前回(その11)は、ほとんど池上電気鉄道の話から離れて、目黒蒲田電鉄二子玉川線(奥沢~瀬田河原)が当初計画から、接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更した理由を陳情書等を確認しつつ、ルート変更に至った理由について「横道に逸れる」ことを宣言したところまで話を進めた。よって、今回はわざわざ台地部及び住宅地を貫いたかについて検討しよう。
話は大正12年(1923年)頃まで遡る。当時、荏原郡碑衾村は田園都市第一号となった洗足(洗足田園都市)の開発によって、目黒蒲田電鉄線が開通し、洗足駅が村内で最初の高速鉄道の駅として開業した。それまでまったく近代的な交通機関がなかった同村だが、田園都市株式会社への用地買収に協力した結果、眼前に広がる良好な郊外住宅地を見て、これに隣接する区域に碑文谷耕地整理組合が誕生したのである。碑文谷耕地整理組合は、現在の武蔵小山駅~西小山駅~洗足田園都市隣接地域という広範囲の耕地整理を実現した。その工事終盤に関東大震災が発生し、換地処分が決定する前から借地・借家への転用が進み、わずか数年で住宅密集地となる。
このような隆盛を他の地域が指をくわえて見ているわけはなく、大正末期~昭和初期までに碑衾村には次々と耕地整理組合が作られ、中でも目黒蒲田電鉄に隣接する地域では、いち早くその行動が起こされていた。大字碑文谷では先に挙げた碑文谷耕地整理組合、一方の大字衾では奥沢駅に近いいわゆる谷畑地域で耕地整理組合設立の動きが始まっていたのである。
そもそもの発端は、物資(農産物など)の輸送の都合上、奥沢駅に続く道路を拡幅することが目的で、せっかく道路を広げるのなら地域全体で耕地整理を行い、田園都市株式会社が展開する住宅地に匹敵するようなものを目指したものの、組合設立直前まで話が進んだ大正14年(1925年)秋頃に、耕地整理の減歩率から谷畑地域内で対立が起こり、ついに両者分裂し、衾耕地整理組合として立ち上げ予定だったものが、衾東部耕地整理組合と衾西部耕地整理組合に分かれてそれぞれが耕地整理組合を設立したのだった。
ちなみに、耕地整理前の状況は大正6年(1917年)の1万分の1地形図で確認できるが、地図中央下部を流れるのが九品仏川でその北側(上側)に東谷畑、中谷畑、西谷畑と見えるように概ねこのあたりが谷畑地区を指す。
衾東部耕地整理組合の組合長は、有力地主の岡田 衛 氏で、将来を見越して広い道路と河川の拡幅を目指した(つまり減歩率が高い)が、この結果が谷畑地区東西の分裂につながっただけでなく、玉川村大字奥沢とも調整が付かず、境界を流れる九品仏川がそのまま改修されずに残ってしまった(一方、衾西部耕地整理組合は玉川全円耕地整理組合の奥沢東区と調整できたため、九品仏川の河川改修が行われている)。河川改修が成功したのは組合地内にあった呑川で、当時は九品仏川程度の流れでしかなかったものが、拡幅・直線化され、簡単には水があふれないようになった(反面、下流域では…)。このように、衾東部耕地整理組合の耕地整理事業は周辺地域では群を抜いており、今日の目黒区緑が丘の良好な住宅地としての環境は、この耕地整理事業に追うところ大である。
