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2010/01/06

コメント

改札口は上りホーム側の大岡山側にあり、下りホームからは踏切を横断しなければなりませんでした。中原街道か
ら交番に沿って丸子橋に向かって左に曲がって20メートルぐらいの所だったと思います。駅舎はそこそこの広さで小荷物も扱っていました。小生は昭和14年から市内の某市立大学の付属校に通学していましたが、ホームの屋根はすでに拡張されいたように思います。遅刻の常習犯でいつも怒られていました。

いよいよ、念願の(*>ω<)o
私にとって幻の「東洗足駅」の登場。感激です!
また、東洗足駅を、実際に利用した方のお言葉を聞けて、大変嬉しく思います。

私の記憶の東洗足駅は、もうプラットホームの残骸でしかありませんでした。
が、私が物心ついたとき、まだ大井町線は、高架になっておらず、中原街道を「踏切」で横切っておりました。
交番の後ろあたりから、「元駅」へ向かえる道が途中まであったような記憶があります。また、交番の横あたりに、「東洗足駅前商店街」の名残の商店が、3軒ぐらい残っていました。その中の一つがお肉屋さんで、ここの娘さんと私は、小学校の同級生でした。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

改札口の場所は仰せのとおり、ですね。ですが、話はそこにとどめません。東洗足駅と旗ヶ岡駅の関連はどうなっていたのか、という点についても書いていくつもりです(まだ書いておりませんが)。とはいえ、現実を体験された方には絶対に勝てませんので、またご指導をいただけるとありがたいです。

そして、りっこ様、コメントありがとうございます。

東洗足駅は、現在旗の台駅という扱いではあるのですが、旗ヶ岡駅との関連を無視することはできません。私の中では、旗ヶ岡駅の延長線(先)に東洗足駅がある、というイメージで書くつもりでいます。
で、交番の横辺り、というと今の旗の台商店街とは違いますよね。どこあたりだったのでしょう?

商店街は改札口を出てすぐに大岡山よりに踏切があり、それを渡って右に曲り下り側の線路に沿った道の中原街道までの間に私が記憶しているのは文具店とパン屋がありました。また目蒲線洗足駅に至る道路と中原街道との交差点にも小規模な商店街があったように記憶しています。現在の池上線の五反田寄りの商店街は駅が移転してから発展したもので、以前は住宅地であったと記憶しています。現存するかどうか知りませんが例えば店主が小生の小学校の同級生であった太平堂と言う本屋も,元は旗が岡の商店街の延長線上にあったものが移転したものです。

(/ ^^)/ はーい!

上記で示していただいた、ゼンリンの地図でいきますと、旗の台の交番と、旗の台スカイマンションの間に、ちょっとお店がある感じがありませんか?

そこらあたりです。
そこに、数軒のお店がありました。

私が小学校の低学年ぐらいまではありましたが、1軒、また1軒と閉店していくのが、とても寂しかったです。
友人のお店は、その後、環七に面した、北千束駅へ行く横断歩道の手前にお店を移転して、長年営業しておりました。(もう閉店しております。が、友人宅はまだそこにあります)
彼女と、3年前に連絡がとれました(というわけで、彼女は小学校卒業後、大田区の学区域になってしまったので、中学校から別れ別れだったのです)
今度もっと詳しく話が聞けるといいなと思っています。

洗足田園都市に住んでいた小生が池上線を利用しようと思った時は坂が殆ど無い長原駅を利用していました。当時は五反田から沼部まで中原街道を通るバスがありましたので五反田方面に行く時はバスを利用することが多々ありましたので遠足でも行く時でなければ旗が岡を利用しませんでした。

木造院電車両マニア様

バス!
私、よくバスに乗っておりましたよ。
当時、「丸子橋」と「東京駅丸の内南口」間で、結構頻繁にバスがありました。
武蔵小山商店街、銀座、みんなバスが便利でした。

