このシリーズ、ずいぶん間を開けてしまいました。前回が10月4日だったので、かれこれ50日以上開けたことになりますか。前回(その14)からこんなに間を開けてしまった理由の一つは、「あること」を調べてからと思っていた状態で半ば放置状態になり、結果として忘れてしまったことが大きいが(苦笑)、それ以上にあることを調べてから、という「あること」について明快に私なりの理解を得られなかったことがさらに大きい。
その「あること」とは、半ば無理矢理に部分開業という既定事実を積み重ねて開業させた奥沢線(国分寺線、新奥沢線)の、その後である。無論、盲腸線故の利用者の伸び悩みというのはわかりきった事実であるが、その客観的指標について何か資料はないかと探していたのだが、各路線毎の乗降客数統計を見出すことはできなかった。公式資料でなくとも、例えば町村史(誌)のようなものがあればそれに明記されていることもあるのだが、いかんせん奥沢線は起点の雪ヶ谷駅以外はすべて荏原郡玉川村に属しており、大変残念なことに荏原郡玉川村はこのような資料を遺していないのである。荏原郡下の町村の多くは、東京市に合併される際、地域の歴史を遺す目的で「町村史(誌)」の類を編纂しているのだが、荏原郡玉川村にはそれがない(私が見つけていないだけだが)。思うに、当時は玉川村の歴史を編纂するどころではないほどの地域間対立に根深いものがあった(このシリーズでも見てきたように玉川全円耕地整理組合設立前夜からの対立)からだと考えるが、結果として玉川村の総括が玉川全円耕地整理組合の編纂した「耕地整理完成記念 郷土開発」誌と事実上なっていることからも明らかだろう。
(なお、世田谷区の公式ページ(Webサイト)において、玉川全円耕地整理組合に関する説明があるが、この中に『賛成、反対の声が渦巻く中で、昭和3年6月1日に事業が着工され、諏訪分区(東玉川)、尾山分区(尾山台)、奥沢西分区などの分区がまずは工事に着工しました。』とあるが、「諏訪分」という地名を「諏訪」と誤解(「諏訪分区=諏訪分+区」を「諏訪分区=諏訪+分区」と誤解)し、続く尾山区を尾山分区、奥沢西区を奥沢西分区と、誤解に基づく存在しない工区名を捏造している。当blogで幾度となく指摘してるが、公式だからといってそれを鵜呑みするのは危険な例としてあげておく。2010年11月28日に確認。)
そんな中、現時点において奥沢線の運行状況は、池上電気鉄道自身による鉄道省に向けての報告資料中にしか見出せていない。
「事業上ノ収支概算書 収入ノ部」と書かれた資料には、「雪ヶ谷 奥沢間収入」という大項目中に「客車収入」、「貨車収入」、「雑収入」という各項目があり、「客車収入」の備考欄に「乗客人員一日分300人 毎車平均10人」と「毎日150回往復」と注目すべき記載がある。ただ、正確には「乗客人員一日分3000人 毎車平均10人」が正しい。単純に毎日150回往復であれば、
150回往復 × 2(片道換算)× 10人(毎車平均) = 3000人(一日分)
の計算式からも明らかだが、表中の人キロの単価が031.1(3銭1厘1毛)、数量が1,795,273、金額が55,832.000円、そして営業線路が1.6395キロメートルとあることから、
3000人(一日分) × 365(一年分換算) × 1.6395(営業キロ) = 1795273(人キロ単価における数量)
が成立し、一日分の乗客人数を300人ではなく3,000人としなければならないことからも、この裏付けとなるだろう。鉄道省提出書類にこのような誤りが入ったのは、奥沢線(雪ヶ谷~新奥沢間)の営業成績が悪いのだと主張したかったから、という勇み足ではないかと読みたくなるのは、この資料が前回(その14)の最後に示した「起業目論見変更御届」の添付資料にほかならないからである(なお、本文書は逓信大臣宛だが、当然の如く同内容の文書は鉄道省にも出されている)。要は、国分寺線と大風呂敷を広げたものに対して、奥沢線という矮小化した路線に変更したいという「裏付け」として提出した資料なので、これだけ営業成績が厳しいのだという発露ではないか、と勘ぐるのだ(苦笑)。
それでも、雪ヶ谷駅~新奥沢駅間の1編成で平均10人という数字は、昭和4年(1929年)という時期においてはあまりに少なすぎる。途中駅の諏訪分駅が最寄りだった調布女学校(現 田園調布学園中等部・高等部)の生徒数がどの程度あったのか、そして利用していたのかは定かでないが、往復利用としてみれば一日1,500人程度に過ぎない奥沢線の乗降客数に占める割合が高かったことは確かだろう。
なお、参考までに同じく添付資料となっていた「雪ヶ谷奥沢間建設工事費概算書」も示しておこう。ご覧のように、いい加減な内訳であることが透けて見えるが、総額50万円とのことである。最も高額なのは軌道工事費に占める用地費であることがわかるが、奥沢線の用地に多くを占める玉川全円耕地整理組合の諏訪分区にいくら支払ったかがわかれば、この数字が大変に興味深いものとなるが、これにふれていくとさらに奥沢線の話から離れて行ってしまうので、いずれふれる機会があれば採り上げる予定とだけしておこう。
さて、開業後半年程度で、一日わずか3,000人(往復換算では1,500人)では奥沢線の存続が危ぶまれるのはもちろん、そもそも奥沢線の建設目的だったはずの目黒蒲田電鉄線との接続すらできない状態では話にならない。特に、支援を仰いだはずの荏原郡調布村(当時は荏原郡東調布町と町制施行されていた)の期待に応えられていないことから、これに対する新たな、そして無謀な計画が出てくることになる。と、ここで次回(その16)に続きます。
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