さて、今回の池上電気鉄道の興亡は、会社組織として成立し目黒蒲田電鉄に吸収合併されるまでのおよそ17年間の取締役及び監査役を、等幅時系列として眺めていこうという内容である。
赤い帯が取締役社長、紫色の帯が専務取締役、黄緑の帯が常務取締役、橙色の帯が取締役、青い帯が監査役を表している。そして、概ね2年以上その役職にあった者は氏名を記し、例外として目黒蒲田電鉄の統制下にあった期間の役職者は名字のみを記した。それ以外は氏名を記していないが、わずか1か月程度の在職期間であっても帯を示すことで、その時期にどれだけの取締役及び監査役がいたかを確認できるようにした。
さて、一目でわかると思うが、池上電気鉄道は大きく分けて4つの時代に区分することができる。最初は専務取締役八木恒蔵の時代、続いて取締役社長高柳淳之助の時代、続いて専務取締役後藤国彦の時代、最後が専務取締役五島慶太、即ち目黒蒲田電鉄統制時代となる。この4つの時代は、経営者の特徴がそのままその政策に結びついており、会社の方針は自明ではあるが経営者が決めるものだと納得できる。大雑把に言えば、
- 八木時代 = 金策に汲々とし、事業は遅々として進まず時間を浪費していた時代。
- 高柳時代 = 金策はできたが、真っ当な鉄道経営ではなく怪しい利殖に利用された不遇の時代。
- 後藤時代 = 川崎財閥をバックに積極策を行うも、ことごとく目黒蒲田電鉄と衝突した時代。
- 五島時代 = 目黒蒲田電鉄の一員となるべく、目蒲から見て不要不急とされた事業を整理された時代。
となるだろう。
では、一覧表に氏名を記した面々のうち、主な人物の簡単なプロフィールを語っておこう。まず、武永常太郎は池上電気鉄道の開業前の図面をご覧になった方なら見覚えのある名前であるはずだ。なぜなら、彼は主任技術者であり、各種計画図などの図面に署名してあるからである。
続いて、石黒景文、藤倉桂助は荏原土地株式会社関係者であり、池上電気鉄道沿線の土地をおさえていた。よって、池上電気鉄道の成否は荏原土地にとって死活問題であったのである。
続いて高柳時代に登場する、小林兵庫、河野仙吉、武井勝利、大越信雄は通称高柳四天王と呼ばれ、高柳の主催する金融会社の関係者でもあった。事実上どころか、経営陣まで高柳一派に池上電気鉄道は牛耳られていたことが確認できる。
続く後藤時代においては、高橋熊三、上原鹿造、高梨博司は川崎財閥関係者。野村孝は高柳社長の後を受けた越山体制(事実上、東京電灯の支配)からの生き残りで、目黒蒲田電鉄の統制を受ける直前まで在任した。益田元亮は主任技術者(東京電灯出身。越山体制では専務取締役)。おそろしいことに高柳体制下では、図面をまともに見たり書くことができる取締役がいなかったのだ。益田は、目黒蒲田電鉄統制後も取締役として残留を認められていたが、その翌月に自ら辞任した。立石知満は、荏原郡大崎町下大崎を地盤とする府会議員である。
以上、池上電気鉄道の経営者たちを時系列で眺めてみた。会社は経営者によって決する。当たり前のことではあるが、池上電気鉄道株式会社においてもそうだったのだ。
高柳淳之介の時代は、今日の投資ファンドに相当する時代ではないかと想像しますが、過大な利回り餌に資金を集めて売り逃げる手法は何年経っても変わりませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/05/14 19:19
投資ファンドの期待利回りを実現する唯一の方法は、投資先の企業に、有能な経営者を見つける(招聘する)ことだと思います。
当時に比べて圧倒的に成熟してしまった日本で、しかしまだ(潜在的に)有能な人材が大企業の中に組み込まれている現状では、進行企業の経営陣に真っ当な経営を望むことは、当時以上に難しいのかもしれません。
投稿情報: はひ | 2012/05/15 12:10
追伸
荏原土地の名前は昭和初期の地図の雪谷駅と洗足池駅の近所に見受けられますがその後のことは知りませんが東急不動産のように発展したとも思われません。何か情報があるのでしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/05/15 14:07
はひ様
全く同感です。収益逓減の法則を繙くまでもなく全てのネタが出尽くしたと思われる現状では、宝の山を探し当てるのは至難の業でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/05/15 20:16