前回の続き、といっても話題的に続きではありませんが。
旗ヶ岡駅が含まれる地域は、荏原郡平塚村(のち平塚町、荏原町、さらには東京市荏原区、現在は東京都品川区の一部)に属するが、この辺りの道路が整備されているのは、大正時代に設立された耕地整理組合による耕地整理事業(現在にいう区画整理事業)による。当地域の耕地整理組合は、近接する洗足田園都市に影響されたものではなく、また近年のうちに市街地化することを予期したものでもなかった。それは、ある計画を妨害・阻止するための方便だったのである。このあたりの事情は、荏原区史(昭和18年7月5日発行。荏原区役所)の197ページ以降に書かれているが、以下に要約を示すと、
耕地整理の計画は大正4年頃よりあったが、たまたま大正6年に東京電灯株式会社が立会川に沿って、世田ヶ谷、駒沢、碑衾を通り、本村の中延、上蛇窪、下蛇窪を経て大井町に達する架空式高圧送電線敷設計画(5万ボルトのもので地下埋設は、当時法令上不可能だった)が起こり、これに反対する目的で最初の耕地整理組合が誕生した。土地収用法に対抗できるのは耕地整理しかなかったという事情によるが、結果としてなかなか進まなかった耕地整理が一気に進む結果となり、人間万事塞翁が馬といったところだ。
というように、高圧送電線敷設計画を阻止すべく耕地整理組合を立ち上げ、土地収用法による買収を行わせない(耕地整理実施区域の土地は、耕地整理組合の許可なく売買できない)という、言ってみれば目的外使用のような形で耕地整理組合が立ち上げられた。当該地域は、平塚第二耕地整理組合が施行することとなり、工区は第一(大字下蛇窪の大部分)、第二(大字上蛇窪の大部分)、第三(大字中延並びに大字小山の一部)に分けられ、旗ヶ岡駅付近は第三工区にあたった。
高圧送電線敷設計画を阻止すべく、ということからわかるように、耕地整理組合施行区域内では自由に土地を売買することはできなかった。つまり、このことは池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄が当地域で鉄道を敷設するための用地買収も、この適用を受けることを意味する。以前、池上電鉄奥沢線の計画が新奥沢駅から先が頓挫したのは、目黒蒲田電鉄五島専務が玉川全円耕地整理組合と話をつけていたとふれておいたが、まさに耕地整理組合如何で決まる話だったのである。とはいえ、一般的には耕地整理組合は工事資金にも苦慮するところが大半で、有利な融資を受けることも可能であったが、鉄道敷設による用地買収の現金収入が大きいことはもちろん、鉄道が敷設されれば土地の価格が高騰することは明らかだったので、むしろ積極的に計画を受け入れる組合が多かった。無論、平塚第二耕地整理組合も同様であった。
では、平塚第二耕地整理組合に関する歴史を簡単に年表形式で振り返ってみよう。
- 大正6年(1917年)7月31日 耕地整理測量設計補助申請を東京府に出願、申請。
- 大正7年(1918年)1月25日 平塚村第二耕地整理組合設立認可申請を東京府に提出。
- 大正7年(1918年)3月1日 組合設立認可。
- 大正7年(1918年)4月5日 平塚村第二耕地整理組合第一工区、第二工区の工事着手届を申請。
- 大正7年(1918年)12月21日 第三工区耕地整理工事着手届を東京府に申請。
- 大正8年(1919年)10月30日 組合会にて、字界変更に関する件などが表決。
- 大正12年(1923年)9月1日 関東大震災発生。平塚村内にも多くの避難民が押し寄せ、耕地整理事業は大正13年度に至るまで事実上休止。
- 大正14年(1925年)2月12日 第三工区工事完了届を東京府に提出。
- 大正15年(1926年)6月17日 目黒蒲田電鉄より、大岡山~大井町間の電車軌道敷設施工願受理。
- 大正15年(1926年)6月22日 第一工区、第三工区を貫通する目黒蒲田電鉄出願の電車軌道敷設の件を許可。
- 大正15年(1926年)7月2日 池上電気鉄道より第三工区地内に電車軌道敷設の施工願受理。
- 大正15年(1926年)8月13日 評議員会及び組合会にて、池上電車工事施工許可に関する件などが表決。
- 大正15年(1926年)9月1日 目黒蒲田電鉄より大岡山~大井町間の電車軌道工事着手届。
