当blogにおいて、様々な資料などから池上電気鉄道の雪ヶ谷駅~新奥沢駅間の路線を巷間言われる「新奥沢線」ではなく、「奥沢線」であるとしてきた。その主なものを列挙すると、
- 池上電気鉄道が鉄道省に提出した申請書には、開業直後までは国分寺線、開業後は奥沢線と一貫して表記されている。新奥沢線という表記は見られない。
- 昭和4年(1929年)の3,000分の1地形図(都市計画図)には「池上電鉄奥沢線」と表記されている。
- 同時代資料(交通案内図や東京観光案内的なもの)にも新奥沢線という表記は見られない。
というように、積極的に「新奥沢線」とする理由はない。だが、巷間には「新奥沢線」という呼称は徹底しており、これは定説と言っていいものである。「東京急行電鉄50年史」に掲載されているから、というのは大きなものだが、やはり同時代資料としては、これを挙げることができる。
一部だけを切り取ると「何だこりゃ?」となるが、ご覧いただくと左上に「すわぶん」とあり、左上から右下に「新奥沢線」と書かれている(ゼンリンの電子地図で諏訪分駅のあった場所を示すとここ)。現在、奥沢線(新奥沢線)に関する記事を書くために各種資料を集めているが、この1万分の1地形図(昭和4年 田園調布)だけがこう書かれているのだ。
そしてこちらは「奥沢線」と表記されている資料(3,000分の1地形図)。どちらが正しい?というのは断定できないものの、今のところ私は「新奥沢線」よりも「奥沢線」の方が可能性が高い、と見ている。
では、「新奥沢線」が定説となった理由は何だろうか。やはり、「東京急行電鉄50年史」と「1万分の1地形図」という強力なツートップによってとなるだろう。といったところで、今回はここまで。
興味のある話題を提供頂き有り難う御座います。それにしても、戸越といい、中延といい、とかく名称でごたごたするのは池上電鉄の宿命でしょうか。ブログに写真も投稿されていますが諏訪分の駅の西側の道路が現在は西に張り出していて駅の痕跡を残しています。公道の法律はよく知りませんが古い地図では直線になて居ますのでなにか事情があったのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/23 09:42
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
諏訪分駅跡地の西側道路について、「推測」ですが、諏訪分駅廃止後、目黒蒲田電鉄田園都市部によって住宅地分譲された際、道路が「付け替え」されたのではないかと見ています。
投稿情報: XWIN II | 2010/06/24 07:09
諏訪分
コメント有り難う御座います。あのような張り出しは宅地造成ではあまり例がありません。奥沢線に関して、国分寺まで延長する計画であったとのことですが、現在例えば雪側大塚から成城学園に行こうと思うと、鉄道だけを利用すると五反田と新宿を経由するルートとなり大変不便です。妹が千歳烏山におりますが、雪谷大塚から田園調布を経由して千歳船橋まで東急バスで環八経由で行ったことがありますが、所要時間は鉄道とたいして変わらないどころかいくらか速いようです。環八ライナーの実現を切望します。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/24 07:50
奥沢線のことは、何しろ私、XWIN II様のブログを読んでから知ったという、物すごい素人なんで、何も言えませんが(;^_^)
素人なりの印象としては。
……国分寺までたどり着ければ、「国分寺線」
そこまでたどり着けなくても、とにかく、新奥沢駅より向こうまで行けていたら、正式名称も、通称も「奥沢線」のはずだった。
ところが「新奥沢駅」でとまっちゃったもんだから、通称「新奥沢線」が、流布しちゃって、みたいな。。??
(【「池上駅」と「池上電鉄」】と同パターンで、「駅名」が、イコール「線名」と、思い込まれてしまったんじゃないかなぁ~なんて思いマシタ。)
投稿情報: りっこ | 2010/06/24 20:31
池上町誌-大東京併合記念に掲載されている写真は奥沢線が中原街道を横切る踏切付近で五反田方面に向けて撮影されたものと思います。拡大してみましたが蒲田方面のプラットホームに停車している電車は100あるいは200形であると思われます。このホームの手前にあるのは駅舎であると思われますが後ろは森で商店街のところは人家がまったくありません。奥沢線の電車が対向するホームの北側に停車してるのがわかります。単線となった奥沢線の転轍機は通称だるまといわれる簡易方式のものですので恐らく1倆で新奥沢との間をシャトルで運転していたので保安装置が省略されてるのでがわかります。届け出にもそのように記載されています。目蒲線とひかくして宅地開発が大幅におくれているのが分かります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/29 09:38
コメントありがとうございます。
>(【「池上駅」と「池上電鉄」】と同パターンで、「駅名」が、イコール「線名」と、思い込まれてしまったんじゃないかなぁ~なんて思いマシタ。)
↑
池上線、と今日では当たり前に受け取られていますが、というか公式名もそうなんですが、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道を合併した直後、この路線は「五反田線」という呼び方がされています。これは鉄道省に申請した公文書からも確認でき、池上電気鉄道という名前を消し去りたい!という思惑が強く感じられます(単に目黒線、大井町線のごとく始発駅を線名にしただけかもしれませんが)。
しかし、五反田線は定着しなかったようで、一年ほどで池上線と呼称するようになっています。
>目蒲線とひかくして宅地開発が大幅におくれているのが分かります。
↑
昭和に入っての経済不況がちょうど池上電気鉄道の拡大期にあたっていたのが勝負の分かれ目だったということになりますが、田園都市事業を中核としていた田園都市株式会社グループと差があるのは仕方がないとも思えます。その前の関東大震災という天災もあったわけですが。
投稿情報: XWIN II | 2010/07/02 07:44
雪谷駅付近の宅地開発の遅れ
コメント有り難う御座います。日本の社会不安の原因となった1929年の昭和の大恐慌の影響は計り知れないものがありました。小学校の低学年の頃に昼食の弁当を食べられなかった生徒が居た程です。一転して大量の軍隊による動員により人手不足になったのは1937年の盧溝橋事件あたりからです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/02 22:10
池上町誌に掲載されている雪谷駅の拡大された写真を更に子細に検証してみると蒲田方面の電車は前面の形状から100型のようです。五反田迄の延長に備えて増備された車両です。駅に蒲田方面に向けた出発信号がありませんのでまだ自動化されていないときでしょう。場内信号は写真の右に隠れているのでしょう。慶応グラウンド前駅との間の電話連絡で閉塞を確認して運行されていたのでしょう。今日では全て自動化されていますが、信楽高原鉃道の事故の様に故障と決めつけて赤信号で列車を発進させて大事故を起こしたことが思い出されます。最後は人間です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/05 21:20