Wikipedia内の記述が云々という話を先日取り上げたが、誤った情報が出るのは何もネットの世界だけではない。目新しいメディアであるが故、古いメディアから攻撃の対象になりやすいと言うだけで、実際には新聞や書籍などにも誤った情報はたくさんある。それが引用され、もっともらしいように語られているのは、歴史の長さから見ても圧倒的に新聞や書籍の方が多いだろう。
今回、その例として取り上げるのは、タイトルにも記したとおり「慶大グラウンド前か、慶大グランド前か?」という問題である。はっきり言って、どっちでもいいではないかという話に聞こえるかもしれないが、これは固有名詞であり、しかも駅名だったこともあるなかなかに重みのある名前なのである。
グラウンドなのか、グランドなのか。これが固有名詞でなければ記載方法の違いであるので、筆者のポリシーでいいだろう。PC関連で言えば、コンピューターとコンピュータ、プロセサとプロセッサなどなど枚挙に暇がないが、固有名詞でなければどちらでもいいものだ。だが、固有名詞で表記が特定されているものであれば、たとえそれが筆者のポリシーがあってかつ異なるものだったとしても、表記を勝手に変えるのはいかがなものかとなる。
例えば、東急田園都市線の駅名に「たまプラーザ」というものがある。一般的には、PLAZAはプラザと表記することが多いが、だからといって「たまプラザ」とはしない。ローマ字表記等、異なる文字を使うのでなければ、「たまプラーザ」は「たまプラーザ」なのである。これと同じように、「慶大グラウンド前」か「慶大グランド前」なのか、というのはどちらでもいいというものではなく、どちらかが正しくどちらかが誤りなのである。
では、「慶大グラウンド前」または「慶大グランド前」(以降、面倒なので「慶大グラウンド前」と称し、必要に応じて「慶大グランド前」と使い分ける)とは何か。簡単に説明しよう。先に駅名だったと示したように、これは現 東急池上線の千鳥町駅の旧名である。東急池上線は、1934年(昭和9年)に東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄に合併される前までは、池上電気鉄道という会社が運営していた路線で、合併される直前の状態においては現在の東急池上線と、雪ヶ谷~新奥沢間のわずかな区間の路線(1936年廃止)を持っていた。現 千鳥町駅は、池上電気鉄道時代は「慶大グラウンド前」駅という名であり、目黒蒲田電鉄に合併されて一年ほど経過した後に、駅の場所を若干西側に移設して千鳥町駅と改名させられたのである。
一方、「慶大グラウンド前」駅の命名根拠となった慶大グラウンドはというと、慶應義塾が1924年(大正13年)に、東京府荏原郡調布村大字嶺字横須賀等(現 東京都大田区千鳥二丁目)の土地約14,000坪を購入して造成し、1926年(大正15年)から運動場(主に野球グラウンド)として開場した。これを受けて、池上電気鉄道が1926年(大正15年)8月6日に「慶大グラウンド前」駅を開業したという流れである。
この慶大グラウンド(新田球場)は、慶大野球部の本拠地となり、早慶戦など大学野球の公式戦も行われたため、営業成績の振るわなかった池上電気鉄道としては、格好のターゲットと映ったことだろう。だが、実際の最寄り駅はライバル目黒蒲田電鉄の武蔵新田駅の方であった(「慶大グラウンド前」駅から約220メートル。武蔵新田駅からは約160メートル)。とはいえ、グラウンド敷地までではなく、あくまで野球部のクラブハウス的な建物までとするなら、「慶大グラウンド前」駅の方が近かった。
しかし、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に吸収合併され、先にふれたとおり「慶大グラウンド前」駅は、1939年(昭和14年)のグラウンド移転を待たずして、駅の位置をずらされた挙げ句(現 千鳥町駅付近)、駅名もその時点での町名である調布千鳥町から拝借して千鳥町駅となった。なお、原典となる文献があるからだと思うが、千鳥という地名はそれほど古くないという記載をよく見かけるが、これは誤りで、1932年(昭和7年)に調布千鳥町と命名された根拠は、この地の一部が東調布町大字嶺字千鳥窪(千鳥久保とも書く)だったことによる。しかも、この名はこの地域の小名であり、よって江戸期以前よりの古い地名でなのである。