- 大正15年(1926年)9月2日 池上電気鉄道に対し、電車軌道敷設の件を許可。
- 昭和2年(1927年)5月6日 目黒蒲田電鉄より整理地区内工事竣工承認願受理。
- 昭和2年(1927年)8月1日 池上電気鉄道より鉄道線路工事竣工届受理。
- 昭和6年(1931年)4月28日 第一、第二工区工事完了。
- 昭和8年(1933年)12月28日 耕地整理組合解散届を東京府に提出。
以上のように、最も早く工事完了したのが第三工区で、工事着手届から工事完了届まで約7年程かかっている。途中、関東大震災を挟み、耕地整理どころでなかった期間を含んでのものなので、比較的早く終了できたとなるだろう。第三工区で最も資金を要したのは立会川河川改修工事で、蛇行する狭い河川だったものがまっすぐな幅広い河川にされた。
さて、注目の池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の動きを見ると、目黒蒲田電鉄の方が早く動いていることが確認できる。鉄道開通と合わせて該当部分をもう一度示すと、
- 大正15年(1926年)6月17日 目黒蒲田電鉄より、大岡山~大井町間の電車軌道敷設施工願受理。
- 大正15年(1926年)6月22日 第一工区、第三工区を貫通する目黒蒲田電鉄出願の電車軌道敷設の件を許可。
- 大正15年(1926年)7月2日 池上電気鉄道より第三工区地内に電車軌道敷設の施工願受理。
- 大正15年(1926年)7月18日 目黒蒲田電鉄、大井町線大井町~洗足間着工。
- 大正15年(1926年)8月13日 評議員会及び組合会にて、池上電車工事施工許可に関する件などが表決。
- 大正15年(1926年)9月1日 目黒蒲田電鉄より大岡山~大井町間の電車軌道工事着手届。
- 大正15年(1926年)9月2日 池上電気鉄道に対し、電車軌道敷設の件を許可。
- 昭和2年(1927年)5月6日 目黒蒲田電鉄より整理地区内工事竣工承認願受理。
- 昭和2年(1927年)7月6日 目黒蒲田電鉄、大岡山~大井町間開通。東洗足駅、荏原町駅、中延駅開業。
- 昭和2年(1927年)8月1日 池上電気鉄道より鉄道線路工事竣工届受理。
- 昭和2年(1927年)8月28日 池上電気鉄道、雪ヶ谷~桐ヶ谷間開通。旗ヶ岡駅、荏原中延駅開業。
このように、ほとんど両社同時進行で進んでいることがわかる。歴史的には池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄いずれも計画路線としては古かったが、どちらも大正末期から昭和初期に社の発展の命運をかけた事実上の第二期線(池上電気鉄道にとっては蒲田~雪ヶ谷間が第一期、目黒蒲田電鉄にとっては蒲田~目黒が第一期と位置付け)であり、線から面への発展を目指す目黒蒲田電鉄に対し、線を都心方向へと目指す池上電気鉄道の直接対決の場だったことが伺える。さすがにこの状況下では、両線交差部分に乗換駅をなどという発想は出てきようがない。利便を無視した客の奪い合いでしかないとなる。
面白いのは、目黒蒲田電鉄に対しては短期日で耕地整理組合から回答が出ているのに対し、池上電気鉄道に対してはそうなっていないことである。届提出時期の遅れもあるが、それ以上に耕地整理組合の回答が遅い。電車軌道敷設施工願を見れば、目黒蒲田電鉄は5日後に許可が出ているのに対し、池上電気鉄道は即決といかず、評議員会や組合会の表決を経た62日後となっている。この間の事情は定かでないが、一体この差は何なのだろうか。
以上、旗ヶ岡駅のできるまでの過程として、平塚第二耕地整理組合の流れを追ってみた。平塚村が人口爆発(大正10年から昭和6年までの10年間で、約1万人から約13万人に増加)する重要なものは、耕地整理組合と関東大震災と目黒蒲田電鉄及び池上電気鉄道の鉄道開通であることに異論はない。今見ても、東京城南地域で最も鉄道稠密地帯はこのエリアであるし、東京都心を除けばそうそう見当たるものではない。そうでなければ、これだけの人口爆発は起こることはなかったろう。といったところで、今回はここまで。
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