航空機による航空写真(空中撮影)がなかった頃の地図作成は、専ら地上での測量がすべてだった。我が国においては、伊能忠敬の精緻な測量による地図が知られるところだが、明治以降もフランス式、そしてドイツ(プロイセン)式の地図作成法が導入され、明治後半からは1万分の1クラスの都市図が作成されるようになる。東京圏においては市内中心部はもちろん、地図の作成範囲にかかる範囲で郊外部分も作図されるようになってきた。洗足田園都市のエリアは、図名「碑文谷」として明治後期から早くも1万分の1地図の作成範囲に入ったため、市街地化される前の農村時代の様子を細かい地図から知ることができる。
これは1915年(大正4年)時の洗足田園都市エリアが含まれる1万分の1「碑文谷」地図の右下一部を抜粋したもので、緑色に囲んだ部分が田園都市株式会社によって土地買収され、一人施工の耕地整理組合を立ち上げ、のちに洗足田園都市第一期分譲されるエリアとなる(無論、鉄道用地や発電所用地等も含む)。ご覧のように、まったく家屋のないところを買収したことが地図からわかるが、このエリアの半分以上は雑種地あるいは林地であって、田畑として利用される部分は少なかった。要は、土地買収をし易かったエリアといえるだろう。
とはいえ、大正初期はまだまだ先祖伝来の土地をなかなか手放すことは珍しく、都市化の進んでいない地域ではなおさらだった。よって、本来買収する方向として、第一期南側の高台(地図上、中延と書いてある一帯)や37.9という数字が見える三角点から南側(長原、石原と地図に表記されるあたりまで)まで買収予定だったが、ここは買収できなかった。荏原郡平塚村大字中延のエリアは鏑木氏、荏原郡馬込村(千束)のエリアは岸田氏が買収に応じなかったため、部分的な買収のみが進められた(鉄道用地ほか)。
歴史にもし(IF)は厳禁だが、あえて洗足田園都市のエリアが実際の2倍以上だったなら、田園調布の存在はなかっただろう。田園調布(多摩川台)は洗足エリアの買収が進まず、その他事業用地を確保するため、荏原郡調布村や荏原郡玉川村から買い増していったからである。また、調布村や玉川村と密接な関係を持つに至ることで、のちの大井町線(計画当初は玉川線、のちに二子玉川線となり、大岡山駅~自由ヶ丘駅間の接続で大井町線に統合)計画への布石となっていったことを慮れば、結果的に洗足エリアの買収計画が頓挫したことが吉と出たとなるわけで、これがどう推移していくことになるかも興味深い。とはいえ、IFをこれ以上考えても仕方のない話ではあるが…。
また、買収用地の等高線を見ると、現在も目黒区と品川区の境界である荏原郡碑衾村と荏原郡平塚村の境界が谷になっていることがわかるが(実際は同一境界線ではなく耕地整理によってずらされている)、ここは池ノ谷といって、このエリア唯一の急斜面を持つ場所である。だが、湧水の出る尾根に近いことからわかるように、地盤そのものはそれほど軟弱でなく、宅地造成に苦難を伴う場所がほとんどない。つまり、田園調布エリアと異なり土木工事はそれほど難がないわけで、積極的に図面販売に打って出た理由もこのことから明らかとなる。つまり、宅地造成工事がしやすいことが洗足田園都市の最大の特徴といっていいと考える。
といったところで、今回はここまで。
東側の境界がはっきりしました。
有り難う御座います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/02/27 10:52
2年ほど前に、当時の洗足田園都市の分譲地域に引っ越してきた者です。
特に最近の洗足田園都市シリーズ、その情報収集力・調査分析力にただただ圧倒されております。すばらしいですね。
さて、地盤の点、全くの同感です。家を建てる際、少し土地を堀りましたが、深さ50センチのところから、関東ローム層がむき出しになっていました。実際、昨年の震災のときも、家の中のものは何一つ倒れませんでした。
それにしても洗足という街は、都心へのアクセス、静けさ、安全性などなど、本当にすばらしい場所ですよね。
高1の息子は、「駅前が死んでる」と表現してはいますが・・・
投稿情報: はひ | 2012/02/27 23:26
はひ様
関東大震災の時も住宅に殆ど被害が無かったことで評判となり分譲地はあっと言う間に完売されたようです。私の父もそのことと田園調布と比較して平坦であることが理由で洗足田園土地に決めたようです。ただアメリカと戦争して戦災に遇うことだけは予測できなかったようです。駅前商店街は多くがシャッターストリートとなって疲弊してる所が多いようですがこれも世の流れで致し方のないことでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/02/28 09:53
木造院電車両マニア様
コメント、ありがとうございます。私の場合、土地条件図(S54年版)や、区役所が出している各種ハザードマップを見比べながら、そして何よりも、東京で最も古い分譲地の1つであるという事実(先人が最初に選ぶ場所はきっと条件がそろった場所に違いないという単純な思い)から、この地に決めた次第です。もちろん、実際この地を訪れた際、日の光の柔らかさ、空気の清潔なところも感じましたので、そういった感覚も決め手の一つではありました。
駅前に関しては、実際、買い物は西小山は武蔵小山に行っていますので、駅前が閑散としているから不便である、という感覚にはなっていません。近隣地域との関係で止むを得ないことだと思っております。
投稿情報: はひ | 2012/02/29 08:37
はひ様
整然とした街並の観点からは成城学園や田園調布と比べて洗足はやや劣りますが、急行が停車しないという難点はありますが都心迄直通で目黒で乗り換えること無く短時間で、また横浜方面には武蔵小杉乗り換えで特急で短時間で行けるという利便性は格段に優れていると思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/03/01 10:30