一週間のご無沙汰でした。司会の玉…なんていうことはどうでもよく、この一週間は仕事の多忙モード全開につき、blogどころではなかったというのが実際でした。とはいいながら、数分程度の時間すら取れないというわけではなく、やろうと思えばできたblog更新を行わなかった(行えなかった)理由はただ一つ。前回の続きを中断したままにしておくと、きっとそのまま忘却の彼方へと消し飛んでしまうおそれが見られたからである(苦笑)。ただの文章だけであれば何とかなったのだが、今回は図が必要だろうと判断し、作図に時間を要したことが大きい。プロのイラストレータであればともかくドのつく素人であるので、いかんせん、どうしても作図に一定の時間を要してしまうのだ。と言い訳を述べておいて、続きを始めるにしよう。なお、この話は今回で完結させるつもりである。
通称、奥沢海軍村と称する地域について地図等を示してきたが、現在の状況についてふれそこなったので、まずはそこから。ゼンリンの電子地図で示すとここで、以下に部分図を示す。
大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
場所は、現在でいうと東京都世田谷区奥沢二丁目にあたるが、昭和7年(1932年)10月より以前は東京府荏原郡玉川村大字奥沢のうち、字沖ノ谷の地であり、この沖ノ谷と呼ばれる地は明治22年(1889年)4月より以前は、奥沢村に属していたのではなく下沼部村に属していた。それが明治22年(1889年)4月の市制町村制による大規模な統合によって、飛地である沖ノ谷は本来属する下沼部ではなく、隣接する奥沢に所管変更となったのである。つまり、沖ノ谷は長年にわたって下沼部に属しており、奥沢になったからといってすぐに馴染めるものではなかった。そもそも、土地の所有形態によって領地が定められていた時代のものをほとんどそのまま継承していた字界(地租改正時に字界を設定していたことから自明)を所管替えすることは、現在のそれと比べても簡単に馴染めるものではない。つまり、沖ノ谷は大字奥沢において、さらには荏原郡玉川村内において「他者」であったことを理解しておくことが重要である。
そして、荏原郡玉川村すべての地域を耕地整理しようと目論む玉川全円耕地整理組合との関係と、目黒蒲田電鉄とのかかわりを示せば、次のようになる。
- 明治初年、地租改正により荏原郡下沼部村字沖ノ谷が起立。
- 明治22年、市制町村制により、字沖ノ谷は下沼部村が属した荏原郡調布村ではなく、荏原郡玉川村に合併。
- 大正12年、目黒蒲田電鉄開通し、奥沢駅が開業。
- 大正12年、関東大震災。
- 大正13年、目黒蒲田電鉄、奥沢駅~瀬田河原間、鉄道敷設免許申請。
- 大正13年、通称奥沢海軍村、土地賃貸借契約始まる。
- 大正14年、玉川全円耕地整理組合、組合設立認可。
- 大正15年、玉川全円耕地整理組合、組合設立総会。
- 昭和2年、玉川全円耕地整理組合、組合長、組合副長選任認可。
- 昭和2年、目黒蒲田電鉄、奥沢駅~瀬田河原間、鉄道敷設許可。
- 昭和3年、玉川全円耕地整理組合内の奥沢東区、役員選挙。耕地整理工事開始。
このように耕地整理組合創立までもそれなりの時間がかかっただけでなく、組合設立以降も村を二分する賛成反対の中、遅々として進まなかった。そして、奥沢駅東側にあたる奥沢東区が起工式を行ったのは、昭和3年(1928年)も終わる頃であった。つまり、まともな耕地整理土木工事は昭和4年(1929年)に入ってから施工されたのである。よって、
この昭和3年(1928年)の1万分の1地形図に描かれた沖ノ谷とある通称奥沢海軍村は、玉川全円耕地整理組合の奥沢東区が施工した耕地整理事業とはまったく無関係であることがわかるだろう。このようないわば自分勝手な耕地整理(区画整理)を行わざるを得なかった理由は、玉川全円耕地整理組合の耕地整理事業がまったく進んでいなかった、いや進むかどうかもわからなかった状況の中、関東大震災を起爆剤とした郊外移転の風潮により、奥沢駅至近の地であるこの場所に住宅地としての欲求があったからである。無論、地主側だけでなく土地を借りる側も含めた双方の欲求である。
では、地主側と土地を借りる側とどちらが先に動いた(接触があった)のだろうか。ここは私の方でも調べがついていないので何とも言いようがないのだが、間違いなく言えることは「関東大震災」を契機として、海軍省が首都東京の脆弱性と郊外の安全性を確認した点にある。いくら最新鋭の兵器を擁したとしても、それを統率すべき者がいなければ意味がない。つまり、将官が自然災害に脆弱なところに生活の場があるということは、それだけで国防上の危険が高いことが明らかとなったのだ。
