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2011/07/11

コメント

 こんなにはっきりと線路の跡が分かる写真が在ったとは知りませんでした。航空写真の威力は陸地測量部に地図より説得力があります。貴重な写真有り難う御座います。祖父母が線路のすぐ横に住んでいて、まだ枕木が残っているよと言われたことを思い出しました。続きの話を楽しみにしています。
 余談ですが固定資産税の課税標準として空き地の撮影に航空写真を活用していることを最近知りました。

2年前の記事に対してとなりますが、長期にわたるシリーズ大変興味深く拝見させていただきました。
なにぶん、奥澤線は仰られるとおり公式の資料に乏しく、ここまで掘り下げた記事は大変価値を感じざるを得ません。

途中に目蒲電鉄側の話として、奥澤から分岐する瀬田河原方面線の話がありましたが、奥澤から瀬田河原方向となると現存する「等々力通り」という道路が実にその雰囲気を持っている気がします。
大井町線上野毛駅直北で上野毛通りより分岐し、大井町線に併行してそのまま奥澤までほぼ直線で走っている道路です。(大井町線とは久品仏駅やや東で交差することになりますが)
この等々力通りの奥澤駅との交点(道路終点)は奥澤検車区の目前であり、接続角度的には検車区内の配線をそのまま延伸したような位置関係にあります。

単なる偶然なのか、何かしら関係があるのかは判りませんが、ちょっと気になりましたもので。

朝倉様
御指摘の奥沢からの分岐の件ですが、確か昭和8年頃迄と思いますが、奥沢駅から田園調布に向かった線路の右側の現在公道となっているところに線路が敷かれていて電車が留置されていたことを思い出しました。その先の祠の分岐点から右に直進するルートは御指摘の道路の一本南側となりますが、免許申請時の図面を見ればよりはっきりすると思いますが、大岡山駅の先で立体交差で右に折れて九品仏川に沿った現在のルートになった経緯は以前のブログで詳しく述べられていますが、そこに奥沢からの分岐のルートがどこかのブログで述べられていた様に記憶しております。

コメントありがとうございます。
さて、このシリーズはその17を掲載して以降、二年ほどまったく話を進められずにいるのですが、察しのとおりまったくネタ(元)を見つけることができないので停滞しております。研究に没頭できればいいのですが、さすがにそんな無茶苦茶できるはずもなく(苦笑)。
さて、二子玉川線(大井町線)の初期計画については現在よりもやや南寄り、世田谷区立八幡小学校のすぐ北側を西方向に向かっていくものでしたが、碑衾町の衾西部耕地整理組合地を通過する形に計画変更した時点で、東横線との立体交叉も含め現在の形となりました。よって、等々力通りに関しては、鉄道との兼ね合いというよりも玉川全円耕地整理組合地の背骨のような主要道路という位置づけであったと見ます。
ただし、奥沢駅西側部分については既にご指摘のように留置線があったところで、仰せのように何らかの関連があったやも知れませんね。

XWIN II様
当時大井町線の車輛も奥沢車庫に収容されており、大井町線の大井町駅発の最終電車は奥沢行きとなっていました。当時大井町駅付近は歓楽街でしたので、酒飲みに寛大な当時の風潮を反映してのサービスの一環だったのでしょうか(笑い)。従って操車関係から留置線は必要だったと思いますが、免許の失効で公道として土地を返還したのかも知れませんね。当時知人が大岡山駅の信号所に勤務していましたが、早朝と深夜はポイントの切換えで多忙を極めたと言うことです。ちなみに自由が丘の車庫ができたのはかなり後だったと思います。

木造院電マニアさま、皆様、あまり関係がないですが、高校生の時(昭和47年から49年)大岡山で、奥沢方のシーザスクロッシングで脱線事故があったのを思い出しました。現場の人は大変だったでしょうが、楽しく見ていました。よもや、あの会社の関連企業に勤めることになるとは思ってもみませんでしたが。。まだ、北側に荷物電車用のホームがありました。

デハ3300様
お久しぶりですが如何御すごしですか。
大岡山駅北口の貨物専用ホームには現在滅多にお目に掛かれない黒色の貨車が、戦後は荷物電車が停まっていて、田園調布経由で、菊名の連絡線で国鉄に連結されていました。今の菊名には貨物車ようの側線も連絡線も跡形も無く消えて居ますね。

デハ3300様
追伸
大部以前に貴兄のご近所に終戦直後に京王帝都に勤められていた方とご親交がおありと伺いましたが、資材が極端に不足していた終戦直後に占領軍の命令で尾灯を2灯化したことを思い出しましたが、昭和何年頃だったか機会があれば御聞きして頂けないでしょうか。当時命令は絶対でした。

木造院電マニアさま

その方は小田急の運転士をされていた方で、代田連絡線のことを
よくご存知の方でした。小田急の赤石様、生方良雄様などと活発に小田急、帝都電鉄の記録をまとめていらっしゃいます。大東急の頃、部品を取りに元住吉まで行ったとか、停電時になんとか駅にたどり着く方法、まえに走っている運転士の性格から、信号の現示にかかわらず、どのへんに止まっているかわかるとか、戦後はパラ止めで大井松田から渋沢まで登るのが大変だった、制限速度を守ると登れないのでいまなら乗務停止になるようなことも、黙認されていたとか、楽しい話でいっぱいの方です。だがしかし!私今インドにいるのです。残念ながら8月後半の休暇までご期待に添えません。あしからず。ここニューデリーにも地下鉄があり、ボンバルディアの電車が走っています。ご存知のように東急7000系の車体の特許を持つBUDD社の成れの果てですね。

デハ3300様
ご返事有り難う御座います。酷暑のニューデリーでのご活躍ご苦労様です。今注目の印度市場での営業は取引慣行や文化の違いを乗り越えて挑戦されていることに頭が下がります。BUDDの電車はアメリカのINTERURBANの典型のような車ですね。8月のご帰還を楽しみに待っています。

木造院電車両マニアさま
以前より投稿されているコメントでかなりお詳しいと感じておりましたが、わたし宛にもモヤを晴らすコメントを下さりありがとうございました。
駅周辺に関しては「以前留置線があった辺りの転用」とのことで、確かに等々力通り自体がその位の長さの後に若干曲がっている(その先は上野毛方向へほぼ直進)し、その近辺もその位の範囲を境に少し道路の向きが変わっているので、御指摘の通りなのだろうと大変納得できました。

XWIN IIさま
ネタが枯渇気味とのことですが、なにぶん資料に乏しい題材ですし仕方がないところかと思います。
むしろ通りすがりのコメントにもキッチリ返信下さりありがとうございました。
二子玉川線の計画線そのものは八幡小学校直北を走るルートだったとのことで等々力通りそのものは直接に二子玉川線と重ならないものの、同地区の主要道路としての存在は今も変わらず健在で、往時からその性質があったことは容易に伺えますね。

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