今回も一枚の写真コーナーです。まずは写真から。
今回は写真に手を加えてある。本来なら素材のままがいいのはわかっているが、さすがに文だけで今回は難しいと考え、黄色く着色をした。この着色部分が池上電気鉄道奥沢線(俗称 新奥沢線)である。手前には特徴的な田園調布の町並みが確認できるが、時期的に昭和7年(1932年)頃に撮影されたものと思われる。
この写真は、「東京市概要」の昭和8年版(昭和7年発行)に掲載されているが、この発行年は東京市が周辺郡部町村を併合し、いわゆる大東京市を誕生させた時期なので、東京市に新たに加わったところとしての代表的なシンボルとして田園調布が選ばれたのだろう。この町並みのすごさは空から見るのが一番なので、選択理由もよくわかるが、私の視点はそこではなくその先の奥沢線にある。
一目でぱっと見で気づくのは、田園調布駅周辺の市街地の発展ぶりとその遠方に展開する空地(田畑)と散在する建物、という点である。左上の白く細長い建物は、雪ヶ谷駅近くにあった白木屋の社員寮にあたり、そのさらに遠く(やや上)に見えるのは今日の清明学園の初期の建物と思われる(言うまでもないが、写真の奥=遠くほど距離が離れる傾向にある)。それ以外には目立った建物はほとんどなく、奥沢線沿線はもとより、既に大正末期~昭和初期には開通していたはずの池上電気鉄道本線沿線ですら、この田園調布駅周辺とは発展具合に雲泥の差があることが確認できる。
と、この後に続く話は、また近いうちに。といったところで今回はここまで。
またまた素晴らしい写真に感激しました。
田園調布の整然とした放射状の宅地はその後模倣がでましたが規模の点で匹敵するものはありません。お笑いコンビに「田園都市に家が建つ」と言われ、此処が起爆剤になって大井町線と環と国分寺崖線の間に造成された尾山台、上野毛等の高級住宅地と更に田園都市線へと発展したことを池上電鉄の後藤専務は草葉の陰で悔しがっておられるでしょう。東急沿線に住むこと自身がステータスとなるまで企業イメージをアップさせたのはたいした手腕です。
新奥沢線の小型電車が中原街道を横切る風景をかすかに覚えています。先日バス通りの環八よりの道を奥沢迄あるいて諏訪分駅の道の出っ張りを確認しました。そのまま旧環八を横切って旧奥沢商店街に進んで一万円のちらし寿司を売る入り船を横目に睨んで自由が丘迄あるきました。諏訪分の耕地組合の全面的な協力にもかかわらず廃線になったのは残園です。
白木屋は五反田に出店していましたが、当時は錦糸町の城東電車の終点、大森駅東口、鶴見臨港鉄道の鶴見の終点にターミナルデパートを展開して積極経営に専心していました。五反田は合併後もある事情で白木屋が引き続き営業を続けました、。
荏原病院は伝染病患者の隔離のための施設で、私の小学校の頃は毎月、疫痢、赤痢、ジフテリアの患者が出て教室を消毒し患者は隔離されました。今では衛生状態が比較にならないほど改善されこんな状態は想像もできません。私も老人ですが、老人の言うGOOD OLD DAYS、ドイツ人が好きなGUT ALT ZEITは必ずしもあたりません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/24 14:07
荏原病院の件は間違って投稿しました。
別項で扱うべきでした申し訳ありません
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/24 14:18
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。そして申し訳ございません。
まずお詫びから。荏原病院の件は、白木屋社員寮のやや上にある建物を当初記事では荏原病院としていたものを、数分後に清明学園に書き直したため、結果として錯誤させてしまうことになってしまいました。どうもすいません。
奥沢線については、近年廃線跡ブーム?に乗ってか、かなりの文献で扱われるようになってきましたが、かつて10年ちょっと前に新奥沢駅跡を訪ねたときは石碑すらなかったですし、ほとんど存在が地元でも忘れられていました。営業実績が悪かったのは、路線が短かったというのもありますが、沿線周辺の住宅地化が遅れたのが大きいようにも思えます。
池上電鉄は、やはり五反田までの乗入れに相当の資金を投入したことと、昭和初期の不況によって川崎銀行も相当の打撃を受けただけでなく、景気の冷え込みで郊外住宅地どころではなかったのが響いたように思います。昭和10年代前半に好景気がやってきた時には、既に池上電鉄はなかったというタイミングも。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/24 20:34
XWIN II様
かえっ恐れ入ります。小生の娘は幼稚園迄、息子は中学まで清明学園のお世話になりました。浜野校長は教育界でも有名な方です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/25 01:52
「田園調布」の放射線状の街並みが、くっきりわかる、すばらしい写真ですね。
新奥沢線のことは、私自身が池上電気鉄道のことに興味を持つようになるまで、全く知りませんでした。そして、「線路」については、このお写真により、初めて目にしたなぁという感想です。まさに「幻の路線」なのではないでしょうか。存在していた期間も短いですしね。
先日、とある雑誌を読みました。(散歩の達人みたいなやつです)そこに、旗の台から長原へと進んでいくと、急に「山手風になる」その街並みの変化がおもしろいと書いてありました。
ふーん。そんなふうに思ったことないけど、でもそうなのかもしれないな、と思った次第です。
投稿情報: りっこ | 2010/01/27 22:25
りっこ様、コメントありがとうございます。
存在期間は10年に満たないので、仰せの通り線路の写る写真は珍しいと思います。
「旗の台から長原へと進んでいくと、急に「山手風になる」その街並みの変化」→これは、長原駅周辺を指すのではなく、商店街南側の住宅地のことを指しているような気がします。(本を読んでいないので印象判断ですが)
投稿情報: XWIN II | 2010/01/28 07:37
はじめまして。いつも拝見させていただいております。新奥澤線は話では聞いていましたが今のどこら辺りを走っていたのかとても興味があります。一度歩いてみたいので具体的な場所を教えていただければ幸いです。ところで東洗足駅にあったと思われるお店の写真を見つけました。今でも洗足駅前に存在するロンシェールというパン屋さんが昭和7年頃東洗足にて洗足パンという名でお店を開店していた模様です。
1932 昭和7年 2月28日 初代社長 上原一実が、日本製パン製菓
学校(学校長 杉本隆治) の第一期生
として卒業後、「洗足パン」という店名
で創立。
(東京市荏原区中延1225 大井町線東洗足駅下)
http://loncheale.co.jp/senzoku-pan2.gif
投稿情報: 長原在住者 | 2010/01/29 05:36
おはようございます!