一方、衾西部耕地整理組合の組合長は、碑衾村長を長年つとめた(明治22年6月~明治42年3月)栗山 久次郎 氏である。以前、当Blogにおいて取り上げたことがあるが、さすがに3年半以上前に書いたものなので、今日と比較すれば情報量が桁違いなため稚拙な面は否めないがご容赦願いたい。この谷畑地域東西の耕地整理組合は、目黒蒲田電鉄及び東京横浜電鉄の鉄道建設に大きな影響を大正末期以来及ぼしていた。特に、衾西部耕地整理組合の組合長は五島慶太氏と折衝を重ね、遂に九品仏駅(現 自由が丘駅)の招致に成功する。これは、武蔵電気鉄道時代の計画線を工事施工認可申請時に変更するにあたって、鉄道用地の提供等に便宜を図ったからにほかならない(武蔵電気鉄道計画線では衾西部耕地整理組合地内を鉄道が通る予定ではなかった)。
一方、衾東部耕地整理組合の岡田衛組合長は、耕地整理組合設立以前より目黒蒲田電鉄(田園都市株式会社)との関係が深かった。なぜなら、大岡山近辺の土地の多くを所有していたことから、田園都市株式会社の用地買収の頃から積極的なかかわりを持っていたからである。さらに、東京工業大学の移転用地確保などにも裏方として大いに協力しており、両社の専務である五島慶太氏は、岡田組合長には一方ならぬ恩義を感じていたとしても不思議ではない。
谷畑地区の東西耕地整理組合は、大正14年(1925年)末~大正15年(1926年)初には組合設立し、昭和2~3年(1926~7年)までには耕地整理工事をほぼ完了していた。違いといえば、衾東部耕地整理組合は地番整理をほぼ同時期に行っていたが、衾西部耕地整理組合は目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄との鉄道敷設に関する協議に加え、自由ヶ丘学園の移転、その結果を受けての地名改称運動(衾から自由ヶ丘へ)などがあり、地番整理は東京市合併直前の昭和7年(1932年)7月まで時間を要したくらいで、工事そのものは大きく前後することなく終了した。
以上のようにどちらも耕地整理工事は昭和初期には終了し、換地処分はさらに数年を要すが、それは最終的な確定年月日であって、概要はほぼ工事終了時点で確定していたようなものといって過言ではない。つまり、どちらも目黒蒲田電鉄の二子玉川線変更計画より前には事実上、耕地整理工事は完了し、換地処分の大勢も固まっていたのである。
一方の、既に奥沢駅の開業が先行する奥沢地域は、大正年間はもちろん、昭和に入って玉川全円耕地整理組合の設立は見たが、具体的な耕地整理事業(工事)はまったく進んでいなかった。これは荏原郡玉川村内での賛成派・反対派の対立でそれどころではなかったからだが、耕地整理事業とは関係なく、奥沢駅の開業による自然発生的な住宅地建設は、地主の意向によって耕地整理組合とは関係なく行われていた。結果的に、耕地整理事業はこのような先行する既存の住宅地開発をそのまま踏襲したので、奥沢駅北側に展開する住宅地はきれいに区画されたものとなっておらず、現在もその道路パターン等で確認できる。
ここまで論を進めてきてお気付きのように、目黒蒲田電鉄の二子玉川線変更計画は、耕地整理事業が形の上で完了したところを極力避けるような形で申請されたものである。ただ、完全には避けることができず、一部、衾東部耕地整理組合の組合地を新たに通過することとなってしまい、この件に関して衾東部耕地整理組合長 岡田衛氏は、荏原郡碑衾町を通じて意見書をあげている。
昭和三年六月四日
荏原郡碑衾町長 角田光五郎
東京府土木部長 殿
目黒蒲田電鉄玉川線起点及経過地変更ノ件
昭和三年四月十九日付辰土発第二九九七号ヲ以テ照会ニ依リ標記ノ件調査候度本町ニ於テハ大体支障ナキモノト認ムルモ本線ハ衾東西両耕地整理組合ニ関係アルヲ以テ両組合ノ意向ヲ照会候度左ノ通リニ有之候条此段及回答候也
