今回は、以前に当blogにおいて採り上げたことのある話題であるが、現在の東急東横線が武蔵電気鉄道時代の計画路線より変更されたことで、どのような影響を他に与えてきたのかを焦点にあれこれ語っていく。
武蔵電気鉄道線は、都市間高速鉄道を目指して計画が作られたこと。そして何より障害物が何もない(その土地を利用しているものから言わせればふざけるな、というところだが)ことから、このあたりは直線ルートで計画線が引かれていた。土地の起伏など、何のその(単に無計画とも言う)といった印象である。無論、この計画線は明治末期の基本計画策定時からほとんど変わっておらず、大正期に進められる田園都市株式会社による田園都市計画やその鉄道線(荏原電気鉄道→田園都市→目黒蒲田電鉄)とも無関係であった。むしろ、後発計画であった方が先行計画に配慮するという格好だったのである。
ところが、建設資金の目処が立たない武蔵電気鉄道とは異なり、田園都市株式会社は安価に取得していた多くの土地を田園都市住宅地として分譲することで、一定の利益を常に捻出できた。これが目黒蒲田電鉄の設立につながり、建設資金のすべてが賄えるものではなかったが、目黒駅~丸子駅(現 沼部駅)間を第一期工事とし、その翌年までには丸子駅~蒲田駅間を第二期工事として完工し、社名のごとく目黒蒲田間の予定路線を開通させた。
一方の武蔵電気鉄道は、計画路線(上図の赤い線で示した)そのものの素性はいいが、いかんせんそれを建設することもままならないため、宝の持ち腐れであり、期待された元鉄道官僚の五島慶太には背信行為を浴びせられていた(武蔵電気鉄道の支線であり、中間点からの分岐線という鉄道ネットワーク上重要な位置づけである調布村~蒲田駅間の計画線を目黒蒲田電鉄に無償譲渡させられた揚げ句、五島慶太自身も同社から目黒蒲田電鉄専務取締役に転身)。加えて、関東大震災という郊外鉄道にとっては事業発展のチャンスも活かすことができず、逆に田園都市株式会社は関東大震災によって破壊し尽くされた東京蔵前にあった東京高等工業学校(現 東京工業大学)に対し、移転先として大岡山分譲地を簿価をはるかに超える金額で売り渡した。これを大きな元手として武蔵電気鉄道の株を買収し、田園都市株式会社の支配下におさめた。そして、社名を東京横浜電鉄としたのである。まさに関東大震災という天災によって、時代は大きく動いたのだった。
武蔵電気鉄道を支配下に置かなければならなかった理由は、田園都市株式会社及び目黒蒲田電鉄にとって、その存在が邪魔だったからに他ならない。というのも、田園都市株式会社の計画、中でも多摩川台住宅地(調布田園都市→田園調布)と目黒蒲田電鉄線(目黒駅~蒲田駅間)が現実のものとなると、武蔵電気鉄道線は明らかに具合の悪いものとなってきたからである。大きな理由は二つあった。
- 田園都市分譲地が分断され、かつ分譲地そのものも減少(新たな鉄道用地の確保)すること。
- 調布駅(現 田園調布駅)~多摩川駅間、及び奥沢駅近辺の2箇所で立体交叉化を伴うため、建設工事費の高騰が避けられないこと。
そして、積極的な理由は五島慶太自身が鉄道官僚から武蔵電気鉄道に転身する際、将来性を見たそのものズバリの、東京~横浜間の短絡線(サブルート)という魅力である。我が国最初の鉄道が「東京(新橋)~横浜」だったのは伊達ではない。東京と横浜を結ぶ鉄道計画は、それこそ明治期より数多あったが具体性を持ったものは乏しかった。鉄道官僚として、各地の鉄道計画を総覧する立場にあった五島慶太が武蔵電気鉄道を選択した理由は実際のところ本人にしかわからないが、ここを選択した以上、将来性を見てというのは確かだろう。だからこそ、目黒蒲田電鉄を足がかりにして東京横浜電鉄線を積極的に進めるのもわかろうというものだ。
しかし、さすがに武蔵電気鉄道時代の計画線そのままでは先にあげた二つの理由の他にも、次のような問題点があった。
- 多摩川と直交しないため、橋梁の強度に問題が発生すること。結果として工事費の増大につながること。
- 奥沢駅周辺が無秩序に住宅地化が進み、用地買収に困難を来す可能性(コストの増)が高くなってきたこと。
他にもあるが、ここでは新丸子~学芸大学間のみを議論の対象としているので、以上の4点が計画線の見直し理由となり、これを再検討した結果が、現在の東横線のルートとなるのである。