そして、まさにこの「東洗足」のバス停。
東洗足駅がなくなった後も、バスが中原街道を走っている間は、ありましたよね。
知らない人がこの「東洗足」というバス停を見ると、一体これはどこから来た名前なんだろうと思ったのではないでしょうか。

りっこ様
五反田で買い物をしたときなどついつい上まで上がって電車に乗るのが面倒でバスが便利でした。昭和の初期などは我侭な母が環七の手前の便利な所で車掌に勝手に停車させていたのを覚えています。のんきな時代でした。今日の自由が丘のデマンドバスのアイディアと同じです。

木造院電車両マニア様

確かに。本当に五反田のプラットホームは高いですもんね。それに比べると、バスはJRから降りて一つだけ下がり、そのまま家の近くまで。便利でした。

ところで、XWIN ll様のご厚意に甘えさせていただきまして、木造院様に、このタイトルとは違う話題なのですが、一つ、教えていただきたいことがあるのです。
それは、長原周辺の「映画館」及び「芝居小屋」あるいは「映画・芝居に関する看板」に関しての、昭和30年代~40年代初頭の記憶なのですが。
元神戸屋の裏が「長原劇場」だったことはわかっているのですが。そのほかに、上記のような場所ってありませんでしたでしょうか。
小学校の同期のうち数人が、「たしか、もう1カ所、映画館があったような気がしてならない。でももし、それが映画館でないのならば、映画の看板が大きくかかった建物があったのだと思う」と申しておりますが、全く真偽のほどが定かではありません。
木造院様の抜群の記憶力におすがりしたく、どうかよろしくお願い申し上げます。
もし、そういう看板のかかった建物(あるいは映画館)が当時あったとしたら、その場所をぜひ教えていただけたら幸いです。
(あくまでも、「長原駅周辺」の話ということで、よろしくお願いいたします)

りっこ様
洗足坂上で中原街道から分かれた狭い長原の商店街に向かう道がありますが、長原駅を出て左に曲り、その道を右に曲がって少し中原街道に向かって歩いた右側です。古い映画館の(当時は活動写真館)の建物があったことを覚えています。大田区の久が原図書館に"地図で見る大田区の歴史”のなかの昭和初期の部に記載されてました。私の小学生のころは平塚橋にも荏原電気館などという映画館があり、当時ジンタとよばれた楽隊がBGMを演奏し弁士がせりふを喋っていたものです。両親が非常に厳しい受験パパママで鑑賞を禁じられていたので残念ながら見たことがありません。地図の件ですが少し不便な所にありますが久が原図書館が一番確かです。

りっこ様
補足説明として番地は上池台一丁目の20辺りで中原街道側は材木屋であったと思います。古地図をコピーしてスキャンして添付送信すべきですが、恥ずかしながらまだその技術を習得しておりませんのであしからずご了承下さい。文字入力だけしたら外国特許の翻訳をやっていて、速度を求められましたので長文でなければさして苦にはなりません。

木造院電車両マニア様

ありがとうございます!もう大感激です!
友人が申しておりましたのも、その辺りでした。
もう少し突っ込んでご質問することをお許しください。m(_ _)m

上池台一丁目20辺りというと、昭和35年の大田区長原周辺住宅地図によると、三菱銀行の隣あたりです。
で、中原街道に面した材木店というと、「藤﨑材木」(上池台一丁目26)と、「材金材木点」(上池台一丁目38)があるのですが、このどちらでしょうか?


ちなみに一丁目20番地には

伊藤書店・柴田歯科・沢時計・栄やというお店があるのですが、昭和35年時点では、残念ながら映画館が存在していない地図になってしまっています。
でも久が原図書館ですね!
今度調べにいってきます。 ありがとうございました!