長原在住者様 東洗足のロンシェール。私の推測だと、今はもう閉店してしまった、「三浦屋」さんというおそば屋さんと、「ほうらいや」さんという文房具屋さん(現存)の、間ぐらいだったのではないかと思います。実際に、そこでのパンをお食べになった方が木造院様、でしたよね?
ロンシェールは、旗の台東口、長原にもありましたよね。閉店してしまって残念です。今は洗足駅近くに本店があり、黒柳さんがテレビで紹介したせいもあり、はやっているようで嬉しいです。先日、買いにいきましたが、おいしかったですよ。
このブログで前に、なぜ「東洗足パン」にしなかったのか、ということがあり、やはり「洗足」の方が、「洗足田園調布」でイメージがよいからではないか、というお話をいただき、そうかもしれないと思ったものです。
長原在住者様、長原在住は、何年ぐらいでいらっしゃいますか?
私は、実家が旗の台と南千束の境ぐらいに、昭和4年からあるものです。
お近くの方が、お仲間に加わっていただけると、とっても嬉しいので、これからもよろしくお願いいたします。
なお、新奥沢線は、私、最近、「廃線跡を歩く」というような本で見かけたのですが、それが正式にどんなタイトルだったか忘れてしまいました。
今、「廃線」とか「廃墟」とか「廃道」の探訪って、結構はやっているんですよね。
その本を見たのは都立中央図書館なんですけど。また機会があったら、もっとちゃんと見てこようかなと。
XWIN ll様にはおわかりになっていらっしゃるかとも思いますが。
投稿情報: りっこ | 2010/01/29 06:49
食べ物屋さんつながりで、もう一つ。
洗足駅近くに「川京」って鰻屋さんがありましたよね。
私、昨日「洗足駅住民の掲示板」を読んでいたのですが、川京の店主の方が体調不良のため、一たんお店を閉め、更地になり、それからまた、新たに建物を建てて、また川京さんが再開する、というのが途中までの商店街の方たちのお話で。
それが、途中で再建工事が頓挫してしまい……という、残念なことだったのだと、知りました。
きょう、実家に行くので、川京さんの跡、何になっているのか、見てこようかと思っています。といっても、夕方に駅に着くので(実家帰りに寄る予定です)洗足会館の方までは無理なのが残念。もうちょっと暖かくなったら、行きたいなと。それまで洗足会館が残っていることを祈ります。
投稿情報: りっこ | 2010/01/29 06:53
長原在住者様、コメントありがとうございます。
今ではロンシェールという名前ですが、名実共に洗足駅前にあるのだから、洗足パンでいいと思うんですが(笑)。
さて、いわゆる新奥澤線ですが、各種鉄道ファン向け文献に採り上げられています。私の見た限り本文は正確性には欠けますが、路線図的なものとしては「鉄道廃線跡を行く」シリーズのVIII巻あたりに掲載されていたと思います。いずれ採り上げたいと思っていますが、宿題が多いのでいつふれられるかは現時点では何とも…というところでご容赦願います。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/29 07:34
皆さん新参者に貴重な情報ありがとうございます。私は長原に住んで今年で35年でその前は雪ヶ谷に数年住んでいました。生まれはゼームス坂下の南品川4丁目付近です。そこに戦前から住んでいて祖父、親父共にそこで昭和20年5月の空襲に遭遇したそうです。昭和40年代後半までですが前の住まいには防空壕が存在していました。今後も顔を出させていただきますので宜しくお願いします。
投稿情報: 長原在住者 | 2010/01/29 21:19
長原在住者様
大田区図書館の洗足池の郷土資料のラックの 地図で見る大田区 の何れかの昭和初期の田園調布に路線が掲載されています。雪谷から奥沢駅に向かうバス通りの西側にほぼ平行して敷設されエいます。通常廃線は道路等で痕跡を残していますが、この線は住宅の下に埋もれています。雪谷大塚駅の中原街道側が斜めになっていてわずかにその痕跡を残すに過ぎません。コピーを取って添付出来ればいいのですが小生は83才8か月でその技術がありませんのであしからず。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/29 22:41
長原在住者様
私も追加です f(^ー^;
ネット的には、こんなふうに紹介されてますよね。
http://www.okusawa.jp/sinkoukai/rekisi/sinokusawa/tokioture.htm
ところで、私、ここで素朴な疑問が出てしまいました。
新奥沢線は、あっという間に消えたはずなのに。
なぜか、先日東京都立中央図書館でコピーしてきた、昭和21年の地図には、新奥沢線の線路が、くっきりはっきり記されているんです。
新奥沢線って、大田区から出発するけど、その線路のほとんどは、世田谷区なんですね。
