「回想の東京急行Ⅰ」(大正出版。著者:荻原二郎・宮田道一・関田克孝)は続くⅡと共に、東急電鉄公式資料に次ぐ素晴らしい資料本である。様々な東急電鉄に関する本はあるが、歴史に関してはこの本がバイブル的なものであることに疑いはない。だが、おそらく鉄道関係(電車や施設、設備等のハードウェアとか)の記述は優れているのかもしれないが(残念ながら私はこの方面は門外漢)、歴史記述に関する部分には錯誤と思われる誤りが意外に多い。
大した本でなければ、誤りばかりでも気にならない(ゴミなので)が、優れた本であればどうしても気になってしまう。そこで、私のレベルで気付いた点を列挙し、自分の備忘録とするほかに公開することで参考としていただければ幸いである。では、「回想の東京急行Ⅰ」116ページから検討していこう。
P117「大正12年8月28日までに桐ヶ谷駅まで、次の大崎広小路駅が同年10月9日に開通した。」
大正12年(1923年)ではなく、正しくは昭和2年(1927年)。以降の本文では正しい年となっていることから単なる錯誤であると思うが、知らぬ読者が鵜呑みすれば誤りを蔓延させるものだろう。
P117「池上電鉄の迷走の歴史は、新奥沢線の開業にも見ることができる。」
東急50年史から?なのか、新奥沢線という呼称が蔓延っているが、同時代資料を見ればすべてが「奥沢線」(「新」と付記されたものはない)と表記されている。これは地図はもちろん、池上電鉄自身が申請した公文書等からも明らかであり、勝手に固有名詞を改変させられた事例である。本書が悪いわけではないが、結果として不適切なので指摘しておく(本文以下にも多数あるが、取り上げるのはこれのみにとどめる)。
P123「しかし、昭和20年5月25日、駅とその付近も含めて、品川荏原一帯は米軍の大空襲により消失してしまった。」
正しくは、昭和20年5月24日。夜に空襲を受け、事実上の運転休止に陥ったのは翌日なので、表現を変えれば誤りではなかった(例えば、空襲を受け、昭和20年5月25日から事実上、駅が休止状態となる云々)。
P124「カーブ区間の荏原中延駅を発車してすぐ直線となり、旗ノ台駅に向かって連続の下り勾配となる。」
本書は、一貫して旗の台駅を旗ノ台と誤記している。これは錯誤ではなく、完全な誤りといっていいだろう。さすがにこれは看過できないミスと気付いたのか、続く「回想の東京急行Ⅱ」では訂正記事として「「旗ノ台」駅は、片仮名の「ノ」は使用せず、開業当初から「旗の台」でした。」とあるが、Ⅰしか見ていない人にとっては辛い。
P125「昭和2年8月26日 旗ヶ岡駅として開設」
正しくは、昭和2年8月28日。単なる錯誤だろう。
P126「昭和26年5月1日 旗ノ台駅として開設」
先にもふれたが、タイトルからして「旗ノ台」となっているが正しくは「旗の台」。本書のうちで、最大の致命的な誤り。これに続き「昭和41年1月20日 旗の台駅に改称」とあるが、まったく事実でない。でっち上げである。この記述から錯誤でないことがよくわかるだろう。そのように、著者は理解していたのである。
P128「馬込まで続く上池上の住宅地と商店街の玄関口で、駅名は後背地である旧馬込村の字名から名付けられた。」
長原駅の説明だが、誤りと言っていいかは微妙だが、ひっかかる表現である。まず、馬込まで続く、とあるのがどのあたりを指すのかにもよるが、単純に考えれば、環七通りを挟んだ東西の商店街を指すのであれば、上池上ではなく現行の上池台という名を言うべきだろう。また、いわゆる上池上商店街(上池台三丁目から五丁目辺り)を言うのであっても住宅地をも指しているので、やはり上池台かと考える。上池台の大部分は、住居表示前まで上池上町と呼称していたので、そう記したのであれば著者の知識の更新が成されていないと結論づけられるが、上池台となったのはもう40年も昔のことなので、いくら何でも…。
