前回、前々回に引き続き、今回も「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに話を進める。今回は、関東私鉄の中でも古参の部類に入る玉川電気鉄道で、最終的には東京横浜電鉄に吸収合併されるが、当時はまだそういう状況となっておらず、池上電気鉄道はもちろん目黒蒲田電鉄や東京横浜電鉄よりも規模が大きい。加えて路線拡充中であり、およそ10年ほど経って他者(社)の軍門に降るというのは考えられなかったろう。では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」101~103ページの「玉川電気鉄道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。
創立………………明治三十六年十月
開業………………同四十年三月
資本金(公称)…一千二百五十万円
資本金(払込)…七百二十五万円
営業線亘長………十二哩六十七鎖
軌間………………四呎六吋
車輌ボギー車……四十輌
車輌 単車………十五輌
車輌 貨車………二十五輌
運輸従業員………三百七名
兼業………………電気供給、砂礫
(昭和二年五月末日現在)当社は明治三十六年十月の創立で、郊外電車としては京浜電車に次ぎ古い歴史を持って居る。明治四十三年三月初めて渋谷、玉川間を開業したが、当時は沿線に未開地多く従って乗客少なく営業振わずして一時経営難に陥り減資の已むなきに至った。然るに欧洲大戦後に於ける郊外の発展に伴い漸く乗客を増加すると共に社運挽回し、其の後数次の増資を重ね次第に盛大を加うるに至った。
当社の営業線は次表の通りであって何れも東京都市計画区域内に属するが、本線の軌道は大部分市街地を貫通する道路上に敷設せられ、遠隔地間の連絡よりも寧ろ市街電車としての色彩が濃厚である。玉川電気鉄道営業路線(昭和二年七月一日現在)
玉川本線……天現寺橋-渋谷橋 〇哩五三鎖 大正一三、五、二一
……渋谷橋-渋谷 〇哩七八鎖 同 一一、六、一〇
……渋谷-玉川 五哩五五鎖 明治四〇、三、 六
計……………………………………… 七哩二六鎖
砧線…………玉川-砧 一哩三〇鎖 大正一三、三、 一
世田谷線……三軒茶屋-世田谷 一哩二三鎖 同 一四、一、一八
……世田谷-下高井戸 一哩七六鎖 同 一四、五、 一
計……………………………………… 三哩一九鎖
目黒線………渋谷橋-目黒役場前 〇哩七二鎖 昭和 二、三、二九
合計……………………………………一二哩六七鎖右の外当社には玉川終点から多摩川を渡って溝の口に至る一哩二十二鎖と玉川村地内九鎖の二計画線があって予て工事中であったが昭和二年七月中旬に開通した。
次に本社の創業以来の旅客輸送の業績を次表に依って一瞥すると開業の当初は一日平均の乗車人員は二千人内外に過ぎなかったが、爾来郊外の発展に伴い漸く其の数を増加し、特に大震災後は沿線各町村の人口増加と路線の伸長と相俟って著しい発展を招来した。大正十五年度の乗客は一日平均五万余人にして之が賃金収入は一日平均三千三百三十円七十銭である。
(次表略。)
玉川電気鉄道は、多摩川の砂利運搬を主要事業として創立されたが、東京市の論調では単に旅客収入をもって計られているため、明治~大正中期までは振るわないのは当然ではある。とはいえ、砂利需要は好不況に旅客運賃以上に左右されるものであり、減資を行わざるを得なかったのも自明であるだろう。
東京市も指摘するように、玉川電気鉄道は大正後期からその性格を一変させ、砂利運搬等貨物輸送から旅客輸送にシフトする。基本線の渋谷~玉川間から派生した路線は、
- 渋谷~渋谷橋~天現寺橋
- 渋谷橋~目黒役場前(正式には中目黒)
- 三軒茶屋~世田谷~下高井戸
- 玉川~砧
があるが、いずれも旅客目的が主である。特に町村役場までの交通確保が目指されており、延長路線は発展著しい渋谷町役場、目黒町役場、世田谷町役場の至近に停車(留)場が位置する。
また、世田谷地域の発展は関東大震災に伴う郊外移転のほかに、軍事施設の集中があったことを忘れてはならない。駒沢練兵場(駒沢といっても今の目黒区と世田谷区の境にある世田谷公園や陸上自衛隊三宿駐屯地などがある一帯)、近衛歩兵連隊、近衛騎兵連隊、近衛野砲連隊などが明治後期までに置かれ、玉川電気鉄道は関連運輸を担うこととなったからである。実際、世田谷(世田ヶ谷)の名前が広く知られるようになったのは、軍需施設が移転して以降であって、世田谷停車場も当時は駒沢練兵場近く(現在の世田谷区池尻三丁目)にあった。大山街道(玉川通り、国道246号線)の整備も、軍需施設の移転以降になされ、最初は道玄坂から三軒茶屋あたりまでが拡幅・直線化された。玉川電気鉄道も、この整備された道路上に軌道として敷設されたのである。
大正15年度の1日平均収入は、池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄と比べてさらに多い3,330.70円。昭和初期に小田原急行電鉄と東京横浜電鉄が玉川電気鉄道営業線の南北に開業することで、駅勢圏は狭まるが、それ以上に路面電車故の問題が出てくるのも昭和初期から。モータリゼーション発達と輸送能力の限界が早いという2点は、この時期が玉川電気鉄道のピークだったということを裏付ける。
唯一残った世田谷線(三軒茶屋~下高井戸)は、結果論だが、路面電車の性格を外して耕地整理に合わせず(一部例外を除く)、道路とは無関係に軌道を敷設したのが功を奏した。無論、軌道を道路に用途変更してバスを通す手もあったろうが、様々な手続きを慮れば当該区間だけで行けるところまで行くという方法が、ベストとはいわないまでもベターであったろう。東急の路面電車(玉川線)の廃止から、既に40年以上経過したことを踏まえれば、よりベターであったと思う。
では、前回、前々回同様、最後に本書掲載の「玉川電気鉄道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。
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