旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編1
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編2
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編3
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編4
旗ヶ岡駅と東洗足駅の歴史を探ってみる 総括編5
田園都市株式会社の第二期線は、千束(碑文谷)~目黒駅間として申請されたが、ほぼ今日の東急目黒線の目黒~洗足間と一致している。では、この第二期線計画の前、第一期線(大井町~千束~多摩川)と池上電気鉄道計画線とは、どういう位置関係にあったのだろうか。ここで、今日の洗足五叉路の近辺に初期の洗足(千束)駅が計画された可能性を指摘したい。
(前回─その5─からの続き)
そもそも荏原電気鉄道株式会社は、設立者(発起人)が田園都市株式会社とほぼ同一人物から構成されていることからわかるように、まったく同一の事業目的を担う法人として位置付けられる(どちらも大正7年(1918年)に発起人総会、株式会社設立)。それは、田園都市事業の完遂であることは論を待たない。モータリゼィションのことをほとんど考慮に入れることができなかった大正初期においては、大量輸送機関は鉄道以外になく、田園都市事業を盛業として成立させるには、田園都市事業地に鉄道を敷設させることは至上命題であったのである。
そこで、事業用地の買収及び事業用地を分譲地として整備・販売を担う田園都市株式会社と、事業用地までの交通機関(鉄道)の敷設を担う荏原電気鉄道株式会社の二つの法人を使って、一つの田園都市事業を実現しようと目論んだのであった。なぜ、一つの法人で実現させなかったのか。真の理由は不明だが、軽便鉄道法に基づく申請を当局(当時は内閣総理大臣)に通りやすくする方便として、荏原電気鉄道という鉄道会社を申請者とするのが好都合だと判断したからと思われる。通常、鉄道の免許(軽便鉄道法の場合は特許)は、事業としての成否を審査されるが、多くの土地を先行取得せざるを得ない田園都市株式会社が申請者となると、鉄道建設費用以外の多額の債務を計上する可能性を否定できない(事業単体で成否を問うのが通例だが、法人そのものの信用性に欠ける=事業が成立していない時期においては、付帯事業も成否の対象となることが多い)。また、田園都市という単語がほとんど知られていない時代においては、そのような説明から始めなければならない(相手に理解させなければならない)など、余計な手間を嫌ったものと思われる。いずれにしても田園都市事業は、田園都市株式会社と荏原電気鉄道株式会社が車の両輪のごとき位置づけであった。
一方、荏原電気鉄道株式会社は株式会社という法人形態はとっていたが、事業があるわけではなく、あくまで軽便鉄道法に基づく鉄道特許を取得するためだけの存在であったので、特許を取得できるかどうか、また鉄道事業として成立できるかどうか暗中模索をしていた頃は、これだけに頼るわけにはいかなかった。そこで、田園都市事業予定地周辺の鉄道免許(特許)を取得していた会社にも、田園都市株式会社(発起人時代を含む)はアプローチをかけていた。その中の一つが池上電気鉄道だったのである。計画開始から特許取得までの間、池上電気鉄道は大森~池上間だけでは事業として成立できそうになかったことから、新たな予定追加ルートを検討し、その有力候補として洗足池と目黒不動までの路線を模索していた。そういう時期に、田園都市事業の話を聞き、事業用地への鉄道敷設を要請されたことから、これを考慮に入れた線形とし、目黒不動から先の目黒駅まで延伸することとした。これが、池上電気鉄道の大森駅~池上~洗足池~中延~目黒不動~目黒駅の初期ルートとなり、軽便鉄道法による特許となったのである。この初期ルートは、不必要に湾曲しているところがあるが、この部分こそ最初期の田園都市事業用地(のちの洗足田園都市)に他ならず、見事に事業用地を回り込むようになっていることがわかる(現在の東急目黒線のような線形にするのがベストなのは言うまでもない)。
上に掲げた図は、まだ作図途中のものだが、今回の議論では図がないとかなり厳しいと判断し、掲げることにした。よって見にくい点などはご容赦願いたい。図には、池上電気鉄道初期計画線ルートと比較のために現在の東急池上線のルートを示した。ご覧のように初期計画線は、大森駅~池上まではほぼ池上道に平行するが、池上から先は右にほぼ90度曲がって北上。洗足池の東をかすめるように進んだ後、そのまま目黒駅まで直進すればよさそうなのに、いきなり湾曲するのがわかる。この線形は土地の起伏などを考慮に入れたと言うよりも、田園都市事業予定地を補入するとわかるように、これをさけるように配置されている。言うまでもなく、計画線策定時にはすべての線路用地を買収しているわけではないので、事業予定地を避ける必要はないのにこれを行っているということは、田園都市との関係性を認めて問題はないだろう。
といったところで今回はここまで。
XWIN II様
軽便鉄道法では曲線や勾配の制約が緩いのですか? 目蒲線の目黒から不動前迄の当初の勾配と曲線は路面電車なみでした。
現在の池上線の池上から雪谷までは最も起伏の少ないルートを選んでいるような気がします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/04 08:00
XWIN II様
田園都市の予定地の南端の五叉路の放射線の中心を初期計画線が通るようになっていて、以前にご指摘の点が理解できました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/04 10:13
XWIN II様
軽便鉄道