そして、後背地という表現も気になる。長原駅の場所は、開設当時は荏原郡馬込村字長原。そして荏原郡馬込町字長原、荏原郡馬込町大字南千束、東京市大森区南千束町、東京都大森区南千束町、東京都大田区南千束町、東京都大田区上池台一丁目と変遷しているが、現在から見れば馬込地区とは言えないが、開設当時から少なくとも東京市合併まで、もう少し長い目で見れば上池台になるまでは馬込地域と言っても誤りではない。なので、何をもって後背地としているのか。甚だ疑問である。
P132「石川台1号踏切を越えると、台地の平坦直線部分に入り、初代、二代目の雪ヶ谷駅跡を見ながら200mほどで雪ヶ谷大塚駅に着く。」
雪ヶ谷駅跡に関しては、以前当Blogにおいて誤りを指摘(「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」ほか)しているが、石川台駅の項である本文は単に雪ヶ谷大塚駅ではなく雪が谷大塚駅が正しいとの指摘にとどめる。なお、この文より前にも同様の表記があるが、これは昭和28年(1953年)のことを説明しているので、当時の駅名である雪ヶ谷大塚駅という表記で問題ない。
P134「雪ヶ谷大塚」
タイトルがこのようになっているが、雪が谷大塚が正しい。
P134「昭和3年10月5日 150m蒲田寄りに移設」
誤り。おそらく著者の一人である関田氏の説だと思うが、いい加減、この説をあちこちで流布するのはいかがなものかと感ずる。この日付は、奥沢線(何度も書くが新奥沢線は誤り)の開業日であり、新奥沢駅までの分岐のため、駅の位置を当初の位置から移動の結果だが、初代の駅の位置を決定的に誤っているので蒲田寄りとでっち上げている。正しくは五反田(石川台)寄りに移設となる。
P134「初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置に開業した。設備の詳細は不明で、営業期間も短く、昭和3(1928)年10月には新奥沢支線の開業にともなって約150メートル蒲田寄りに移設した。」
これまで見てきたように、まったくの事実無根の情報を元にしているので、すべて誤りと言っても過言でない。設備の詳細が不明どころか、もとよりそのような場所に駅などないので、痕跡を探す行為そのものが無意味である。
P137「新奥沢支線」
池上電鉄の歴史を見ていくと、この路線は国分寺線と表記されている。そして、開業後しばらくすると自らは奥沢線と称し、同時代の地図でもそのように表記されるようになる。なので、客観的に見ても新奥沢(支)線となるはずはないのだが、東急電鉄関係者が有意をもって「奥沢」でなく「新奥沢」としたのだろう。奥沢は自社の名前なので、それを池上電鉄に窃取されたのが気に入らなかったのかもしれない(推測)。
P138「このような雰囲気のなかを直線で約400m進み、ややゆるい左へのカーブを描いた下りカーブを描いた下り勾配を進むと久ヶ原駅に着く。」
いちいち言うのもどうかと思ったが、一貫性を欠くので指摘すると、正しくは久が原駅。
P140「久ヶ原」
タイトルがこのようになっているが、久が原が正しい。
P140「昭和11年1月17日 久ヶ原駅に改称」
単なる錯誤で、正しくは昭和11年1月1日。
P140「駅名は、池上村久ヶ原をそのまま採用している。」
久ヶ原に改称した時期は、既に東京市大森区久ヶ原町となっており、かつ駅の位置は久ヶ原町ではない(当町は近いが、駅位置は東京市大森区調布鵜ノ木町)。まったくの誤りだと決めつけられないが、しっかり書いてほしい。
P142「大正15年8月6日 慶大グランド前駅として開設」
正しくは、慶大グラウンド前駅。当Blogでも「池上電気鉄道 慶大グラウンド前駅について(確定編)」をはじめとする記事で扱っているように、すべては東急電鉄系の社史が「慶大グランド前」と誤っているために、これのみを盲信した結果の誤りである。
P142「駅名は、大正13(1924)年に現在の千鳥町二丁目付近を慶應義塾大学が1万4千坪の土地を購入して、グランド等を造成したことによるものだが、ごく初期の駅名に「光明寺」を名乗ったという説もある。」