記
一、東部耕地整理組合別紙添付書類ノ通リ
二、西部耕地整理組合ハ支障ナキ回答アリタリ
これに書かれる別紙添付書は、以下のとおり。
昭和三年四月二十五日
荏原郡碑衾町衾東部耕地整理組合
組合長 岡田 衛
荏原郡碑衾町長 角田 光五郎 殿
目黒蒲田電鉄二子玉川線起点及び経過地変更ノ件ニ付陳情
昭和三年四月十三日付目電辰四二一号ノ一ヲ以テ目黒蒲田電鉄株式会社取締役社長矢野恒太氏ヨリ鉄道大臣ヘ申請シタル二子玉川線工事施行認可申請ニ関スル路線ノ経過地変更ニ対シ別紙理由書記載ノ如ク当耕地整理組合地区内ヲ通過スルコト到底難忍事ニ御座候間特別ノ御詮議ヲ以テ当組合地区外ニ路線ノ変更相成様御取計被下度此段奉願候也
理由書
昭和三年四月十三日付目黒蒲田電鉄株式会社取締役社長矢野恒太氏ヨリ二子玉川線工事施行認可申請並ニ起点及経過地変更ヲ申請サレ候結果万一之ガ認可ヲ得タル場合ニ於ケル衾東部耕地整理組合ガ蒙ル損害ハ実ニ莫大ナルモノニシテ到底難耐事由左ノ如クニ御座候
一、路線変更ノ結果組合地区ノ西南隅仮地番二四〇三、二四〇六、二四〇七、二四〇八、二四〇九番地ノ五筆ヲ横断スルモノニシテ其用地坪数僅カニ五百壱坪余ナリ是レハ僅カニ路線ヲ南方玉川村大字奥沢ノ方ヘ変更スルニ依リ容易ニ当組合ノ地区ヲ脱シ得ルモノナリ
二、組合地区内ヲ通過スル為メニ蒙ル損害ハ大要次ノ如シ当組合ハ昭和弐年九月二十六日工事竣功届出シ了シ昭和弐年九月二十七日国有地上地並ニ下附申請書ヲ東京府知事ニ提出シ昭和二年八月二十五日字区域変更認可申請書ヲ差出シ昭和二年十一月十日字区域変更ニ付碑衾町会ノ承認ヲ得タリ地区内整理前ノ筆数五百参筆其面積四拾弐反九畝余総地価七千九百四十円ニ対スル整理後ノ土地弐百八拾壱筆其面積四拾町七反余仮地価総額七千四百四拾八円六拾弐銭トナル地価配当案ノ作製ヲ終レリ其他整理確定図参通ノ浄書ヲ終リ換地認可書モ亦浄書シタリ
現在ハ右ノ如ク事業進捗シ来ル五月上旬換地処分総会ノ予定ニ到達シ将ニ本事業ノ完成ニ近ヅキタル時期ニ当リ僅カ地区ノ西南隅五百余坪ノ電車用地進入ノ為メ組合ハ設計変更認可シ国有地上地申請並ニ地価配当案換地説明書並ニ整理確定図ノ修正ヲナスコトハ当組合ノ到底認容シ得サル所ニシテ組合事務ノ延長ニ伴フ損失手数其他線路沿ヒノ土地価格底下等ノ損失多大ナルモノナリ
前記ノ事由ニ依リ組合地区内ニ二子玉川線ノ路線変更ハ困難ニ付可然他ニ線路ノ撰定ヲ希望スルモノナリ
わずかの地であったとしても、換地処分まで前提とした耕地整理組合事業地においては、様々な問題点があるとしているが、これは換地処分という行為そのものが「土地の利権」であるので、調整を行うことは並々ならぬ努力を要する。せっかくまとまった話をわずかな土地とはいえ、再処分するという行為を避けたいと思うのは組合長ならずとも理解できる。よって、未だ耕地整理事業が始まっていない大字奥沢の地域を通るということは「必然」であったとなるのである。しかも、玉川全円耕地整理組合自体も本案に賛成となれば、陳情者の立場は大変厳しいこともあり、当局にすがるように「御同情アル御取扱ニ預度右及陳情候」(おんどうじょうある おんとりあつかいにあずかりたく みぎおよびちんじょうそうろう)と言うしかないのである。
長くなったので、この続きはその13に。
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