横道に逸れた序でに、新たに千鳥町駅となった場所は、「慶大グラウンド前」駅が誕生するまでは、ほぼこの位置に光明寺駅があった。池上線が雪ヶ谷駅まで延長した1923年(大正12年)5月4日に開業した駅で、その名のごとく最寄りの光明寺への参詣客を目当てに設置された。だが、ほとんど利用客がなかったため、「慶大グラウンド」駅が開業する前に廃止となった。この「慶大グラウンド前」駅も開設して間もなく、駅の場所が都市計画道路に当たることが明らかとなったことから、西側に移転し、昭和初期の地図に見られる位置に移設した。そして、1936年(昭和11年)に千鳥町としてまた移設となったわけで、わずか12~3年ほどの間に駅名変更が2回、駅の場所が3回も移動した珍しい駅なのである。
(下の昭和4年時点の地図に示す、1が光明寺駅、2が初代慶大グラウンド前駅、3が二代目慶大グラウンド前駅、4が千鳥町駅。)
長くなったが「慶大グラウンド前」駅とは、以上のような変遷を経た、なかなか興味深い駅なのである。この駅名が、「慶大グラウンド前」なのか「慶大グランド前」なのか。ようやく本論に入るが、なかなかどちらが正しいのか決定しにくいのである。以下に主な文献を列挙して、どちらを記載しているかを見てみよう。
- 東京横浜電鉄沿革史や東急50年史など、東急公式資料はすべて「慶大グランド前」と表記されている。
- 池上電気鉄道の切符(硬券)は「慶大グランド前」と表記されているらしい(現物を見ていないが、オークション等の情報を見る限り「慶大グランド前」として出品されているものが多い)。
- 陸地測量部(現 国土地理院)の地図では「けいだいくらうんどまへ」(慶大グラウンド前)と表記されている。
- 池上電気鉄道沿線案内図は「慶大グラウンド前」と表記されている。
典拠として、必要十分なものはこの4つでいいだろう。困ったことに、東急公式資料は「慶大グランド前」(おそらく最初である東京横浜電鉄沿革史の529ページには、千鳥町駅の記事として「昭和十一年一月一日(旧称)慶大グランド前を改む」とある)なのだが、元締めと言うべき池上電気鉄道の沿線案内は、対象の時期はすべて「慶大グラウンド前」となっている。国土地理院の前身である公式な地図もひらがな表記だが、「慶大グラウンド前」であり、本当にどちらが正しいのか、判断がつきかねる。ただ、傾向ははっきり掴めていて、鉄道ファン系の著者が書かれているものはほとんどすべてが「慶大グランド前」、一般向けの地図等では「慶大グラウンド前」となっている。この理由は、上に掲げた典拠から推測できるとおりだろう。
ただ、例外があって、昨年出版された「東急の駅 今昔・昭和の面影」(宮田道一 著、ジェイティビィパブリッシング)で、千鳥町駅のページに何の脈絡もなく唐突に「慶大グラウンド前」の注釈として、池上電気鉄道沿線案内ではこのように表記されている(おそらく自身の他著書では「慶大グランド前」としていたが、この著書では「慶大グラウンド前」としたと言いたいのだろう。ただ、この本しか見ていない読者は意味がわからず、置いてきぼりである)のような注釈をつけている。推測するに、鉄道ファン系の著者も「慶大グラウンド前」として認めつつあるのかもしれない。なぜなら、池上電気鉄道沿線案内のような資料は、ずっと昔(大正後期~昭和初期)からそこにあり、それを今頃になって発見したなどとは考えにくく、「慶大グランド前」説から転向したのではないかと思われるからである。
とはいいつつ、私自身、結論は現時点では出せていない。池上電気鉄道の発行していた切符が「慶大グランド前」と書かれていたなら、「慶大グランド前」が正しいとなりそうだが、決定的な資料は当時の駅名が記された駅の写真だろう。なので、古い文献を図書館でいくつかあたったところ、決定的な写真を見つけることはできなかったが、確認した昭和初期の資料はほとんど皆「慶大グラウンド前」となっていた。しかし、これをもって「慶大グラウンド前」だと言えるはずもなく、今後の宿題とすることにしよう。
以上、大した話でもなく調べる価値がそれほどあるものなのか、と疑問はないわけではないが、一部の文献だけを頼るだけでは、わかっているつもりにしかならないことがわかるだろう。たかがこの程度の話でさえ、奥が深いものなのだ。
2009年6月7日 追記
「池上電気鉄道 慶大グラウンド前駅について(確定編)」で宿題を解決。
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