現在、東京23区の人口は約900万人前後を数えるが、かつての旧東京市(1932年の市域拡張される前の15区の範囲)の人口は1920年において約217万人を数えていた。一方、現在の東京23区に含まれている旧東京市外(当時の東京府荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡など)の同時期人口は約118万人。合わせて約335万人であった。だが、関東大震災を契機とした郊外への移転傾向が強まり、その後の日中戦争景気によって東京市の人口は激増し、20年後の1940年には約677万人を数え、人口は倍増した。このうち、新市域(旧15区以外)の人口だけを見ると約454万人となり、旧市域の人口約223万人のほぼ倍近いとなるが、注目すべきは旧市域(15区)の20年間の人口がほとんど変わっていない(約217万人→約223万人)にもかかわらず、新市域(20区)の人口は4倍近い伸び(約118万人→約454万人)を示していることである。
これは自明のことだが、旧東京市(15区)に隣接する地域はそれなりの市街化を見せていたものの、1920年頃までは新市域となる20区のほとんどは純農村地域であり、町制施行していたのは荏原郡に品川町、大井町、大森町、入新井町、羽田町、目黒町と19自治体のうち、6自治体。豊多摩郡に淀橋町、大久保町、戸塚町、中野町、渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町と13自治体のうち、7自治体。北豊島郡に板橋町、巣鴨町、西巣鴨町、高田町、岩淵町、王子町、滝野川町、日暮里町、南千住町、三河島町と20自治体のうち、10自治体。南足立郡に千住町と10自治体のうち、1自治体。南葛飾郡は新宿町、亀戸町、大島町、吾嬬町、小松川町、砂町と20自治体のうち、6自治体。北多摩郡は一部のみが東京市世田谷区に編入されるが、千歳村及び砧村のどちらも村であった。こうして一瞥してみれば、旧東京市に隣接している条件以外に江戸期より人口が集中しているところ、省線(院線)など鉄道駅の存在するところが町制をしいており、他はすべて村制であった。ちなみに1920年時点で、東京15区のうちもっとも人口の少ないのは赤坂区の約6万人(最高は浅草区の約25万人)。これを超える町は、渋谷町(約8万人)のみ。人口3万人まで下げても品川町、大井町、大崎町、淀橋町、千駄ヶ谷町、西巣鴨町、南千住町、王子町、滝野川町、千住町、亀戸町、吾嬬町と12町(渋谷町を加えれば13町)が該当するのみで、1万人に届かないものは52町村を数えた。以上の人口統計のデータからも、東京市内と東京市外では市街地化に大きな差があったとなるわけである(以前、当Blogでも渋谷町についてとり上げたが、ここは例外。ただし、東京市に隣接している地域ではあった)。
では、ここからが本題。東京市外のうち、東京府荏原郡すべてが市域拡張によって東京市になった品川区、荏原区、大森区、蒲田区、目黒区、世田谷区(一部、北多摩郡を含む)の人口爆発について、1920年(大正9年)から1940年(昭和15年)までの20年間、国勢調査の人口数を用いて眺めていこう。
さて、いきなり結論から(笑)。国勢調査の人口数より算出した城南6区の人口推移である。上表をご覧いただくにあたって注意点は二つ。
- 現在の東京23区と市域拡張後の東京35区では当然数が合わない、つまり35区から23区へ至る分離合併があった。上に示す品川区とは、現在の品川区ではない。現在の品川区は表に見える荏原区と合併して、新たな品川区として成立したものである。同様に、大森区と蒲田区は合併して現在の大田区になっている。
- 上表では5回の国勢調査における人口数を記しているが、品川区~世田谷区が成立したのは1932年(昭和7年)であって、1930年までの人口数は正確に記せば各区のものではない(区が成立していないから)。よって、1940年時点を各区の基準として区が成立する前の町村の人口を足し上げている。つまり、世田谷区を例に挙げれば、1920年時点の数値は荏原郡に属する世田ヶ谷村、駒沢村、玉川村、松沢村と北多摩郡に属する千歳村、砧村の6村の合計値として掲出している。
