前回(その12)と前々回(その11)は、ほとんど池上電気鉄道の話から離れて、目黒蒲田電鉄二子玉川線(奥沢~瀬田河原)が当初計画から、接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更した理由などを考察してきたが、二回を費やしたにもかかわらずまだ終わっていない。今更何だが、これを書き始めた当初のアウトラインは、全6回で完結する予定であったのだが、これは書いておいた方がいいだろう、ここまで書いたのだからこれもふれておかねばならないだろう、これだと片手落ちなので別の視点からも見ておこう、などなど横道に逸れているうちにこんなになってしまった。なので、今回こそ(苦笑)二子玉川線関連の話を終了させるつもりで書いていく。
──では、以上の議論を踏まえて整理しよう(何度目の整理かは聞かぬように[笑])。時系列として事実を列挙すると、
- 昭和2年(1927年)12月27日、二子玉川線、免許。
- 昭和3年(1928年)2月頃、計画変更線が地元に示され、陳情合戦が始まる。
- 昭和3年(1928年)4月13日、二子玉川線、工事施行認可申請。併せて計画変更も申請。
- 昭和3年(1928年)6月23日、奥沢地区地主有志、東京府ほかに陳情書提出。
- 昭和3年(1928年)8月29日、二子玉川線、工事施行認可。
であるが、目黒蒲田電鉄としては既に東京横浜電鉄線(渋谷駅~神奈川駅間)を開通させていたため、大正13年(1924年)に申請した当時の「奥沢駅~瀬田河原(二子渡)」間から計画変更を念頭に置いていたはずである。つまり、二子玉川線(当初計画線)申請時から見れば、東京横浜電鉄線が計画線が大きく北上(田園調布駅~丸子多摩川駅間は目黒蒲田電鉄線と完全に平行、その先はおおよそ目黒蒲田電鉄線と玉川電気鉄道線の中間を通るようにルート変更)したことで、両線の交叉部分に難が生じたからである。
さらに、大井町線(大井町駅~大岡山駅)も工事施行認可申請時の計画であった大井町駅~洗足駅のルートを大井町駅~大岡山駅と変更したことで、大井町線と二子玉川線を大岡山駅で接続し、一体的な運用を行おうとしても不思議ではない。東京横浜電鉄線及び大井町線のルート変更によって、二子玉川線の処遇は大井町線との一体化と東京横浜電鉄線との乗り換え駅設置を前提とした交叉を実現することを目指したのである。これが玉突き(行き当たりばったり)的に実現したことは、大井町線及び二子玉川線の大岡山駅接続に関して、線路用地買収を追加で行わざるを得なかったところにも見える。大正12年(1923年)時点において、大岡山駅周辺の土地は田園都市株式会社の所有するところであり、計画的に大井町線(大井町駅~二子玉川駅間)を実現しようとしていたなら、わざわざ所有地を国等に売り渡しはしないだろう。つまりは目黒蒲田電鉄(田園都市株式会社)において、
- 大井町~大岡山(現在の大岡山駅とは位置が異なる)~旭野(多摩川駅付近)間、鉄道敷設免許取得。
- 目黒駅~大岡山(現在の大岡山駅とは位置が異なる)間、鉄道免許取得。
- 武蔵電気鉄道より蒲田支線(調布村~蒲田駅)敷設免許を譲渡取得。
- 目黒線(目黒駅~丸子駅)開通(目黒駅~大岡山~旭野~丸子「蒲田駅までの途中」。3免許線部分統合)。
- 蒲田線(丸子駅~蒲田駅)開通。目黒駅~蒲田駅を目蒲線と称する。
- 奥沢駅~瀬田河原(二子渡)間、鉄道敷設免許申請。
- 武蔵電気鉄道を傘下におさめ、東京横浜電鉄と改称。
- 東京横浜電鉄、神奈川線(丸子多摩川駅~神奈川駅)開通。
- 大井町線(大井町駅~大岡山駅)開通。
- 東京横浜電鉄、渋谷線(渋谷駅~丸子多摩川駅)開通。渋谷駅~神奈川駅を東横線と称する。
- 奥沢駅~瀬田河原(二子渡)間(二子玉川線)、鉄道敷設免許取得。
- 二子玉川線、接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更申請。