責任者出てこい!と言いたい(笑)ほどにひどい誤りである。中でも、光明寺駅の存在がなかったかのような都市伝説的扱いはひどすぎる。光明寺駅は、東急電鉄系の最古の社史である「東京横浜電鉄沿革史」にもきちんと記載されている(本史では冷遇されている池上電鉄関連記事だが、さすがに光明寺駅については記載を省略などしていない)ので、著者のこの扱いは何を典拠としているのかまったく疑問である。なお、光明寺駅と慶大グラウンド駅前の歴史を近いうちに取り上げる予定で、その時にしっかりとした論考を行うつもりであり、今は指摘するにとどめておく。
他には、千鳥町二丁目ではなく千鳥二丁目が正しい。
P142「この駅名は東調布町から分離した新町名をそのまま駅名としたもので、古来からの地名ではないようだ。」
市町村の「町」と市町村の下位に位置する「町」(大字)との混同で、例えば東京都西多摩郡奥多摩町の「町」と東京都渋谷区宇田川町の「町」は明らかに意味合いが異なることは言うまでもないが、これを同じものと混同しているわけである。なので、分離などしていない(むしろ東調布町は東京市に合併されて大森区の一部となった)し、新町名として調布千鳥町のことを言うなら、荏原郡東調布町大字嶺のうち字千鳥窪と字横須賀が、東京市大森区調布千鳥町となったと書くべきである。また、古来からの地名という古来をどこまでさかのぼるかにもよるが、どんなに新しくとも明治初期の地租改正時には千鳥窪(千鳥久保)とあり、嶺村が村内の地域(字、小名)に瑞祥名を採用したのが江戸後期であることを踏まえれば、けっして千鳥町が最近の地名でないことは明らかだろう。
P144「昭和2年8月までに複線化と蒲田寄りのカーブが緩和され、車庫は調布大塚に移転した。」
池上駅の説明であるが、複線化は7月末には完成し供用を開始している(鉄道省技官による「池上電気鉄道株式会社蒲田雪ヶ谷間複線工事竣功監査報告書」が昭和2年7月26日付で報告)。別ページには7月と書かれている箇所もあり統一性がないのは、複数の著者によるものなのか、単なる錯誤かははっきりしない(「~までに」とあるので誤りとまでは言えないが)。また、蒲田寄りのカーブについては、若干の曲線補正があったかもしれないが、現在の線形になるのはさらに時代を下る。昭和8年(1933年)の航空写真を見れば、開業当時とほとんど変わらない線形を確認できるので誤りだろう。
P144「進行右手一帯は、旧池上競馬場の跡を田園都市会社が分譲したもので、広大な方眼状の住宅用地が続いていたが、(以下略)」
旧池上競馬場の跡地を耕地整理(区画整理)したのは、徳持耕地整理組合の施行によるもので、地主(土地の所有者)に田園都市株式会社の名はない。というよりも、田園都市株式会社は耕地整理終了前に目黒蒲田電鉄と合併しているので、そもそも分譲のしようがない。正しく書くなら、旧池上競馬場跡地は徳持耕地整理組合によって耕地整理したものの一部を目黒蒲田電鉄が委託販売を行った、とした方がよい。
以上、東急池上線部分に限って、誤り等の指摘を行った。本書は、鉄道ファン向けのものであって、鉄道設備等に関する記事内容が多くを占め、歴史部分の記述はそれほど深くもなく浅い内容が書かれているに過ぎない。よって、ここまで細かく追求するのはイヂメではないかと言われるかもしれないが、確認してみれば明らかなように救われない誤記述も多い。ただ、本書は「回想の~」と銘打っているので、「ノ」や「ヶ」については昭和40年(1965年)までを回想しており、あえてそのように表記しているならば誤りではないことを最後に付言しておく(このとおり読み取ってくれる読者も多いと思うが)。
こういった書籍は、さらにこれが典拠元となって誤りが蔓延する可能性が高く、東急電鉄系の社史等も含めて誤りの再生産は至るところに見られる(Wikipedia日本語版でも)。無論、私の調査にも誤りの可能性はあるが、それでもこうして示すことで多少は参考になればと思う。
といったところで、今回はここまで。
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