この地図によると、線路が新奥沢までどこにあったか、かなり明確にわかるようになっています。特に今の地図と照らし合わせると、線路跡を歩けるかもしれませんね。もっとも今、線路跡の多くは宅地だと思われますが。
投稿情報: りっこ | 2010/01/30 16:31
さらにおまけです
http://home.k04.itscom.net/h21419/suwabunwohasittadensya.html
こちらの写真にも、結構しっかり「新奥沢線」が写ってますよ。
ご参考までに。
投稿情報: りっこ | 2010/01/30 16:38
りっこ様
新奥沢線には諏訪分と言う駅があり祖父母が住んでいたことがあります。裏に調布女学校(現在の調布学園)があり、もっぱら通学用に利用されていたようです。学割で採算がとれなかったでしょうね。設立が大正15年ですのでまだ玉川村が世田谷区に分離される前でしたので漠然と調布地区ということでこの名前がついたのでしょう。城南地区のお嬢様学校で我々の憧れの的でした。田園調布も玉川田園調布と分離されました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/30 21:33
長原在住者様
品川図書館に行く時は大井町からバスで新馬場で降ります。目黒川沿いの角にある円形の品川保健センターは以前品川区役所で昭和20年2月の大雪の日に兵隊検査を受けたことを思い出しました。ゼームス坂の大井から下って右側に民生館と保健所があり昭和23年頃ボランティア運動と論文のネタのために通ったことがあります。南馬場の踏切を越えてすぐの所にあったお寺で打ち上げを行いたっぷり般若湯を御馳走になったことを覚えています。お寺が多い所ですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/30 21:52
この記事にコメントを付けてくださっている皆様へ。
奥沢線(俗称 新奥沢線)については、鉄道ファンからの視点以外の形で現在、草案を作成しております。あまりに寿命の短かった本路線ですが、探ってみると実に奥深いものがたくさんあって、こりゃ資料集めをもう少ししっかりやって論考しなければならないな、みたいな感触を得ています。
なかなか時間が取れない中ではありますが、それをいいわけにせず、せっかく公開するのだから少しでもまともなものとして出せればいいな~と考えています。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/01 12:49
XWIN II様
沿革史に記載されている情報も、単線から複線になったりいまいとつぴんときません。調査結果を楽しみにしています。竈の灰までと俗に申しますが、廃線跡地もことごとく売却したようですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/01 16:18
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
奥沢線については、当初は複線でしたがすぐに単線(仮設備扱い)になりました。国立公文書館での調査によれば、昭和6年3月18日に「奥沢線仮設工事方法変更ノ件」を申請、同年6月26日認可により、複線から単線化したことを確認済みです。このことから昭和6年後半には単線化されたという流れになり、これは池上町誌に掲載の雪ヶ谷駅構内写真が単線となっていることからも裏付けられるかと思います。
なお、奥沢線跡地はお見込みの通り、目黒蒲田電鉄が分譲しました(諏訪分住宅地)。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/02 21:04
XWIN II様
奥沢線
情報有り難う御座いました、あらためて東玉川の歴史に掲載されている航空写真を見ると用地は複線のように見え、諏訪分の駅の所の架線が複線のように見えるので多分交換のためのものでしょう。経費の関係で多分スプリングポイントだったのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/03 12:13
私も全くプライベートなことなんですが。
「川京」の「本店」が、緑が丘にある、ということがわかりました。配達もやっているんだけど、旗の台までは来てくれるかどうかは??
★は、洗足店のときは★★★★★の満点だったのですが、こちらのお店は★★なんですよね。どうなんだろう……1回食べにいってみたくなりました。洗足店の店主の息子さんのお店のようなんですが。
投稿情報: りっこ | 2010/02/04 06:51
新奥沢線の建設に当たって地元の耕地整理組合が積極的に協力した旨が東玉川の歴史に記載されていますが、バス通りのバスは1時間に1本で、東京医療センターの待合室のような雰囲気です。諏訪分の交番付近の方は雪谷大塚へも奥沢へも徒歩ではかなりの時間が掛かると思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/10 23:15