ここのところ地域歴史研究は、東急池上線の前身である池上電気鉄道の廃駅関連を採り上げているが、様々な資料を読み込んでいくうちに、今まで点と点だったものが線でつながるようなイメージと言っていいのか、情報が有機的につながってきている印象を私の中で持っている。ただ、いかんせん仕事と家庭と趣味(苦笑)の合間を縫っての作業なので、絶対的な時間が足りない。とはいいつつも、可能な限り自分の中で思いついたものを世に問う(笑)ていきたいと思っている。
(旗ヶ岡&東洗足総括編を放置しているわけではないといいわけもしておこう。)
で、今回はタイトルにも示したように、東急池上線の旗の台駅という名称は何に由来したのか、というものである。由来そのものは小字名である(それ以前はこの地域を指す名である)「旗ノ台」に由来しているが、問題はいかにしてこれが駅名に採用されるだけの価値(理由)があったのか、である。今回、これはこの地域のバス停留所名に採用されていた「旗ノ台」に由来するのでは、ということで論を進めていこう。
昭和6年(1931年)時点における目黒蒲田電鉄「大井町駅前~洗足女学校前」路線バスのバス停留所は、以下のとおりである。
- 大井町駅前(おおいまちえきまえ)
- 大井工場前(おおいこうじょうまえ)
- 日本香料前(にっぽんこうりょうまえ)
- 東光寺前(とうこうじまえ)
- 富士見館前(ふじみかんまえ)
- 西ノ下(にしのした)
- 本町(ほんちょう)
- 上蛇窪郵便局前(かみへびくぼゆうびんきょくまえ)
- 神明前(しんめいまえ)
- 源氏前小学校前(げんじまえしょうがっこうまえ)
- 荏原町駅前(えばらまちえきまえ)
- 荏原町車庫前(えばらまちしゃこまえ)
- 旗ノ台(はたのだい)
- 東洗足駅前(ひがしせんぞくえきまえ)
- 長原(ながはら)
- 狢窪(むじなくぼ)
- 洗足駅前(せんぞくえきまえ)
- 洗足通(せんぞくどおり)
- 洗足女学校前(せんぞくじょがっこうまえ)
この路線バスの経路は、大井町駅前から続くいわゆる三間道路と呼ばれる通りを中原街道まで進み、中原街道経由で今日にいう南千束交差点で環七通りを北上し、途中右折して洗足駅前に出、これも今日にいう円融寺通りを通って、かつて洗足学園高校があったところが終点というバス路線である。現在のバス路線に置き換えれば、東急バスの大井町駅前から出る「井01」系統と、途中中抜けするが環七通りを走る「森91」系統、さらには途中抜けで洗足駅前から出る「渋71」系統の前身といえるバス路線である。
ちなみに昭和11年(1936年)時点では、以下のようになっている。
- 大井町駅前(おおいまちえきまえ)
- 大井工場前(おおいこうじょうまえ)
- 日本香料前(にっぽんこうりょうまえ)
- 東光寺前(とうこうじまえ)
- 富士見館前(ふじみかんまえ)
- 日本光学工業前(にっぽんこうがくこうぎょうまえ)「新設」
- 下神明町(しもしんめいちょう)[旧 西ノ下]
- 上神明町(かみしんめいちょう)[旧 本町]
- 上神明郵便局前(かみしんめいゆうびんきょくまえ)[旧 上蛇窪郵便局前]
- 上神明車庫前(かみしんめいしゃこまえ)[旧 神明前]
- 源氏前小学校前(げんじまえしょうがっこうまえ)
- 荏原町駅前(えばらまちえきまえ)
- 荏原町車庫前(えばらまちしゃこまえ)
- 旗ノ台(はたのだい)
- 東洗足駅前(ひがしせんぞくえきまえ)
- 南千束町(みなみせんぞくちょう)[旧 長原]
- 北千束町(きたせんぞくちょう)[旧 狢窪]
- 洗足駅前(せんぞくえきまえ)
- 洗足通(せんぞくどおり)
- 洗足女学校前(せんぞくじょがっこうまえ)
東京市に合併前後の違いで、バス停留所名がいくつか変わったことが確認できるが、今回注目する「旗ノ台」バス停留所名は変わっていない。なお、このバス路線は目黒蒲田電鉄が初めて営業路線とした由緒あるもので、昭和初期には既にバス停留所名ではあるが、ほぼ現在の旗の台駅近辺に「旗ノ台」というものが存在したのである。
これが、戦後になってバス停留所名が駅名に採用されるだけの理由ではなかっただろうか、として本論を終える。
おはようございます。XWIN ll様の興味深いお話し、心待ちにしている毎日です。
私が小さいときに、住所がある日から全変更になる、そんな感じでした。子供心には、かなりビックリした覚えがあります。それまでの町名全体が全部変わってしまったものですから。
それが、もともとは小字の「旗ノ台」が、バス停から、昭和26年の新設駅名へ、さらに、地域全体の町名へと変わっていったのかと思うと、今さらながら感慨深いし、そうだったのか!という思いもあります。本当にありがとうございます。
小字をバス停名にするのはよくありますよね。
