今では自由が丘(東京都目黒区)といえば、若者や女性等に人気のある街として名高いが、今から半世紀以上前はそうではなかったようである。今でも美観商店街などに呑み屋さんは残っているが、どちらかといえば脇役と言った感が強いが、さすがに半世紀前は主役級だった。昭和31年(1956年)6月15日発行の「自由ヶ丘」(発行:自由ヶ丘商店街連合会)という商店街案内には、このような飲食店の広告が展開されている。
電話番号は東京03を除いてある。局番は二桁で今の四桁になる前の三桁時代よりも前となるが、それ以上に注目は(呼)マークである。店に電話がなく、呼び出してもらわなければならないという意味だが、携帯電話が普及し、一人一台時代の今からでは考えられないが、昭和30年代はどこもこんなものだろう。かつては電話債券なるものまで買わねばならず、固定電話を入れるのにはカネがかかるのは当たり前。電話があるということは信用もあるという裏付けだったのだ。
さて左から見ていくと、「金田なら 家の中だと 女房云い」というフレーズが可笑しい。呑みに行っても家と同じなのだからOKと、外で呑むのにカウントされないということを言いたいのだろうか。意味合いとしては「安さ」をウリにしているのか、それとも「安全」をウリとしているのかはわからないが、当世ではこのようなフレーズはないだろう。
そして「とんかつバー あをば」。「あおば」でなく「あをば」というのも何だが、それよりも「とんかつバー」とは何だろうか? それとも「とんかつ | バー あをば」ととんかつとバーの間で区切るのか。どちらにしても「とんかつ」をウリにするバーというのが戦後の印象を強く受ける。
先ほどの「あをば」さんに続いてこの3件も「広小路一番街」にあるように書かれているが、これは今で言うとどのあたりになるのだろう。小洒落たカタカナ名があふれる自由が丘商店街において、広小路を名乗るのは聞いたことがないので、かつての名前であるだろう。意味合いとしては広小路とは広い通りを意味するので、自由が丘の中でも広い通りを指すと思うのだが…。
こうしてみると、ずいぶんと和風の店名が多い。小料理屋、スナック、バーとはいえ、サラリーマンおじさんたちに馴染みのあるような名前が求められたのだろうか。
と思ったら、カタカナ名や中華風の店名も。もっともレストランや北京料理の店なので、名は体を表すのように相応のネーミングと言えるだろう。トリスバーとか、先にあったサントリーバーというのも、当時のおじさんたちの憧れの洋酒である。安くて気軽に楽しめる。でなければ、サラリーマンの安月給で通えるわけがないのだから。
以上、50年以上前の飲食店(呑み屋系)の広告を見てきた。広告は時代を映すとはよく言ったもので、昭和31年(1956年)頃がどんなものか、何となくかもしれないが感じ取ることができるだろう。そんなことを確認しつつ、今回はここまで。
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