当時、この東京府荏原郡一帯は、ごく一部を除けば都市化の波はまだまだ遠く、先に大正4年(1915年)当時の地図で示したように近郊農村であり、目黒蒲田電鉄開通以降もしばらくの間は、乗客は数名という状況が続いていた。既に田園都市株式会社によって、田園都市洗足の分譲は開始されていたが、いくら割賦販売で安価だと言っても高給の恩給受給者等が購買層の中心だったことからわかるように、青年将校クラスの給与では手が届くものではなかった(別に資産があればともかく)。このような鉄道が開通したばかりの土地は、十分に彼らの住居として相応しい地と目されたに違いない。そこに地主の思惑が働いたとしても不思議でも何でもないというわけである。地主側でもいつ始まるか見通しの立たない耕地整理事業を待つよりも、既に需要があり、それが海軍省(あるいはその関連組織)の意向となれば、これに与しないわけにもいかないという大義名分も立つ。こうして、奥沢海軍村の借地経営が始まったと見る。
しかし、現地を確認するとわかるように、地主が耕地整理事業とは無関係に始めたために、道路は狭く、周辺道路との連絡もほとんど考慮されるものではなかった。同時期には北側で、衾東部耕地整理組合が耕地整理事業を設計・施工中であったにもかかわらず、ほとんど道路接続がかみ合っていないのは、地主単独で施工したマイナス面と言える。さらに、この地が玉川全円耕地整理組合の奥沢東区に含まれて以降も、既に家屋が建ってしまったところは道路は狭いまま残されてしまい(一部は拡幅工事が成されたが)、結果として自動車通行を排除できたという恩恵はあったが、緑が多いと主張する割には、他の良好な住宅地とはインフラ面で今一つである点は否めない。
こうして、大正末期から昭和初期に成立した奥沢海軍村(通称)だが、当地域に20~30戸ほどの住宅が建った頃に持ち上がったのが二子玉川線計画変更の話であった。
上図は、昭和3年(1928年)頃の奥沢海軍村周辺の様子を1万分の1地形図等を参考に作成し、強ピンク色で塗った住宅が海軍士官が建てたもの(土地は賃借し建物は所有)として色分けした(この他にもあるかもしれないが)。このほぼ中心地域を貫く形で計画されたのが、奥沢駅を分岐駅としていた計画から大岡山駅へと分岐駅が変更された当初の二子玉川線の計画線である。直接、海軍士官の住宅が鉄道用地となるのは5~6戸程度に過ぎないが、鉄道に隣接するというのはいかがなものかとなるだろう。また、鉄道によって「海軍村」自体も南北に分断されることとなってしまう。いくら当時は1両ないし2両編成であったとしても、コミュニティとしては由々しき問題であるだろう。当然、この計画には「その筋」からの横やりが入るのは自明だったのである。
これが実際に敷設されたルートを見れば、「海軍村」を分断するようなことはなくなるのはもちろんだが、施工上、斜面に土盛りするなど工費が余計にかかるのみならず、以前の当blog記事で池上電鉄奥沢線の歴史でもふれたように、九品仏川北側の衾東部耕地整理組合との新たな紛争の火種を生むことになるなど、多くの別の問題を発生させた。そうまでして、二子玉川線のルート変更を行わしめたのは、やはり奥沢海軍村の存在があったからではないかと考えるのである。
無論、計画変更による迷惑を蒙った衾東部耕地整理組合も黙ってはいない。だが、この措置に対する代替は、これも当初計画にはなかった大岡山駅~九品仏駅(現 自由が丘駅)間に新駅を設置することで妥協が謀られる。衾東部耕地整理組合地に隣接する、荏原郡碑衾町大字衾字谷畑下の地に「中丸山」駅(現 緑が丘駅)を設置が約され、大岡山駅~自由ヶ丘駅間開業時に唯一の中間駅として中丸山駅が開業した。つまり、玉突き的に様々な状況が複雑に絡み合い、妥協の産物として建設されたのが東急大井町線というわけである。
以上、東急大井町線のルート変更に奥沢海軍村の存在があったのではないかとの推論から、前回と今回の二回にわたって話を進めてきたが、海軍と目黒蒲田電鉄(及び田園都市株式会社)との関係の深さは、最初の田園都市である洗足を分譲するにあたり、購入者に対する親睦会(自治会)的な役割として洗足会を立ち上げるに際し、水交会会館が会場として使われたことがあるなど、それなりの関係はあったと思われる。よって、まだまだ分析不足というのは理解しつつも、とりあえず今回はここまでとしたい。
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