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2010/03/24

コメント

五反田駅も大井町駅も未だ開設されていません。大崎からのバイパス線は青山練兵場駅から兵員を輸送するために急遽設置されたとのことです。戦前は京浜東北線に連結されていました。

多分、昔、大手を振って、外出(物見遊山)ができる、というのは「神社仏閣への参拝」とかだったからじゃないでしょうかねぇ。(特に女性)
大奥なんか見てても、「代参」とかで、奥女中が出かけるのは、お寺参り。その帰りにちょっとお芝居に寄ってとか(笑)。「絵島生島」の一場面を思い出してしまいました。

大部分の神社仏閣は現存していますし、中原街道も洗足坂上から分岐する大井街道も図示されています。郊外電車の無い時代ですが、馬車がどのくらい普及していたかは知りませんが今日のジョギングと比較できませんが当時の人々の健脚ぶりに感心させられます。

皆様、コメントありがとうございます。

当時のメインストリートがわかる面白い地図だと思って部分掲載した次第ですが、頂戴したコメントによって、いろいろな見方があるもんだと実感しています。
寺社仏閣以外に掲載されているものと言えば、大森の八景園と品川の妙花園、そして桐ヶ谷の火葬場だけ。純粋な近郊農村だったんでしょう。

池上道はお会式の時に人が線路に溢れ出て死傷者を出す惨事となったとのことです。今では考えられません。

平塚橋で中原街道から分岐して法蓮寺を経由して大井街道と夫婦坂付近で交差する点は耕地整理から無関係の今でも残る貴重な座標軸として利用しています。多分久が原付近を経由して下丸子で池上道と合流するものと思いますが左が欠けているので分かりません。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

本門寺のお会式がものすごい混雑になるというのは、やはり道が狭かったこと、道自体も少なかったことも影響していたと思うんですね。先日、原宿の竹下通りで人が集中しすぎて将棋倒しになりけが人が出たという騒ぎがありましたが、これも竹下通りでなく、表参道であればあそこまでひどくはならなかったかもしれません。

また、東京近郊之地図について左が欠けているとのご指摘ですが、実は私が欠けさせたのではなく、この左部分及び下部分はもとの地図から載っていない部分なんです。要は多摩川までではなく、蒲田付近までもが東京近郊扱いされていないというわけなんですね。

大井街道と池上道と交差する点は大井三つ又でしょうか。鎌倉街道下の道の解説によると池上道の古道は鹿島神社と西光寺の東側を経由して東海道線を以前は踏切で現在はガードで横切り立会川を渡って品川に向かっていたようです。立会川を渡る付近は関ヶ原と呼ばれていたので関所が設けられていたのでしょう。死人がでるほど混雑する池上道に電車を通す計画があったことは頷けます。参詣客を当て込んだ鉄道の代表は京成電鉄であり、京浜急行ノ母体の大師線や東武鉄道の新井薬師線も同じ目的でした。レジャーが多様化している今日と異なり参詣もピクニックの一種だったのでしょう。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

「大井街道と池上道と交差する点は大井三つ又でしょうか」← 仰せの通りです。ただ、池上通りはその先(大井町方向)は新道なので、この地図に載っている旧道は現在の池上通りの北側になります。道路自体は健在ですので、JR線を越える手間はありますが歩くことは可能です。

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