まず、一番大きな問題である「田園都市分譲地の分断」への対応は、既存の目黒蒲田電鉄線と平行するように変更することで鉄道用地の負担を減らすと同時に、「2箇所で立体交叉」も解消させた。さらに目黒蒲田電鉄の多摩川駅を北側に移設(最初の駅は東急スイミングスクールたまがわの東側にあった)し、多摩川により直交させるように架橋して接続駅とした。この結果、計画線よりも西側に振られることになり、奥沢駅付近との接続をどう対応するかが焦点となった。
一つの方法は、奥沢駅付近まで並行し、計画線分岐点から計画線に戻していく方法。しかし、奥沢駅周辺の「無秩序に住宅地化が進み、用地買収に困難」を嫌ってか、あるいは線形を徐々に計画線に戻していくことを狙ってか、さもなくば荏原郡碑衾村の村長 栗山久次郎との密約(衾西部耕地整理組合地に駅を作ることを条件に鉄道用地を安価に譲渡する等)が成り立ったからか。様々な複合する要因から、現在の路線が選択され、衾西部耕地整理組合地に九品仏駅(現 自由が丘駅)が開業する。こうして、奥沢駅は東京横浜電鉄線との接続(可能)駅としての性格を失った。
東京横浜電鉄線が西側に振れることで、新たな問題が浮上してきた。それが二子玉川線(当初、二子線)計画との交叉問題である。計画線(下図の橙色の線)は奥沢駅から分岐し、玉川電気鉄道の玉川駅と接続するもので、荏原郡玉川村が計画していた村営鉄道を置き換えるものとして目黒蒲田電鉄が企図した。このため、計画線はすべて荏原郡玉川村内を通ることとなっていた。村内に開通していた玉川電気鉄道と目黒蒲田電鉄線をつなげる役割に加え、東西に長い形状を持つ村内を横断するさらに重要な位置づけを持っていた。
だが、東京横浜電鉄線が計画線よりも西側に振れたために、わずか150メートルほどの距離で立体交叉を行わなければならない困難に直面したのである。このあたりは両線とも地上をそのまま走っており、立体交叉への対応を図るのは計画が新しい二子玉川線の方であるため、高架あるいは地下化しなければならない。しかし、立体交叉箇所はこの一帯で最も海抜が高く、当時は地下化対応はコストがかかりすぎるために高架化が求められたが、地形上の問題から困難であった。
そこで、二子玉川線は接続駅を奥沢駅から九品仏駅(現 自由が丘駅)に変更した。東京横浜電鉄線九品仏駅は地形としては谷底にあたり、どちら側からも坂の上り下りがあった。このため、九品仏駅を高架駅とし上り下りをほぼなくすと同時に、二子玉川線を田園都市株式会社創業時からの計画線である大井線(現 大井町線の東側部分)と直通させる構想が持ち上がった。
大井線は、田園都市株式会社創業時よりの計画線だが、その計画はまさに紆余曲折であり、荏原電気鉄道から田園都市に引き継がれた時点では、大井町駅から南側に向かい、現在の品川区と大田区の境を縫うようにして大岡山駅付近に到り、そこから現在の東急目黒線にほぼ沿うような形となっていた。それが山手線とつなぐ方が営業的によいという判断から第二期線として目黒駅~大岡山駅(現在の位置より約100メートルほど北寄り)間が計画され、目黒蒲田電鉄誕生時には、「第二期線(目黒~大岡山)+第一期線の一部(大岡山~多摩川)+武蔵電気鉄道支線(多摩川~蒲田)」をあたかも一路線のように扱い、建設に邁進した。その結果、大井町~大岡山間は放置され、さらに洗足田園都市の発展から計画線用地の買収が困難とわかると、分岐駅を大岡山駅から洗足駅へと変更し、現在の西小山駅付近から大きく東側へ曲げて大井町駅に到るルートへ変更した(上図の赤い線)。つまり、この時点においては大井線と二子玉川線はまったくの別路線だったのである。
それが東京横浜電鉄の計画線変更とそれに伴う九品仏駅(現 自由が丘駅)の開設によって、玉突き的に計画変更がなされ、九品仏駅が高架化されることで二子玉川線との立体交叉が実現し、さらに大井線との接続可能性が出てきたのであった。大井線も平塚第一耕地整理組合、平塚第二耕地整理組合、そして大岡山駅付近の用地買収時に困難を極めた馬込村千束内での用地買収も千束耕地整理組合といった各組合の協力を得て、現在の大井町線ルートで確定し、残る大岡山駅~自由ヶ丘駅間の建設も奥沢地区との対立を経ながらも、1929年(昭和4年)までには完成したのだった。
以上、簡単に振り返ってみたが、驚異的なのは東横線の計画変更から大井町線の全通まで、わずか5年程度で行われたことである。資金豊富ということもあったろうが、その事業推進力には驚かされる。巷間言われる五島慶太の業績については懐疑的な見方をしている私であるが、この件に関していえば流石の一語に尽きる。そんなこんなで今回はここまで。
最近のコメント