木造院電車両マニア様、りっこ様、コメントありがとうございます。
気づいたところのみコメント付けます。

・東洗足駅商店街について
 場所は了解できました。駅出入口から中原街道口に出た辺りですね。中原街道拡幅前までは、十分道路両側に商店街が展開する余地はあったと思うので了解です。

・長原駅について
 仰せの通り、あのあたりは坂の多いこの近辺では珍しく平坦な土地ですよね。玉川水道関連施設(現 東京都水道局施設)があるのも頷けます。長原駅は廃駅ではないので、採り上げるタイミングが難しいですが、池上電気鉄道がらみの話でいつかは(年内には)採り上げてみたいと考えます。

・中原街道を走る路線バスについて
 その昔は、この地域で最も古いバス路線でしたが、今は廃止になってしまっています。バス停留所名にもなかなか由緒ある名前が残されているものもありますので、これもいつかは採り上げたいと思いますね。

・長原駅近辺の古地図について
 大田区教育委員会の出した「地図で見る大田区」シリーズの一つに入っていますが、いかんせん大森区当時の商店街図なので、長原駅近辺が小さく出ているのが惜しまれます。馬込町(村)時代のものがあればいいのですが…。

ありがとうございます。 m(_ _)m
長原駅も取り上げていただけるということで、これまた、楽しみが増えました。ワクワクいたします。長原駅は、池上線の中で、最も早い時期に地上から姿を消した駅。今では、地上にあった長原駅を知っている人は、昭和30年代以前生まれの方ではないかと思います。

ところで。
今回、映画館のことで、少しわかってきたことが、とても嬉しく思います。と、ともに奇妙な思いにもとらわれてしまうのです。
というのも。
我々の小学校は、学区が中原街道と環七の交差点の近くまで、ということだったため、小学生時代のテリトリーが、長原中心という者がおります。(私のその一人です)

で、その同級生にとって、「長原にあったもう一つの映画館」の位置は、「永遠の謎」になりかけておりました。
というのも、我々仲間が集まりました際、長原駅周辺商店街に、昭和20年代及びその以前から同じお店、同じ店主だった方に、その質問をさせていただいているのです。
例えば「三原堂」のご主人。天皇陛下と同齢とのこと。お店は少なくとも昭和30年より前から。そしてまた「ヒルタ写真館」のご主人。60歳後半でいらして、長原に居を構えたのは、10歳から。

どちらも、「長原商店街のもう一つの映画館は、ないですよ」とのことでした。
ところが、我々の仲間うちは、皆、上記、木造院様がおっしゃるあたりに、映画館があった、という記憶があるのです。
この記憶の齟齬は、一体どこから来ているのでしょうか?
長原マーケットには「闇市」があったそうです。いかにも戦後を思わせる話ですよね。
そんな昔のこともご存じなのに、「長原劇場は、長原商店街の地元が皆で誘致した映画館。それ以外はありません」と、上記2店主様からは明確にお返事をいただき。「では、我々の思い違い」と思っておりました。

それだけに、木造院電車両マニアさまのコメント、まことに嬉しく感激いたしました。

話は変わりますが。
このヒルタ写真館のご主人のお話で、「昭和20年代の長原駅」というビデオがある、ということで、貸していただける話になり、我々一同、大変喜んでおりましたんですが、これが、散逸したと、後からお返事がきて、ガッカリしております。
何とかこれをダビングして、お持ちの方がおられないものかと、まだあきらめていないのですが。


木造院電車両マニア様

「太平堂」
惜しくも、閉店いたしました。今から十数年ほど前でしょうか。
で、今はほとんどそれと同じ位置に、違う店主さんの本屋さんが建っております。
この商店街は、本屋さんが少ないですよね~ (>_<)