うちの近くにも、この地域の小字名のバス停があります。
旗の台駅付近が小字「旗ノ台」でなければ、駅自身、別の名前になった可能性もあるのかと思うと、おもしろいなぁと思いました。それから、当時普通に使われていた「ノ」ではなく「の」にしたのは、当時の東急社員の希望を通したとかいう話を聞きましたが?
投稿情報: りっこ | 2010/01/15 08:04
バス停の情報有り難うございました。
合併前の池上電鉄のバスは結構好成績をあげていたようです。
狢窪の地名がなつかしく感じました。今日の環七の目蒲線の踏切の直前の西側が北千束駅に向けて窪地になっており、長らく空き地になっていて塵が不法投棄されていたことを覚えており、子供の頃は大人から近くに行くと狢に騙されると脅かされたものです。源氏前小学校の前に水路があったことを覚えています。三間道路は自動車にとって洗足から第一京浜国道に抜ける重要なルートの一つでした。当時は立派な改正道路でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/15 11:19
バス停旗ノ台の場所ですが駅前ではなく小字であることは分かりますがおそらく旗が岡駅の長原側の踏切を渡って三間通りと交差した点かもう少し中原街道によった所か何れかでしょう。中原街道に沿って丸子橋に向かって新道との分岐点の手前に移転する前に旧中原街道に沿ったバスの車庫があったことを記憶しています。直進すると旗が岡駅前広場に通じていました。その付近に旗が岡駅前の停留所があったのかもしれませんが、バスは目蒲であったので当時は他社の駅名を使用したかどうかはわかりません。以前ご指摘があったとおり馬車時代からの古い路線です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/15 13:16
それにしても、改めて停留所名を眺めてみると。
「へびくぼ」とか「むじなくぼ」とか。
きっと、へびやらむじなやらが、たくさん棲んでいたんでしょうね。
投稿情報: りっこ | 2010/01/15 19:58
木造院電車両マニア様、りっこ様、コメントありがとうございます。
本当なら(というか時間があれば)現在のバス停名も比較にあげたかったのですが、いかんせん、肝心の旗の台駅周辺のバス路線が廃止になってしまい、大井町駅近辺あたりの変遷が中心になってしまうことからやめにしました。
旗ノ台をメジャーにしたのは、おそらくバス停名以上に小学校名だとは思っています。小学校名に冠される名前は、小学校の開設時期によって命名特徴があり、大字中延地域にある小学校で言えば、最も古い延山小学校は「中延」と「小山」の1字ずつを採ったことから明らかなように中延地区のみならず小山地区をも併せ持った区域から命名されたであろうし、源氏前小学校及び旗台小学校は小字名から、中延小学校は大字名からとだんだん命名方法に苦慮する様子が伺えます。できた場所にもよるのでしょうが、第二延山小学校のように「第二」と付されるものもありますし。
旗「の」台のひらがな表記については、戦後のカタカナからひらがなへの方針転換を先取りしたのではないかなと愚考しますが、このあたりは実際にその時代の風を体験された方でないとわからないので…。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/15 21:00
りっこ様
小生は都営地下鉄が開通したので主たる都心の営業活動地域に20分で到達でき池上線沿線から12分で出勤できる五反田に事務所を移転しましたが日が沈むと飲屋街でむじなが活動を開始してお客を騙します(笑い話)。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/15 21:05
XWIN ll様
ありがとうございます。我が「清水台小」も、恐らく「清水頭」から来てるんでしょうね。ということをこのブログで初めて知った次第です。それまでなぜ「清水」なのか、よくわかっておりませんでした。ところでこの「頭」ですが、「かしら」と読むのでしょうか……
それから、「旗台小学校」ですが。出身中学校は、清水台・旗台・延山・第二延山・源氏前の集合体ですが、そのままソックリ中学校へ進学するのは清水台と旗台小学校でした。で、改めて思ったんです。なぜ「旗の台小学校」じゃなくて、「旗台小学校」なのかと……で、友人にこれで「はたのだい」と読むのか?と尋ねたら、やっぱり「はただい」なんですね。小字も「旗ノ台」「の」がないのは、この地域では小学校名だけかも、と思いました。
投稿情報: りっこ | 2010/01/15 21:42
木造院電車両マニア様
今でも現役でいらっしゃるのですか?