という流れの中から、二子玉川線の性格は大井町線との一体的運用に変質していったのである。このことは、当初の目蒲線完成の過程(3線の免許を都合よく統合)からも見えることであり、このあたりはさすがは鉄道官僚出身の五島慶太氏だと脱帽するしかない(線的支配から面的支配への道程も同時に実現している)。では、上に列挙した流れを図でも示しておこう。
大井町~大岡山(現在の大岡山駅とは位置が異なる)~旭野(多摩川駅付近)間、鉄道敷設免許取得。
目黒駅~大岡山(現在の大岡山駅とは位置が異なる)間、鉄道免許取得。
武蔵電気鉄道より蒲田支線(調布村~蒲田駅)敷設免許を譲渡取得。
目黒線(目黒駅~丸子駅)開通(目黒駅~大岡山~旭野~丸子「蒲田駅までの途中」。3免許線部分統合)。
蒲田線(丸子駅~蒲田駅)開通。目黒駅~蒲田駅を目蒲線と称する。
奥沢駅~瀬田河原(二子渡)間、鉄道敷設免許申請。この間、大井町からの支線接続駅を大岡山駅から洗足駅へ変更。
武蔵電気鉄道を傘下におさめ、東京横浜電鉄と改称。
東京横浜電鉄、神奈川線(丸子多摩川駅~神奈川駅)開通。
大井町線(大井町駅~大岡山駅)開通。洗足駅から大岡山駅へ接続駅を変更した(元に戻した)のは、工事施行認可申請時。
東京横浜電鉄、渋谷線(渋谷駅~丸子多摩川駅)開通。渋谷駅~神奈川駅を東横線と称する。
奥沢駅~瀬田河原(二子渡)間(二子玉川線)、鉄道敷設免許取得。
二子玉川線、接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更申請。
その後、二子玉川~九品仏(衾→自由ヶ丘)間を開通、さらに自由ヶ丘~大岡山間を開通させ、大井町~二子玉川間を大井町線となったわけだが、これは上に詳細に示したように当初計画通りに実現したという性格のものではなく、言い方は悪いが行き当たりばったりで実現したという方が適当だろう。
さて。以上、長々と見てきたように昭和3年(1928年)6月23日付けの奥沢地域地主有志による陳情では、二子玉川線のルート変更(大岡山駅~九品仏駅[衾駅]間)についてのものだが、接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更したことに対する地元からのクレームはどうだったのだろうか。これについては、目黒蒲田電鉄社長に対する昭和3年(1928年)6月23日付け陳情に見えるようにルート変更に関する話は、昭和3年(1928年)2月には地元に示されていたのは確実である。では、それ以前にはどうだったのか。このことについては、既に東京横浜電鉄渋谷線(渋谷駅~丸子多摩川駅間)の路線変更及び九品仏駅(現 自由が丘駅)位置変更の際、衾西部耕地整理組合ではある程度の話は伝わっていたものと思われる。一方、衾東部耕地整理組合では、前回(その12)で示した陳情書に見える
「路線変更ノ結果組合地区ノ西南隅仮地番二四〇三、二四〇六、二四〇七、二四〇八、二四〇九番地ノ五筆ヲ横断スルモノニシテ其用地坪数僅カニ五百壱坪余ナリ」
からわかるように、仮とは言え換地処分の方針が示された上で地番整理が終わっており、これを昭和6年(1931年)に荏原郡碑衾町役場が発行した碑衾町地図を見れば、衾東部耕地整理組合の主張は明白である。
この碑衾町地図(一部分)は、今日の東京都目黒区の南一部に属し、自由が丘駅~緑が丘駅間あたりのものである。ちょうど真ん中あたりの点線から右側が衾東部耕地整理組合施行地、左側が衾西部耕地整理組合施行地である。右側の衾東部耕地整理組合施行地の地番を確認すれば、陳情の意味も汲み取ることができる。もし、衾東部耕地整理組合が二子玉川線変更計画を事前に把握していたなら、このような陳情書が出ないのはもちろん、地番整理等にしてもこれを考慮しての実施は可能であることからも「寝耳に水」だったことがわかるのである。