りっこ様
最初に申し上げておきたいのですが、小生の通学と通勤駅の大部分は東洗足であり、戦時中は特に割り引き率の大な通学定期は学校で管理しており最短距離しか認めないことで他への流用を防いでいましたのでこのルートを利用することができないのと、大崎経由の山手線の通勤時間の数分間朝寝坊したいと言う情けない理由でした。戦後間もなくは米軍トラックを改造したトレラーバスで当時は信号も少なく渋滞も無かったので都心まで乗換なしで行けるのでついつい利用していました。また大学予科が東横線の沿線にありました関係で北千束駅もよく利用しました。そのような事情で長原駅付近のことについては十分な情報をお知らせすることが出来ないことをご了承下さい。本日所用で洗足池図書館に行きました折にたまたま見た大正14年頃の古地図の馬込北を見ますと1-20の付近の中原街道沿いに演芸館の記載があり、多分旅役者のどたばた喜劇でも上演していたのでしょう。旗の台駅南口には旅役者の劇場がありました。材木店は多分廃業したのでしょう。私の記憶しているそれらしき建物は屋根にドームかキュウポラのようなものがあった特殊な大きな建物だったので記憶にのこっていたものです。お役に立てなくて申し訳ありません。

XWIN II様
例えば池上線に囲まれた例えば馬込地区はバス交通に頼っておりますが、バス停名には昔の小字が残って居り、それに関する記事を期待しています。

XWIN II様
玉川水道はいい意味でも悪い意味でも、昔は話題になった会社です。洗足田園都市は田園調布で多摩川から取水していましたが上げ潮のときに塩分が混入して閉口したことがあります。その後丸子橋の所に堰を設けて逆流を防いでいましたが水質悪化で現在は取水していません。本管の径が不足していたのか標高差が足りなかったのか夏になると水圧が低下して往生しました。父が最新式の瞬間湯沸かし器を購入しましたが水圧不足で作動せず苦労しました。昭和35年に所帯を持って池上線の沿線に暮らす様になりましたが、標高が低かったのに以前の癖で水道の栓を一気に開いて鉄砲水でズボンを濡らしたことを覚えています。長原も馬込もだいたい環七尾根のところにあります。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

バス停留所名については、簡単に、そしてあっさり名称変更を繰り返すようなものもあれば、一方で旧来の名称をそのまま残し続けるものがあったりと、鉄道駅名以上に興味深い事例なのですが、いかんせん、鉄道駅と違って標石一つで簡単に停留所の開始・廃止ができてしまうことや、鉄道ファンよりも路線バスファンの少ないことも相まって、なかなか古い資料から歴史を紡ぐことができない(定点観測的なことなら可能)んです。
しかし、ご要望をいただいたこともあり、手持ち資料の中から一つ試験的に近日中には採り上げてみたいと考えています。

そして玉川水道についてですが、東京で最初の民営水道事業にチャレンジした羽田水道(正式にはもっと大きい名前ですが通り名ということ、そして羽田という土地に有意)などの地ならしあっての水道事業でありながら、様々な問題を起こし、最後は東京市に買収されて終了。とはいえ、水道事業を荏原地区に普及させた功績は大かと後学のものからは見えます。さて、それはともかく当時の水道にまつわるお話しをいただき、大変参考になりました。ありがとうございます。

木造院電車マニア様

いろいろと昔のご記憶のコメント、ありがとうございました。非常に役に立ちました。
今度、また大田区の図書館に行って、じっくり調べてこようかなと思っています。
実は、大田区で一番大きな(はずの)沼部の図書館には行ったのですが、大田区は指定管理者さんへの民間委託なのか、こちらの欲しい資料が、受付の方にわかってもらえず、がっかりして帰ってきたんです。また、洗足池の図書館もまいりましたが、この時は「日蓮上人像」について調べておりまして、そちらのことまで思い至りませんでした。残念なことをしました。
こちらの像が、洗足池に建立されたのに、なぜ昭和41年に鎌倉の長勝寺に移築されてしまったのか。これも今、真実をどなたもご存じないようです。(長勝寺も洗足風致協会も)