五反田っていうと、どーしても「カサブランカ」を思い出してしまいます。
夜、都電で五反田に着くと、東光ストアの上のこのネオンがまぶしかったなぁ。
あ、それから。
実は、私が全く記憶になくて悔しい思いをしているのが、大井町線の環七踏切です。
どんな踏切だったのでしょうか。
ごみがたくさん置かれていたのは、昭和何年ごろまでですか?
なお、バス停「旗ノ台」は、中原街道から三間通りを、ずっと下り、池上線の踏切を越えて、3本目の交差点付近と思われます。右折すると、「旗台小学校」があらわれます。
投稿情報: りっこ | 2010/01/15 21:51
りっこ様
高血圧の不安があり飲み屋どころではありません。カサブランカの外人部隊の隊員のように毎朝目が覚める度にまだ生きていると如来に感謝しています。
大井町線の環七の踏切ですがかなりの勾配の真ん中にありどちらかと言えば大きな踏切でした。碑文谷方面から馬込の方に向かう車は停車している時にブレーキを踏みっぱなしにしなければならなかったと思います。当時は自動車の台数もすくなくたいして問題にならなかったのでしょう。
狢窪に塵が不法投棄されていたのは昭和8/9年頃までだと思いますが正確には覚えていません。皮肉なことに満州事件、盧溝橋事件を境に景気が急速に回復し住宅が激増し、空き地もほとんど無くなりました。
旗の台のバス停の位置ありがとうございます。三間通りも元気があったように記憶しております。旗の台の地名自身はっきりとした場所は不明のようですが、平塚橋から延山小学校、八幡神社を経由して台地を斜め南西に昇り夫婦坂、道々橋、下丸子で平間街道と合わさる鎌倉街道の一部と関係があると推測します。見晴らしの良い台地の上で旗揚げを行ったのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/16 15:57
木造院電車両マニア様、りっこ様、コメントありがとうございます。
「皮肉なことに満州事件、盧溝橋事件を境に景気が急速に回復し住宅が激増」という部分に「なるほど!」と思いました。1929年の世界恐慌から日本が経済を回復するのはいつからかは日本史を学べばわかりますが、では東京城南地区の住宅地化が、関東大震災以降の勢いを失った後、回復したのはいつ頃なのかというのが疑問だったのです。
このお言葉をもとに手元にある昭和4年と昭和12年の1万分の1地形図と、その中間に位置する昭和8年の航空写真を比較してみて愕然。昭和4年と8年ではあまり変わりがないのに12年では激増している様子が伺えます。さらに戦後の昭和22年をみると、おそらく昭和16年頃までは激増していたのではないか、という印象でした。
お二人のやりとりで私自身の一つの謎が解けたような感触です。ありがとうございました。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/16 21:58
りっこ様への回答を書き漏れていましたので追記です。
「清水頭」はおそらく「しみずがしら」と読むのではないかと思います。「しみずあたま」もありかとは思いますが、たぶん違うでしょう。正式な読みというのは、昔のものはなかなか定義していないものが多いので、昔の方に伺うしかないのが実際かな、と。
ちなみに「清水」の方は、湧水発生場所に付けられる場合が多いので(大田区北千束一丁目に清水窪小学校がありますが、これも小字名から)、おそらくは現在の旗の台六丁目を水源とする湧水の流れと立会川とに挟まれた台地(山)が出っ張った頭(かしら)のように見えたことから「清水頭」としたのかな、と。
それから「旗台」小学校ですが、読みは正式には「はたのだい」と読むようです。「ノ」や「ツ」や「ケ」は省略されるものも多いので、本例もこれに該当するのではないかと思います。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/16 22:31