また、耕地整理事業において鉄道用地が組合地として含まれていない場合、地割・地番は従来のままであり、これは現在の東急池上線(蒲田駅~雪が谷大塚駅付近)や東急目黒線(大岡山駅~奥沢駅付近)を見れば明らかである。一方、鉄道用地が組合地として組み込まれていれば、これも現在の自由が丘駅周辺の鉄道用地の地割・地番を見れば、きちんと鉄道用地単位で境界と区切られていることがわかる(衾西部耕地整理組合が施行した新地番を見れば明らか)。これは換地処分時に決定されるものであるが、通常はその前(換地処分案)が出た段階で確定されているので、この地割と地番を確認すれば、大正末期には確定していた両耕地整理組合における二子玉川線計画線の位置づけがわかるのだ。
これ(衾西部耕地整理組合耕地整理完成図。先の地図では地割・地番整理前だったが、本図では整理後のもの)を確認すると、自由が丘駅周辺の現 大井町線及び東横線鉄道用地の地割と地番を見れば、きちんと鉄道用地単位で区切られてる(上図での1番地、4番地、19番地が該当)ので、耕地整理事業~換地処分案確定の間には二子玉川線が九品仏駅(現 自由が丘駅)と交叉することが事実上、確定していたことを意味する。このようなことは衾東部耕地整理組合同様、荏原郡玉川村大字奥沢の地主有志達は知る由がない。用意周到に根回し、準備された計画変更に今更噛みついても手遅れだったのが真相となるだろう。当然のことながら、衾西部耕地整理組合との話は決着しており、衾東部耕地整理組合にしても耕地整理事業に無理矢理割り込んだことから、代償措置として計画になかった中丸山駅(現 緑が丘駅)を設置することとした。駅名称が当初「中丸山」とされたのは、衾東部耕地整理組合の有力地主でこの付近の土地所有者栗山氏の意向を受けた命名(栗山氏宅の裏山[東工大敷地]を通称中丸山と言った。「東京急行50年史」では、中丸山の由来を玉川村大字奥沢の字名としているが誤り)だったのは、駅設置の経緯からも自明というものだろう。
これらのことから、二子玉川線計画変更の根回しは、東京横浜電鉄線のルート変更と期を同じくして行われており、これは免許認可よりも前になされていたことも確かである。これは時期的に見て、なかなか進まない玉川村の耕地整理組合進捗状況を横目に見ながら、隣接する碑衾村(昭和2年(1927年)より碑衾町)の耕地整理組合と話をつけたとも言えるだろう。目黒蒲田電鉄(東京横浜電鉄、田園都市株式会社)は、というよりは五島慶太氏は、鉄道敷設に関して関係町村の有力地主らと表に裏にそれこそ八面六臂の活躍で、様々な話をつけていったと思われる。会社自身も多くの土地を所有していたので、先にあげた衾東部耕地整理組合長の岡田衛氏から、五島慶太氏に対して耕地整理組合長になったらどうかと持ちかけられた話もあり、それこそ表に絶対に出せない話もあったはずである。そういう混沌の中から、鉄道計画線の線引きがされていった。
以上、相当に長くなったが、私は二子玉川線計画変更は、次のような流れで決したのではないかと考える。
このような流れとなったのは、つまり目黒蒲田電鉄にとって想定外だったのは、玉川村の耕地整理組合がまったく進捗しなかったこと。これに尽きると考える。大正13年(1924年)二子玉川線(当初は単に玉川線)の免許申請を行った際は、玉川村村長との密約で一気に玉川村内を東西に貫く鉄道を建設する(村営鉄道に代わる計画のため、玉川村内で本線は完結していなければならない。よって奥沢駅~瀬田河原(二子渡)間なのである)計画だったにもかかわらず、耕地整理組合は設立認可までに1年を要し、さらに創立総会においても村内対立は先鋭化し、まともに耕地整理事業が進むとは思えない状況に陥っていた。
一方、武蔵電気鉄道を傘下におさめたことで東京横浜電鉄線免許を得たことから、これを目黒蒲田電鉄線に都合のいいよう設計変更し、その過程で碑衾村との関係がさらに強化され、大岡山地区以外にこれまで鉄道と無縁だった碑衾村大字衾地区の地主達と協力体制をとるに至った。これが耕地整理組合の設立に大きな影響を与えたと見る。さらに、玉川村での耕地整理事業が遅れていたこと、洗足駅周辺が一気に住宅地化したことから、大井町線のルート変更と接続駅変更による連携も模索され、大井町線及び二子玉川線いずれも接続駅を大岡山駅とし、両線を直通運転させると同時に東京横浜電鉄線との接続も考慮に入れ、大井町駅~大岡山駅~九品仏駅(現 自由が丘駅)~二子玉川駅とした。