りっこ様、コメントありがとうございます。

大田区の図書館は残念ながら指定管理者制度に移行しており、大変残念ながら単なる貸本に成り下がっています。指定管理者制度が悪いわけではなく、図書館としての機能は無意味であるというトップのご認識なのかと思いますね。受付対応のさわりだけはよくなっていますが専門家がいないので…。もっとも、司書制度自体が形骸化しているので、指定管理者制度導入前でもド素人職員がアルバイトみたいな対応しかしていなかったことを考慮に入れれば、前よりはよくなっているでしょう。
そして洗足池図書館は、大田区は大変ひどいことに洗足池の水面を埋め立ててあの図書館を作ったんですね。地元ではどうだったのか当時の経過は承知していませんが、貴重な水面を埋め立てるなど暴挙としか思えません。
で、関連して日蓮上人像ですが、おそらく洗足池畔の寺のご住職がご存じなのではないでしょうか。「千束」池を「洗足」池と読ませた袈裟掛け松伝説の作成者の後代でもいらっしゃいますので、有意義なお話しが伺えるのではないかな、と。
(移設の理由は、勝手な想像では公園という公共スペースに宗教施設があるのはまずい的な昭和30年代末~昭和40年代前半の情勢があったのではと愚考します。なお、いくらお寺や風致教会でも受付的な人は事情をご存じないと思うので、ちょっと聞いた程度ではわからない場合もありますね。あまり言いたくはないですが、当社も似たようなものです[笑]。)

XWIN ll様 ありがとうございます。

品川区立図書館の対応が、すばらしいものだったのです。
「荏原地区の歴史を知りたい。特に旗ヶ岡や東洗足駅に関するものの資料」ということを受付にお願いしたら、図書館の責任者に近い方とおぼしき男性と、受付の女性と、2人がかりで、あれやこれやアドバイスをしてくださいまして、感激でしたし、本当に助かりましたし、私の「地元史」に対する興味は、ここからスタートしたといっても過言ではありませんでした。
なので、そのつもりで大田区に行ったものですから、その落差に唖然としてしまったのが事実です。
また、都立広尾図書館の対応も、「丁寧だけれど、親切ではない」て感じで(笑)

日蓮上人像、あれ、もともとは「洗足風致協会」の所有物なんです。そこまでは風致協会に確認いたしました。(これも、上の方に出てきていただきました)でも、その方は、当時の記録は何も残っていない、とのことでした。
また、鎌倉・長勝寺側で、取材してくださった方もおられます
http://blog.goo.ne.jp/it_hiroko/e/3846679decf655bb27797b649852069f

こちらも、「わからない」とのこと。さらにひどいことには、長勝寺周辺では、「日蓮像はもともと長勝寺のもので、戦争中、像を疎開させていた」という話になっていること。(タクシーの運転手・談)あんまりだぁぁ (>_<)

洗足池の埋め立てに関してですが、今からは想像がつきにくいですが、一時洗足池は、立会川同様、ドブ池になり、悪臭がひどかった時代があります。下水・汚水が流れ込んでしまったんですね。だから、あの池は風光明媚とはほど遠く、そんな状況の中では、埋め立てをすることに対する反発の声は、地元から余り上がらなかったのではないでしょうか。そんな予測をしています。

XWIN II様
りっこ様
洗足池図書館の場所は袈裟掛けの松の風景画の一部を構成する重要な場所であり、小生が子供の頃の重要な釣り場でしたのでちょっと残念です。でも既に水質が悪化していた水を飲んだ魚を食べたかどうかの記憶は定かでありません(笑い話)。蔵書の件ですが、柏書房の昭和初期の商工地図をその洗足池図書館に取り寄せる手配をしましたので色々昔の商店街の様子が分かると思います。最近はネットで東京都立図書館や国会図書館の蔵書を検索しています。請求番号あるいはISBN番号を控えて図書館で直接番号を入力することで待ち時間を大幅に短縮できます。

木造院電車両マニア様

>>洗足池図書館に行きました折にたまたま見た大正14年頃の古地図

よろしかったら、上記の地図のタイトル、教えていただけないでしょうか。

「昭和前期日本商工地図集成」は、私の現在の居住地の県立図書館にもある、ということでしたので、折を見て、私も見にいってみよう、という気になりました。大変ありがたいです。
都立中央図書館にも所蔵があるんですね。今度、昭和11年~13年刊の、火保図の品川区部分をその図書館に調べにいきたいと思っておりますので、その際大森区も調べてみようかな、なんてどんどん夢は膨らんでいきます。

本当に本当に何度感謝しても足りません。
XWIN ll様
木造院電車両マニア様

ありがとうございます!