地下鉄日比谷線の様に路面電車のルートをほぼ踏襲している路線では急カーブの連続です。中目黒では大きな事故もありました。当方の愚問を無視して下さい。申し訳ありませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/04 18:29
もうじき蒲田というか、池上駅のあたりで、線路がくにゅーんと曲がっているのは、ここに「池上競馬場」があったからでしょうか。池上電気鉄道の歴史には余り深く載っていませんが、この電気鉄道、池上本門寺への参拝とともに、池上競馬場へのお客も見込んでいた、ということが書かれていたように思います。
もっとも、池上競馬場。すぐに廃止になっちゃったんですよね。目黒競馬場に移ったせいかな。これも、乗降客的に、「目論み違い」になってしまったんでしょうか。
投稿情報: りっこ | 2010/02/05 06:34
りっこ様、コメントありがとうございます。
池上電気鉄道の蒲田支線は、本線(大森~池上~目黒)に対する支線という位置づけですが、事実上、池上~大森を諦め池上~蒲田と接続先を変更するものでした。よって、池上駅予定地(ほぼ現在の池上駅の場所)から蒲田駅までの支線は、本来なら直線で結ぶのがいいに決まっている(線路用地買収面積が最も少ないため、他)のにあれだけ湾曲しているのは、池上競馬場がらみではなく直線で突っ切ることができなかったためです。
最初から直線(南東へ一直線)ではありませんでしたが、それでも今よりは計画線は湾曲していませんでした。それがああなったのは蒲田駅西側が住宅地化が進んだ結果、極力住宅移転費用が発生しない・用地買収に地主が応じた等の理由から、あのような線形となったはずです。当時の代表はあの高柳氏ですので。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/05 07:43
XWIN II1様
コメント有り難う御座います。蒲田駅西口の宅地造成は銀座の黒沢タイプライターの黒沢氏の住宅が主役だと思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/05 11:26
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
黒沢商店については、仰せの通り蒲田西口の発展はこれなくして考えられないわけですが、これを受けて大正期には西口開設となり、以降、現在の多摩堤通り付近に面して住宅等が立ち並んだ結果、線路用地を確保できなくなった…という流れかと。
消極的な高柳体制故、こうなったのかなぁと。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/07 07:32
XWIN II様
高柳体制
悪い奴程良く眠ると申しますが?今日のリーマンブラザース並みのファンド創設者の同氏は結構長生きされたようです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/07 13:08
池上から先は呑川の低地帯ではなく久が原台地の最も勾配の緩い所を選んでいます。それでも最大勾配は1/44(22.5パーミル)で久が原迄のぼっています。建設費を最小限に抑えたのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/10 23:25
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
仰せのようにいわゆる千鳥窪(久保)と呼ばれる久が原台地へのもっとも緩やかな所を上っていくわけですが、もう一つ注目は池上村大字久ヶ原を避けるように、調布村大字嶺との境界付近を進んでいく点です。村の中心を鉄道計画が避けるのはもちろんですが、当時の高柳体制の考え方が見て取れます。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/12 07:25
対決を避けるために境界線付近を通過させるのもコンセンサスをえるための安易な選択だったのかもしれません。しかし、雪谷から先は、石川台の切り通しの土で呑川の谷間に盛り土を施工しています。環七尾根越えでは1/30(33,33パーミル)の勾配を強行していますが経費の関係でしょう。戸越銀座の窪地への勾配も同様です。聞くところによると現在の勾配の最大限度は35パーミルだそうですので限度いっぱいですね。旗の台駅の一部が僅かな勾配に掛かっているのでブレーキを緩めると僅かに動くことがあります。もともと駅にする予定地ではなかったので仕方がありませんね。競願の後遺症というところですか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/12 14:49
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
石川台駅前後の切り通しですが、やはりというべきか高柳体制時の計画は現在よりも中原街道寄りになっていて、なるべく急な勾配にならないようなものでした。それが今日のような計画になったのは、急勾配を避けられなかったのに加えて用地買収に関係したという流れです。
当初は、石川台駅の計画はなく、鉄道敷設工事中に追加申請によって駅が誕生した経緯から、おそらく用地買収に協力した地元への見返りだった…と見るべきかと。
投稿情報: XWIN II | 2010/02/14 16:28
石川台駅に関する情報有り難う御座います。
地元の地主が耕地整理で池上電鉄と協力したことを自慢していましたがその理由が分かりました。ただ上の高台に昇るのに高齢者の方々は苦労されているようです。自転車も電動アシストを利用されてる方が多いようです。今日のような高齢化社会が到来するとは、私を含めて誰も予想しなかったことです。急勾配の坂もテレビコマーシャルには絶好のモチーフです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/02/14 23:09