XWIN II様
私が通った第二延山小学校の周りでも雨後の筍の如く町工場が建てられ、旋盤のベルトの音を響かせていました。しかし、昭和14年頃から英米の経済制裁をうけて逐次国民生活も悪化していきました。景気対策も効きすぎると劇薬になります。どこかの國に同情します。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/16 23:04
「清水台小学校30年のあゆみ」を引っ張り出してきました(昭和58年の話です)
座談会がありました。
・清水台小の校地は、何かの材料置き場だった
・校地には、石炭がらを埋めた
・「屋敷跡」と言われていた(屋敷下の間違い?)
・旗の台に近い方に清水が出ていた
・香蘭から清水台にかけて、湿った土地だった
・昭和16年に東京オリンピック開催が予定され、中原街道はマラソンコースになるはずだった。(戦争のためオリンピック中止)
・昭和26年に旗の台駅ができ、東口の山を清水台と言った(清水山の間違い?)
・東洗足のあたりは、沼だった。下水工事が29年から30年に各所で行われ、マンホールが埋められた。
・清水台小の学芸会は、昭和医大の講堂を借りた
中原街道での、オリンピックマラソン、見たかったなぁ~
投稿情報: りっこ | 2010/01/19 09:22
りっこ様、コメントありがとうございます。
私なりのコメントをつけさせていただきますと、
「清水台小の校地は、何かの材料置き場だった」→戦前の空撮写真などを見る限り、鬱蒼とした木々に囲まれた土地でしたが、戦後になって仮設住宅が十数棟建ち並んでいた時代となり、その後に清水台小学校となったようです。一時的に材料置き場だったとは思います。
「「屋敷跡」と言われていた(屋敷下の間違い?)」→小字は屋敷下(鏑木邸の下)ですが、ここでの意味合いは正確ではありませんが(実際は隣地)、伊藤邸だったと言うことを言いたかったのかもしれません。
「香蘭から清水台にかけて、湿った土地だった」→鬱蒼と木々に囲まれていたことと東斜面であること、今日の香蘭北東端側に湧水が出ていたので、湿った土地というイメージだった。
「昭和26年に旗の台駅ができ、東口の山を清水台と言った(清水山の間違い?)」→「山」も「台」もさらには「頭」も意味合いは同じなので、どちらが人口に膾炙にしたかの違い。
「東洗足のあたりは、沼だった」→ちょうど東洗足駅の東側(今は高架を大井町線が走る窪地)は低地であり、立会川の分水の一つがこの付近から出ていた。宅地化が進み、水の逃げ場がなくなって沼状になった。
もっともらしい(笑)ことを書きましたが、みんな推測です。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/19 21:21
清水台小学校の敷地は草ぼうぼうの原っぱで第二延山小学校の時に、災害時の避難場所と祚て避難訓練を行ったこおを思い出しました。尾籠な話で申し訳ありませんが、野糞に注意する様に先生から言われました。当時の中原街道では馬が引く荷車が多数往来し、馬力が用を足すことが多かったようです。りっこ様のいわれるとおり馬糞が散らばる狭い街道でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/28 06:59
旗の台
バス停の南側を昇って大井街道が走っている台地が旗の台の地名の由来であり夫婦坂からこの大井街道を横切って斜めに荏原町に下っている鎌倉街道に沿って奥州に向かう源氏の軍隊が此処で旗揚げしたとの言い伝えがあります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/30 11:08