りっこ様、コメントありがとうございます。
日蓮上人像が洗足風致協会の所有物だったとは初耳でした。どういう経過でそうなったのかは興味深いところではありますが、確実に言えることは協会発足よりも前に日蓮上人像は洗足池畔に立っていたということです(昭和初期の池上電鉄沿線案内に記載)。池に因むものは全部協会のものにしてしまったということなんでしょうか?

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
洗足池など、水面の汚染は昭和30~40年代に大きな社会問題化していたのはもちろん、水俣病の原因など全国レベルまで視野を広げれば、経済優先のゆがみはいたるところにあったでしょうね。
今はどうかわかりませんが、いずれは八郎潟の埋め立て等もあれこれいわれるかもしれませんね。

りっこ様
洗足池図書館の掲題の地図は読書室の隣の入り口から向かって一番左側のラックの右側の郷土歴史関連図書の地図で見る大田区の歴史の中で製本されておらず柔らかいグレーのものの中の池上北か馬込北の何れかです。最初に目に止まった契機は初代雪谷駅の場所を調べていた時です。国会図書館でも新館4Fの地図専門の部屋に行って入力したこともあります。話はそれますが、小生は律令制の相模と武蔵の国境線が横浜市港南区を横断している全国でもまれな例について港南歴史協議会のサイトから調べたことがあります。ピンポイント検索のために事前に自宅でISBN等を調べていっても期待していた内容でないことがしばしばあります。画面の簡単な説明では分からないことがあります。

日蓮像、おっしゃられるとおりです。建立は大正12年(1923年)10月です。清明会が中心となり、荏原土地株式会社社長にして日蓮宗信者たる綿貫氏が、建設地寄附等に寄与しました。
洗足風致協会が設立したのは昭和8年です。
日蓮像が、どうして洗足風致協会の「所有」になったのか、その経緯は私にはわかりませんが、「洗足池いまむかし」というシリーズ「御松庵と弁財天と八幡宮」には、「昭和8年に洗足池風致協会(原文ママ)が設立されて、洗足池は同協会の所有の下に、都立の公園として維持されてきた。1989年に洗足池と小池、及びその付属地併せて大田区に寄贈された」と記載されています。

あと、文献のみならず、私、洗足風致協会の方に、直接お聞きいたしまして、日蓮像について随分あれこれ質問したのですが、「わからない」「記録がない」のオンパレード。ただ、「日蓮像は、風致協会所有です」だけは明言しておられました。


それから、この日蓮像移転の経緯なんですが。実はこれに関して私がこんなにこだわるのは。どうもこの移転の経緯、1881年生まれの私の祖父は事情を知っていたような気がするのです。小さいときから祖父に連れられて何度も洗足池に散策にきましたが、私がまだ小さいときに「ここの日蓮像は、○○という理由で、もうじき移転してしまうんだ。残念だ」と祖父が何度か話をしていたのを覚えているからです。でもまことに悔しいことに、この「○○という理由」が全く思い出せません。それさえ覚えていけば、この移転の理由も、かなり明らかになったのではないかと思うと、まことに残念でなりません。

八幡様の横に立っていた日蓮像は私の少年時代の記憶に鮮明に残っています。大森山王に転居してから池上線沿線に戻ってきてから洗足池を訪れたとき忽然と像が消えておりびっくりしました。その後私もその経緯は一切聞いておりません。池上と馬込地区は日蓮宗の寺院も多く、地元出身の友人も皆日蓮宗の信者が多いのにこの話は聞いたことがありません。

りっこ様
荏原土地株式会社の簡単なプロフィールを教えて下さい。久が原の宅地を開発したところですか?池上電鉄も東急同様に久が原付近で宅地造成を行ったと聞いております。

