前回、「昭和・大正・明治の地図で行く 東京懐かし散歩」(赤岩州五 著、交通新聞社 発行)について、その中の一項目をピックアップし、私が気付いた誤りなどを指摘した。前にも書いたように、この手の本にツッコミを入れることは大人げないと思うが、対象読者が「散歩の達人」という散歩専門誌(?)ということもあり、間違いなく私よりも人生の先輩が多いと考え、あえて書いてみた次第である(リクエストが最も大きな理由であるが)。
一応、前回だけで終わるつもりだったが、せっかくなのでもう一つ。私が以前調査したことがある田園調布についても「田園地帯からモダン郊外都市へ」(同書60~63ページ)に書かれていたので、この記事についてツッコミを入れてみることにしよう。
- (誤)大正末期、まだ田園地帯だったこの地に、渋沢栄一の構想のもと、計画的な街づくりが展開された。その確かな痕跡は地図で見るとわかりやすい。駅の西側へと広がる放射線と同心円の道路である。
- (正)大正中期、まだ田畑地帯だったこの地に、渋沢栄一の構想のもと、計画的な田園都市づくりが展開された。その確かな痕跡は地図で見るとわかりやすい。駅の西側へと広がる放射線と同心円の道路は、渋沢栄一の四男 渋沢秀雄が構想したものである。
誤りではない、のだけど説明不足かなぁと。まず、田園都市の構想は大正4年までには渋沢栄一の中にあった。田園都市株式会社の設立は本書にも書かれているが大正7年。現在の田園調布の耕地整理が始まったのが大正12年。この流れからすると、大正末期とならないのではないか、と考える。また、放射線と同心円の道路(いわゆるエトワール式)の着想は、渋沢栄一ではなく四男の渋沢秀雄によるものなので、こうしてみた。
- (誤)専務の五島慶太は目黒蒲田電鉄を設立、
- (正)田園都市株式会社の役員でもあった小林一三の発案で目黒蒲田電鉄を設立し、五島慶太を専務取締役として迎えた。
これは完全に誤り。五島慶太をスカウトしたのは阪神急行電鉄(現 阪急電鉄)創業者の小林一三であり、田園都市株式会社の鉄道部門に関する顧問的役割として、氏を推挙したのである。目黒蒲田電鉄は五島慶太のために設立されたようなものだが、事実上の設立者ではない点に注意が必要である。
- (誤)田園調布の町並み/渋沢栄一の夢を引き継いだ長男・秀雄は、パリ凱旋門の環状線と放射線が交叉している形式を取り入れた。
- (正)田園調布の町並み/渋沢栄一の夢を引き継いだ四男・秀雄は、パリ凱旋門の環状線と放射線が交叉している形式を取り入れた。
長男ではなく四男。筆者の勘違い?は至る所で散見されるが、これもその一つ。また、パリ凱旋門のくだりも実際に渋沢秀雄が参考とした(影響を受けた)のは、米国のセント・フランシスウッドという街並みである。ただ、エトワール式として著名なものは、何といってもパリ凱旋門周辺なので、あえて誤りとはしないでおく。
- (誤)宝来公園/大正14年、住宅街として発展していく田園調布に「武蔵野の風景」を残しておこうと自治体管理地を公園とした。
- (正)宝来公園/開発当初より調布田園都市に公園を設置する計画であり、その一つが大正14年に宝来公園として開設された。公園の整備方針は「武蔵野の旧景」を残しておこうとするもので、斜面の雑木林などはそのまま残された。昭和3年、田園都市株式会社が目黒蒲田電鉄に合併される際、宝来公園を永久に公衆に開放することを条件として管理権を田園調布会に委譲したが、管理に多大な費用がかかることから、昭和9年に東京市に対して無償による寄附願が出され、昭和11年に市営の宝来公園として開園式が挙行された。この移管工事の時、現在の宝来公園に近い形となる。昭和25年、大田区に管理等が委譲された。
まず、宝来公園と示す古地図上の場所が誤っている(以下に本書61ページの当該部分を拡大。本書が示す位置は地図上には家が建っていないが、昭和3年頃に住宅地として分譲されている。正しい宝来公園の場所は明記した)。
で、本文だが、おそらく大田区の公園ガイドのようなものを参照したと推測するが、そこには「武蔵野の風景」ではなく「武蔵野の旧景」とある。内容はどちらでもよいが、引用したと思われる文脈からして転記ミスか勘違いだろう。また、意味不明な単語が「自治体管理地」である。「自治体管理地」とは一体何だろうか。これも推測だが、今日にいう「町会」組織のことを指しているのであれば、田園調布会のことと思われる。だが、だとすれば誤りである。
宝来公園の土地は、田園都市株式会社が土地買収をした時に入手したもので、大正後期には田園都市株式会社名義となっていた。それが大正14年に宝来公園として開設された際も、土地そのものは田園都市株式会社のものであり、昭和3年に田園都市株式会社が目黒蒲田電鉄と合併して、土地は目黒蒲田電鉄名義になったはずである。このタイミングで「管理権」のみが田園調布会に委ねられ、その後の東京市への無償譲渡が成された際、ようやく目黒蒲田電鉄から東京市へと宝来公園の土地の名義変更がなったのである。
この流れから見れば、「自治体管理地を公園とした」という文の意味が不明であるばかりか、どうとっても正しい文とは思えなくなる。あえて同じように書くなら「社有地を公園とした」となるだろう。
- (誤)渋沢秀雄はこの駅舎をジグス堂と呼んだ。
- (正)正確でない。
駅舎をジグス堂と呼んだのかもしれないが、これは渋沢秀雄が勝手に名付けたものではない。今は取り壊されセコいレプリカとなってしまったが、大正13年に調布駅(田園調布駅と改称するのは大正15年から)西口にできたばかりの駅舎の二階にジグス堂というレストランが入居したが、これが由来である。なお、ジグスとは漫画主人公の名前で、1923年(大正12年)4月1日発行の「日刊アサヒグラフ」で翻訳連載が始まった漫画「親爺教育 ジグスとマギー」に由来する(原作は米国の著者)。この漫画は、連載漫画そのものが初めての体験となる我が国で大流行したと伝えられるが、その一端がレストランの名前に採用されるということだったのだろう。
- (誤)丸子多摩川園/水が湧き出す湿地帯で、埋め立てても住宅地にできないため、大正14年に遊園地となった。昭和54年にテニスコート「ラケットクラブ」となったが、昭和57年に姿を消す。駅名も変遷し、遊園地時代は「多摩川園前」、テニスコート時代は「多摩川園」、現在は「多摩川」。
- (正)丸子多摩川園/水が湧き出す湿地帯で、埋め立てても住宅地にできないため、大正14年に遊園地となった。昭和54年に閉園後、テニスコート「多摩川園ラケットクラブ」となったが、平成12年に姿を消す。駅名も変遷し、遊園地時代は「丸子多摩川」、昭和6年からは「多摩川園前」、テニスコート時代は主に「多摩川園」、現在は「多摩川」。
よくわからないのが、多摩川園ラケットクラブが「昭和57年に姿を消す」とあるところ。さすがにこれは類推できない誤りである。駅名変遷にはつっこまなくてもいいかと思ったが、掲載されている古地図上には「まるこたまがわ」と駅名が書かれているのに、これにふれないのはいかがなものかと思い加筆してみた。。
以上、この辺でやめておこう。ところでこの本。「散歩」と銘打ちながらルート紹介もなければ、最寄り駅案内とかもない。要するに勝手に地図を見て行ってくれ、ということなんだろうが、散歩と称するエッセイと見ればいいのかもしれない。
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