまりの住宅にほとんど被害はないという話が渋沢秀雄氏から伝わっているので(一方、電車運行に欠かせない千束変電所は倒壊した)、第一期分譲が約400区画あったとはいえ、図面販売から1年3か月、耕地整理工事完了後からおおよそ8か月の時点で、まだ1割程度の状況だったことが伺える(土地を購入しても即座に住宅建設を行った事例は少なかった)。
しかし、このような状況下であったものの、田園都市という今はもちろん、当時はさらにまか不思議な社名を採用した田園都市株式会社は、社会事業的な位置づけも持っており(発起人の渋沢栄一氏自身がそうであるため)、新たな洗足住宅地に土地だけを売るのではなく、そこにコミュニティの誕生までもかかわるよう動いていた。大正11年(1922年)11月、土地購入者を集め、耕地整理工事の終了及び住宅地への送電開始時期、鉄道開設時期を報告会を開催。さらに翌大正12年(1923年)2月26日には、田園都市株式会社主催の夕食会を丸ノ内生命保険協会で開催し、出席者は176名を数えた(当時の購入者の6割以上を集めた)。ここで、田園都市株式会社はパンフレットにも掲げていた「理想的田園都市」を会社と居住者で作っていこうと申し合せを行ったのである。
無論、いきなりそのような夕食会が開催されたわけではなく、入念な根回しが行われていた。この場では、洗足会の前身となる理想的田園都市をつくるための暫定委員会の設置が確認され、委員長には大正11年度末(=大正12年3月31日)現役武官から退任予定の山屋他人氏が推挙された。山屋他人氏は洗足住宅地購入者の一人で、分譲地番号367番及び368番をひとまとめにして住宅を建設した(現在の東京都品川区小山七丁目17番東南角。当時の住所では、東京府荏原郡平塚村大字小山字南耕地513番地。下の地図では左端下方に見える513の中の二とある所)。ちょっと先走るが、山屋氏の住宅は米軍の空襲で罹災し(山屋他人氏はその5年程前の1940年に他界)、戦後は別の所有者となっている(現在は4つに分割されてしまっている)。
以上の経緯で委員長に海軍大将という経歴を持つ山屋他人氏をいただいた委員会は、同年4月12日、第一回委員会を東京築地の水交社で開催。田園都市株式会社に居住者の要望事項を提出するなど、積極的に今で言う街づくりに動き出した。これらの功績で、洗足田園都市の初期に大いなる功績を残されたのが山屋他人氏であり、その故かどうかはわからないが、居住地の一角に「山屋坂」という石柱が建っていると思われる。
以上の経緯で山屋坂となったわけだが、最近(といっても数年前)出版された「美智子皇后と雅子妃」(福田和也 著)115ページには次のようなくだりがある。
東急目黒線洗足駅近くの小和田邸の側に山屋坂とよばれる小道がある。坂道というほどのものではない、狭くなだらかな坂だが、この坂の出口、中原街道から洗足駅前に抜ける一方通行の道と交わるところに「山屋坂」と刻んだ石柱がある。
この坂の名前は山屋他人に因んだものだ。山屋将軍は退任後、居住していた洗足村の村長を引き受け、同地の整備に寄与した。それを顕彰して、この石柱が建てられた。
つまり、現在の小和田邸辺りは、もともと山屋家のものであり、そこに江頭、小和田と二代の婿が住んだのである。そうした経緯を考えにいれると、小和田氏自身は入り婿に近い存在と見るべきかもしれない。
どうしてこのような記載となったのかは知らないが、小和田邸は東京都目黒区南一丁目14番にあり、ここは田園都市株式会社の分譲した洗足住宅地に含まれておらず、分譲地最西端から測っても約100メートルほど離れている。無論、山屋坂の石柱がある品川区小山七丁目17番からは直線でも約700メートル離れているので、どうすればこのような記載となるか意味不明である。そして、致命的な勘違いは「山屋将軍は退任後、居住していた洗足村の村長を引き受け、同地の整備に寄与した」という点だ。正しくは「洗足村」ではなく「洗足会」(発足時の暫定委員会)であって、「村長」ではなく「委員長」(洗足会になってからは会長)である。著者の勘違いは、洗足村の村長なのだから、大地主であって現在の目黒区洗足あたりから南一丁目あたりまでの地主だったと推量したからであろう。実際は、田園都市株式会社が分譲した洗足住宅地のうちわずか2区画を購入したに過ぎないだけであるのに、現在の小和田邸のある場所と近い(約700メートルの距離が近いか遠いかは主観に因るが)というだけで勝手に関連づけたと思える。地域の歴史にまったく無関心と思われる著者の聞きかじりが、このような記載となったのではないだろうか。
(現在の小和田邸が山屋氏からの相続物件かは何とも言えない、というかここの議論とは無関係。)
以上、山屋坂についてあれこれ書いてみた。石柱1つでなかなかに奥深い地域の歴史が秘められているなと思いつつ、今回はここまで。
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