りっこ様
荏原土地の件はヤフーで滋賀大学の研究資料で虚業家高柳淳之助の中で概要が注15で述べられていますので結構です。お手数を煩わせたことをお詫びします。ちなみに綿貫氏は池上電鉄の相談役です。

木造院電車両マニア様

ご教示、ありがとうございました。
本日、県立図書館で、昭和前期の商工地図集成を閲覧してまいりました。
「荏原区」の「演芸場」ですが、
「松竹直営 荏原電気館(小山)」また「映画殿堂 昭和キネマ(戸越町)」との宣伝が入っておりました。昭和8年のものです。(本体は、旧漢字で表記されています)
また「書店」には「大平堂」の名が……

この資料を教えていただき、本当にありがとうございました。
ただこの本、新聞紙大で、重いです(>_<)
私、一人ではコピーをとることもできず、図書館の職員さんにコピーをとるの、手伝ってもらいました。どうか、本をお持ちになるとき、お体に気をつけてくださいね。

残念なことは、「大森区」が現存していないこと……蒲田区はあるのになぁって切歯扼腕してしまいました。

日蓮上人像
洗足池側にも、長勝寺側にも、経緯を知る人がだれもいないというのは、全くもってナゾですよね。

りっこ様
商工地図集成の件でのおきずかい感謝に堪えません。ねじ回しで綴じ棒を外して必要な部分を抜き取りコピーすることもできますががたがた言うかもしれません。
国会図書館のOPACでも検索してみます。
日蓮上人像
補足として、お姿が無くなったのを発見したとき、鉄砲の弾に鋳潰された初代渋谷の忠犬はち公の銅像のことが頭をよぎりました。よもや元寇のときに神風を吹かせた上人様の銅像をも鋳潰すほど帝国軍人も落ちぶれたとは思いたくありません。.何れにしても後味の悪い話でっす。

りっこ様
長原の映画館
おぼろげな記憶を辿ると問題の建物の屋根に中原街道にむかって看板屋が書いた稚拙だがなにかレトロな映画の絵の大きな看板があったような気がします。場所的には中原街道の反対側が学研の発祥の地であったような気がします。調査のためのもう一つのアプローチとして古い電話番号簿があるとおもいます。国会図書館か大手町の逓信博物館の資料室にあるかもしれません。昭和30年代であればすでに池上電話局区内でもかなり加入者が増加しているかもしれません。職業別があったかどうかは定かではありません。局番は4あるいは7が頭の2桁であったと思います。頭が4から7に変わったのがいつ頃であったかは覚えていませんが、電話機関連の翻訳を手がけたことがあるのである程度の知識はあります。

りっこ様
ネットで検索した結果職業別電話帳が初めて発行されたのは1951年つまり昭和26年ですので、検索の絞り込みに役立つと思います。旗の台あたりの映画館の最盛期には売り上げをみかん箱に投げ込み伏見稲荷の賽銭箱のように計算するのが大変だったと言っていました。当時のシンボリックな作品は赤胴鈴之介だったと知り合いから聞いたことがあります。

木造院電車両マニア様

電話ですか!すごいなぁ。そういう発想は私はできませんでした。大変助かります。
また、新たなアプローチができるなと、喜びが心の底からわいてきます。

日蓮上人像ですが、久しぶりにごらんになったときにいなくなっていたのには、本当に驚かれたと思います。私もガッカリいたしました。洗足池に佇む日蓮像、好きだったので。1966年(昭和41年)に、経緯不明ながら、鎌倉・長勝寺に移築されました。
洗足風致協会の方のお話によると、「長らく高村光雲作と言われていたが、あれは違うらしい」とのこと。作者不明、移動の経緯も不明……日蓮上人が泣きますよね。
ネットで、現在の長勝寺に立つ日蓮上人像を見ることができますよ。

