前回及び前々回の続き。これまで池上線と大井町線について見てきたが、今回はそれらに続いて目蒲線を見ていく。目蒲線は、現在の東急目黒線の一部(目黒~多摩川)と東急多摩川線(多摩川~蒲田)より構成されていたが、もとは目黒蒲田電鉄の本線として開業したものである(会社名にそれが表われている)。では、目蒲線の図表を拡大して示そう。
これまで、池上線、大井町線(図表上は目蒲線の一部)と見てきたが、乗降客数ではこの目蒲線が最も多い。目黒蒲田電鉄の本線にして稼ぎ頭だったことが、昭和16年度としての時点でもそれは変わることはない。池上線と同じように起終点に大きな山があり、その中間に位置する田園調布~多摩川園前(現 多摩川)の乗降客数が最も少ない。非常に効率的な路線といえる。
駅名については、多摩川園前駅(現 多摩川駅)、鵜ノ木駅(現 鵜の木駅)が現在と異なるほか、矢口渡駅~蒲田駅間は現在の線形と異なっており、現在の路線ではないところに道塚駅があった(参考記事として「目黒蒲田電鉄時代の本門寺道駅」と「東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 前編」をあげておく)。他は、地下化するなど変わった点は少なくないが、グラフをいる上での問題はないだろう。
また、グラフの見方は前回及び前々回と同じだが、ここでおさらいしておくと、下が上り(蒲田→目黒)で上が下り(目黒→蒲田)を表し、黒い棒が乗車人数、灰色の棒(黒い棒の右隣)が降車人数を表す。そして、白い太い棒は駅間の昭和16年度の一日平均乗車人数を表す(点線は昭和15年度の値)し、点線の間隔は5,000人単位である。
起終点を除くと、これも池上線や大井町線と同様に荏原区に属する武蔵小山駅と西小山駅の多さが目立つが、蒲田寄りの下丸子駅、武蔵新田駅、矢口渡駅も侮りがたいことが確認できる。昭和10年代に入って蒲田区(現 大田区の一部)の人口の伸びは荏原区のそれを上回る勢いを示し(参考記事「東京城南地域の人口爆発(大正~戦前期)」)、京浜工業地帯の一翼を担うほどにもなっていたので、この伸びは当然だといえるだろう。池上線では、蒲田駅寄りの各駅の乗降客数はここまで伸びていないこともそれを裏書きしていると考える。
一方、乗降客数の少ないのは廃止(廃線)された道塚駅を除くと沼部駅が最も少ない。これは当時も現在も変わることがない。目黒蒲田電鉄の第一期線として、目黒~丸子間開業の時は、その終点として中原街道(現在の中原街道ではなく旧道)や丸子の渡し(まだ丸子橋はなかった)といった交通の結節点だったのも今は昔。いや、昭和10年代から過去のものであり、それはこれからも変わることはないだろう。
といったところで、今回はここまで。
現在でもキロ当りの営業成績が際立って良好な東急グループの特徴は西武や東武と異なり先細りしないことでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/10/23 12:36