では、6区の比較をしてみると、やはり注目は荏原区となるだろう。1920年からの10年で、1万人に満たない人口が13万人を超えている。1920年といえば、洗足田園都市は姿を見せておらず、辛うじて大崎駅や五反田駅に隣接するエリアに人家が建ってきた程度で、純農村地帯といってよかった。ところが、その後の10年の間に洗足田園都市の建設、目黒蒲田電鉄の開通、同大井線(大井町線)の開通、池上電気鉄道の開通があり、荏原区エリア(平塚村→平塚町→荏原町)内には、東洗足駅(現 旗の台駅)、荏原町駅、中延駅、蛇窪駅(現 戸越公園駅)、戸越駅(現 下神明駅)、旗ヶ岡駅(現 旗の台駅)、荏原中延駅、戸越銀座駅と8駅。ほとんど隣接しているエリアを含めると、小山駅(現 武蔵小山駅)、西小山駅、洗足駅、長原駅、桐ヶ谷駅と5駅。あわせれば、実に3路線13駅も開業したのである。これに耕地整理事業がうまくかみ合い、関東大震災という郊外移転への流れに乗って、人口爆発が起こったのである。
ただ、区単位としてグラフ化してしまうと、このように荏原区は埋没してしまい、世田谷区や蒲田区の影に隠れてしまうことになる。よって、これを際立たせるため、1920~1930年に範囲をしぼり、かつ東京市に合併される前の町村単位で人口比較を行ってみよう。
荏原区は、ご覧のとおり単独で区を形成した希有な例の一つで、東京市域拡張時に同様な例は他に滝野川区(滝野川町単独で区となる)のみである。さて、こうしてみれば荏原区(荏原町)の人口爆発がいかに凄いかがわかるはずだ。表中21町村のうち、1920年時点で荏原町(当時は平塚村。なお、上表では1930年時点の町村名とし、途中で変わったものでも1930年時点の名称として統一している。以下の記述も同じ)は10番目とほぼ真ん中あたりに位置しているが、5年後の1925年(大正14年)には早くも人口7万人を突破し、1位だった品川町(ここは明治22年=1889年に市制町村制が施行された当初から町制だった)を大きく引き離して1位となっている。1925年といえば、関東大震災が起こってわずか2年しか経ておらず、どれほどこの人口爆発が凄いのか想像もつかない。
同時期には他の町村でも伸びているが、ダブルスコア(2倍)以上のものは荏原町、目黒町、碑衾町、馬込町、蒲田町、矢口町、世田ヶ谷町、駒沢町、松沢村と実に9町村を数えているが、伸び率、人口数とも荏原町には遠く及ばない。では、これをグラフ化してみよう。
圧倒的(笑)。今回は掲げないが、このあたりは1万分の1地形図で、大正中期のものと昭和初期のものとを比べてみれば一目瞭然。この人口爆発が何によって成されたのか。もちろん、複合要因ではあるが、大きなものは関東大震災と高密度の鉄道網、耕地整理であるのは確かだろう。
といったところで、今回はここまで。
荏原区の人口
明治4年 788名(笑)
大正5年 5,810名
大正10年 1万0,498名
大正12年 3万6,179名
大正13年 5万4,829名
大正14年 7万2,256名
昭和2年 9万1,422名
昭和5年 13万2,107名
(数字に誤記があったらすみません)
おっしゃられるとおりだと思います。
この地区は、関東大震災後の郊外志向
そして何といっても、鉄道網の発達ですね。
実家を購入した私の祖父は、国鉄マンでした。
いち早く、鉄道敷設の情報を得たものと思われます。
今で言う目黒線に徒歩12分
池上線・大井町線に徒歩7分
という、アクセスのよさをいつも自慢しておりました。
投稿情報: りっこ | 2012/04/08 08:26
XWIN II様
綿密な人口動態学的分析に感服しました。
荏原区の人口密度が高いことは第二延山小学校の二部授業や慶大グラウンドでの運動会で身を以て感じていましたが、特に注目すべきはその速度です。目蒲線、大井町線、池上線の何れもが大岡山、荏原町、旗が岡でラッシュ時に折り返し運転を行って乗客を捌いていました。
特に中原街道に沿って10人規模の町工場が特に支那事変以降急激に増加しました。軍需成金のお陰で西小山の三業地は殷賑を極めましたが、人口密集地のために空襲による犠牲者も5千人にも登ったのが悲しい思い出です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/04/08 11:48