再び映画館ですが。そのご記憶、もう少し教えていただけませんか?
「場所的には中原街道の反対側が学研の発祥の地」
発祥の地が昭和21年大森区南千束ということはわかっているのですが、今で言うと、どの辺か、ちょっとわからないんですよ。よろしくお願いします。
この学研本社。ほどなく荏原区平塚8丁目1204番に一たん移転しました。そのときの写真は、「学研社史」で見ることができます。

りっこ様
学研発祥の地ですがゼンリンの地図では中原街道の洗足坂上の少し手前の丸子橋に向かって右側の教科書販売会社とかいうふうに記載されていました。映画館に関しては友人にも尋ねてみましたが会話の歯車が噛み合ず(ご想像におまかせします)満足するような回答が得られませんでした。

木造院電車両マニア様

ということは、長原駅側の、材木店のあったところから、中原街道を挟んで向側の「東京教科書KK」というのがそれでしょうか。

つまりは、昔、材木店のあった、その裏あたり、そんな感じかな。実は去年の10月、このごく近くの「三津屋酒店さん(昭和30年代にはもう営業しております)」へ、そのことを聞きにいったのですが、「そういう建物が存在した記憶はありません」と言われてしまい、一同意気消沈。「じゃあ、きっと思い違いだね。何人も一緒に思い違いするなんて、ナンカ変だけど……」ということになったのです。

本当にこの「長原のもう一つの映画館」については、長原の商店主さんにお聞きすると、皆さん「記憶にありません」とおっしゃる。我々もやもやした気分だったのですが、木造院様が、「記憶にある」と言っていただいて、俄然、「やっぱりあったんだ!」というワクワク気分になってきています。ありがとうございます。

りっこ様
電話帳に無ければ存在しなかったことになり小生のデジャビュー(Deja vue)現象かもしれません。なにしろ年ですから(笑い)

木造院電車両マニア様

電話帳で探す件、アドバイス、ありがとうございます。
逓信博物館に問い合わせメールをしたら、返事が返ってきました。

「昭和26~38年の職業別電話番号簿ですが、昭和27年以外は所蔵しております。
ただし、この時期は区ごとに分かれておりません。全部一緒になっています。
昭和26年のものは特に状態が悪く、一部かけているページがございますので
ご了承下さい。
図書の閲覧は平日火~金曜のみ、9時~16時までです。
(曜日が祝日の場合は火曜日が休館になります)
閉架式ですので4階博物館部の部屋までいらしてください。
電話帳は状態が悪く、コピーはできませんのでメモを取られるか、デジカメで撮影してください。」

とのこと。コピーができないのは残念ですが、何とかデジカメで撮れたらいいなと思っています。
そのうち、時間を見つけて行ってみます。
本当にありがとうございました。

りっこ様
電話帳
もう少し暖かくなったら出かけてみようと思いますが、昭和16年頃から30年頃まで製紙原料の不足で紙質が極端に悪く、国会図書館でもその頃のものは私の嫌いなマイクロフィルムが多数あります。
長原の映画館
誤解を招くようなコメントを15日にお送りしましたが、演芸場のような建物は前記の場所に存在していたことは確かです。問題はその後取り壊されたのか空襲で焼け落ちたのかは分かりません。商店街も戦時中の統制経済で多くが廃業に追い込まれ、武蔵小山の商店街の人々のように満蒙開拓団に駆出されて多数の犠牲者を出しました。長原で私が覚えているのは宮川のうなぎやとひさご寿司ぐらいです。従って証言者の高齢化(私を含めて)ともあいまて真相解明はますます困難となります。
長原の闇市
長原の駅を出て中原街道に向けて右に曲り、中原街道の手前の環七から来る道の交差点のあたりにありました。その道の環七の手前に耳鼻咽喉科の病院がありました。昭和22/3年頃にさんまを買いにいかされました。サンマータイムが導入された頃で店主が旬だよサンマータイムだよと叫んでいました。コマーシャルのキャッチコピーの走りでしょうか,閑話休題。

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