総括編1では、ほとんど作図に時間を費やしてしまったが、せっかく作った図なので、時代の変遷毎に対応した図とすることにした。よって、総括編2はこの図をもとに、旗ヶ岡駅と東洗足駅が統合して誕生した旗の台駅が、周囲一帯の地名(町名)を塗り替えるまでの流れを示し、この部分の歴史を振り返ってみたいと思う。
では、まず総括編1で示した図をもう一度掲示しよう。
昭和2年(1927年)、目黒蒲田電鉄の東洗足駅と池上電気鉄道の旗ヶ岡駅が相次いで開業した時には、この地域は東京府荏原郡荏原町(直前は平塚町)の大字中延に属していた。大字中延の「中延」という名は、両社の路線それぞれの駅名にも採用され(目蒲は「中延」、池上は「荏原中延」)ていたが、両線交差部に近い両駅には「東洗足」と「旗ヶ岡」が採用された。「東洗足」は、目黒蒲田電鉄の親会社というべき田園都市株式会社の展開する分譲地、洗足田園都市の東端(正確に言えば東南端からやや先)に位置すること、そして洗足という名がブランド化していることも採用理由としてあっただろう。本来、この地域は「洗足」とは無縁なのだが、実際このあたりまで洗足ブランドの進出は進んでいたのである(洗足教会、洗足幼稚園、洗足パン等)。
一方、「旗ヶ岡」は目黒蒲田電鉄大井線の荏原町駅(開業前の予定駅名は「法蓮寺前」で、まさに駅前そのものというネーミングだった。なお、平塚町から荏原町に町名変更したのは大井線開業5日前)の方が近いのだが、法蓮寺に隣接する旗岡八幡宮(神社)に因み、「旗ヶ岡」とした。つまり、「東洗足」も「旗ヶ岡」も駅周辺の実態とはやや離れたネーミングだったのである。
両線交差部分に乗換駅を設けるという発想が昭和初期にあったかどうかは別として、昭和初期までには既に目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の対立は決定的というまで先鋭化していた(例を挙げれば「路線案内[目蒲・池上]未記載問題」や「玉川村乗入問題」等)ので、交差部分に乗り換えを考慮した駅を設置しなかったばかりか、双方の乗り換えなど一切無視した出入口構造だった。しかし、いざ開業してからは乗降客のクレームに応える形で、両社とも自社所有地を活用するなどして両駅間の短絡道まで接続する工夫を実現するまでになった。
そして、昭和7年(1932年)10月1日、東京府荏原郡荏原町は東京市に合併され、東京市荏原区として東京35区の一つを構成するようになる。同時に荏原町の大字だった中延は、同じ区域をもって中延町となった(荏原町は大字区域をそのまま町とした)。つまり、「東洗足」及び「旗ヶ岡」のエリアはもともと大字中延だったのだが、小字名が廃されたことにより、単に中延町○○番地と表されることになった(住所の書き方としてはいちいち小字名を書かない例もあったが、耕地整理に伴う地番変更で混乱していた状況に拍車をかけてしまった)。
地図上は中延町一色となって面白くないので、当時のバス路線と停留所名を補入しておいた。赤い点線は池上電気鉄道の路線バス、青い点線は目黒蒲田電鉄の路線バスルートを示す。さすがに池上電気鉄道のバスといえども、東洗足駅を無視してはいない。むしろ、目蒲の客を奪ってやろうくらいの勢いかもしれないが…。また、ルート上やむをえないのかもしれないが、鉄道同様にバス停留所も両社それぞれ離れたところに「東洗足駅前」バス停留所を設置している。
東京市に合併されて10年も経たない昭和16年(1941年)4月1日、荏原区は大規模な町名変更を実施する。先にもふれたように、荏原区は荏原町時代の大字をそのまま町としてしまったために、人口増加と家屋稠密で郵便物の誤配も多く、行政効率も著しく低下を来していた。このため、戦時体制に進んでいく中、大字をそのまま町としたのは不合理だとして町会を隣組制度に組み替えすることも相まって、大幅な町名変更、町会整理を行った。一部の例外を除き、基本的には一町丁目一町会とされ、おおまかなかつての大字区画(町区画)は維持されたものの、大胆に再編成されたと言っていい。
東洗足・旗ヶ岡エリアは中延町一色から、西中延、平塚となり各丁目にも区画されたことから、荏原町時代の小字よりも区画が増えた。地番はそのまま継承されたが、町丁目が細分化されたことから町区画は近代化(効率化)されたといえる。しかし、同時に町会区画と同一化させたことも理由の一つなのか、あるいは別の理由かは調査できていないが、第二京浜国道(当時は新京浜国道)や拡幅された中原街道といった、境界としてふさわしいと思われる部分で区画されていないのが気になるところではある。
と、長くなってきたので、この辺で次回に続くとします。最初に書いた旗の台までは、総括編2ではふれられずじまいでしたので、総括編3では何とか…(笑)。
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