この方針を決したことで、大井町線の接続駅及びルート変更(洗足駅から大岡山駅へ)、二子玉川線の接続駅及びルート変更(奥沢駅から大岡山駅へ)、東京横浜電鉄線九品仏駅周辺の高架工事(二子玉川線を乗り越えるように施工)が相次いで変更申請、認可、施工となった。つまり、二子玉川線計画変更はこれら大きな流れの中の一つに位置づけられると考えるのである。
このようにして、二子玉川線の変更が大きな流れの中で実現に向けて動き出しているときに、池上電気鉄道国分寺線計画が登場し、そのルートとして荏原郡玉川村を通過することは、目黒蒲田電鉄にとって由々しき問題であるのはもちろん、諏訪分区が池上電気鉄道に鉄道用地を売り渡すという、玉川全円耕地整理組合が工区内のイニシアティヴを取れない状況を露呈するに及んで、危機感を募らせたことは当然である。しかも、川崎財閥を背景にした資本力によって、ついに五反田駅まで延伸開業するに至り、これに調布線及び国分寺線が接続すれば、目黒蒲田電鉄の業績に大きな影響を及ぼすのは確実となる。
だが、池上電気鉄道もそう簡単に事が運んだわけではなかった。というところで、次回(その14)に続く。
圧巻ですね!奥沢線シリーズだけでも、十分、1冊の本として読みごたえのあるものではないでしょうか。(もちろん全部あわせたら、お宝本になると思います。世の中の鉄道歴史本の中で、最上位間違いなしです)
池上電気鉄道vs目黒蒲田電鉄の戦いは、壮絶なものだったのだと、物すごいお勉強になりました。
作図も美しく。そしてわかりやすいです。
シリーズ14をまた、期待しております。
投稿情報: りっこ | 2010/09/17 07:30
郷誠之助氏が重い腰を動かさないのに業を煮やした大株主が五島慶太を鉃道院からスカウトしたと言うことですが、ご説のとおり同氏の地主との弛まぬ交渉の結果今日の東急グループが出来上がったのだとおもいま。一方郷誠之助氏が川崎財閥の関係者であったことは知りませんでした。何かの因縁でしょうか。また東京川崎財閥が神戸の川崎財閥とは無関係であることも恥ずかしながら知りませんでした。次回を楽しみにしています.私事で恐縮ですが私の実兄は神戸の川崎車両の技師でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/09/17 18:13
コメントありがとうございます。
>奥沢線シリーズだけでも、十分、1冊の本として読みごたえのあるものではないでしょうか。
↑
分量だけで見れば仰せの通りですが、いかんせん拙文であり蛇足が多く、とてもではないですが同人レベルにすら到達していないと認識しています。blogならでは、の簡易(安易)に記したものですので、それこそ書籍レベルにまで到達するためにはさらに多くの時間を要するのはもちろん、優れた編集者の存在が欠かせないのは言を待ちません。まぁ現実を見れば、とても人様からお金をいただくレベルにすらない書籍が多くあるのも確かですが、そこまで傲慢でありたくないと自覚しています。
ああ、これは気軽に書かれたblogなのだ、くらいに見ていただけると幸甚です。
>一方郷誠之助氏が川崎財閥の関係者であったことは知りませんでした。何かの因縁でしょうか。
↑
何かの因縁と言うよりは、様々な「お付き合い」の中で、色々なところに顔(名前)を出さざるを得なかったのだと思います。実務畑の人はそんなことはあまりないのでしょうが、名望家のような方であればそれこそ敵味方の両方に名を連ねていることも珍しくないのは、現代でも変わらないのではないかと。
投稿情報: XWIN II | 2010/09/18 10:30
郷誠之助氏も毀誉褒貶にまみれた人ですが、同氏のご子息の友人から聞いた話ですが、退職する時に五島慶太氏の態度が傲慢不遜であったと嘆いていたとのことですが、人それぞれの立場で誤解を受けることも避けるこが現実です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/09/18 21:19