明けましておめでとうございます、と言うにはあまりに遅い今年(2018年)最初のBlog記事である。すっかり枯れた当Blogではあるが、アクセス数はそれなりに頂戴しており、過去記事をご覧頂いていることに感謝申し上げたい。さて、新年(苦笑)最初の記事は、某人からのリクエストを頂戴したことがきっかけとなった。内容は、最近「トラベルMOOK 東急電鉄の世界」の新版となる「トラベルMOOK 新しい東急電鉄の世界」(出版:交通新聞社)が出版され、駅の歴史・由来が大きく書き換えられたので、再び検証してほしいという主旨であった。なるほど、確かに5年ほど前にそのような記事を当Blogに書いていた。
これらの記事は、なかなか反響が良かったこともあって、新版が出たと言うのなら確認してみようと相成った訳である。旧版は「駅のツボ」というコーナーだったが、新版は「駅しるべ」となっており著者も異なっている(今回は池口英司とある)。では、早速見ていこう。(以下、ページ数は「トラベルMOOK 新しい東急電鉄の世界」のページ数を表す。)
101ページ「渋谷」
渋谷の地にはじめて駅が設けられたのは明治時代のことで、1885(明治18)年3月1日に、私鉄・日本鉄道が大山街道との交差点に品川線(現JRの山手線)の駅を開設した。ただし、渋谷が大きく発展するのは、東京横浜電鉄、帝都電鉄(現京王井の頭線)、東京高速鉄道(現東京メトロ銀座線)などの線路がつぎつぎとターミナル駅を開設した昭和初期以降になる。
私の指摘
旧版は自由が丘から取り上げたのだが、今回はいきなり最初の渋谷から取り上げなくてはならない。まず、渋谷駅開設当時の1885(明治18)年、「大山街道に接するように駅(停車場)を設置していないという事実」をご存じないようだ。開設当初の渋谷駅は、大山街道と鉄道の交叉部分(言うまでもないが当時は平面交叉)から南側に250メートルほど進んだ先にあった。道路が狭い時代にあって、250メートルという距離がいかに遠い(長い)かは論を俟たず、交差点に駅がと言えるはずもない。そして、渋谷の街が発展するという「発展」という意味を何に置くかによるが(今だって超高層ビルが次々建設される中、発展中と言えるだろうから)、これを市街地化と定義すると、大正末期には既に市街地化は完了していた。だからこそ、大正年間から犬牙錯綜した地租改正以来の境界を正そう(わかりやすく整理しよう)と大字小字改正運動が巻き起こり、それが1927(昭和2)年に完成するのである。つまり、東京横浜電鉄が渋谷に乗り入れた頃には市街地化はとうに終わっており、だからこそ、渋谷川沿いの狭隘な場所に線路を敷設せざるを得なかったのである。さらに、それよりも10年以上未来の話となる東京高速鉄道の話を持ち出すのは、まったくナンセンスであり、当然時期についてもいかがなものかとなる。とはいえ、あれだけの字数でこれらを表現するのは難しく、そこは筆者に同情しつつ、編集はきちんと仕事をしてほしいと思う(今後もふれていくが、編集がまったく仕事をしていないのではないかと思えるほどレベルが低い、または筆者に丸投げのいずれかと推定される)。
102ページ「学芸大学」
東京横浜電鉄の渋谷延伸時に開設された駅で、開業時の駅名は「碑文谷(ひもんや)」。これは当地の字名だった。
私の指摘
間違いではないのだが、この筆者は「明治以降の大字、小字(字)と江戸期の小字(小名)を混同している」と思われる表現が随所に見られ、どうにも気になるのでこれを正すことにする(イメージとしては市町村の「町」と日本橋本町の「町」を同じと思い込んでいる)。よって、「これは当地の大字名だった」とするのが正しい。
102ページ「自由が丘」
開業時の駅名は「九品仏」。これは駅の西側に所在する九品仏浄真寺にちなむ。駅が開設されるまで、この一帯には水田地帯が広がっていたといい、字の名も谷畑(やばた)だった。しかし、鉄道が開通したあとは宅地開発が進み、大根畑が広がっていた丘の上に私立学校も建てられた。この学校の開設とともに駅名も改められた。そして、「九品仏」という駅名は、目黒蒲田電鉄大井町線の駅名になった。
私の指摘
旧版の自由が丘駅の説明は酷いものだったが、面目一新した。だが、字名混同があるので、正しておくと「谷畑」は正確に言えば当時は大字でも小字でもなく、いわゆるこの地域の集落的名(明治期からは「根」と称す。中根、東根などと共に谷畑根と称した)であって、大字名では衾(ふすま)、小字名では谷権現前となる。よって、以上を正確に記すと「東京府荏原郡碑衾町大字衾字谷権現前」となる。
102ページ「田園調布」
開発が始まるとそれまでは一面の畑だった周辺の地価が高騰をはじめ、駅周辺が日本を代表する高級住宅地に数えられるようになる。日本に好景気が訪れた昭和中期以降のことだ。
私の指摘
短い文で説明しなければならない事情はわかるが、さすがにこれはどこがどう悪いではなく、全部ダメだ(失笑)。大正中期の説明がいきなり高度経済成長あるいはバブル期の話に飛んだりするのはナンセンス。地価については、田園都市株式会社(東急の前身、母胎といえる会社)の田畑買収時で坪2~3円であって、これと比較して高騰というなら、多摩川台住宅地として分譲直後には坪数十円なのだから、大正期には高騰したとなる(実際、大正末期の新聞報道でも「高騰」と表現されている)。無論、その後もバブル崩壊までは上がり続けていたわけだから、もう少し説明が何とかならんか(苦笑)となるのである。
103ページ「新丸子」
駅が開設された当時、駅所在地の地名は上丸子だったが、この時すでに目黒蒲田電鉄が丸子駅を開業させていたことから、混同を避けるために「新丸子」という駅名が採用された。
私の指摘
おいおい、あんたが混同してるよ(呆笑)。この説明が通るなら、目黒蒲田電鉄の下丸子駅(現 東急多摩川線)は混同前提で付けたのか、となる。無論、そんなはずはなく、新丸子住宅地という自社分譲地から採ったものである。一応、時系列で示しておくと、
- 1923(大正12)年3月11日、目黒蒲田電鉄が丸子駅(現沼部駅)を開業。
- 1924(大正13)年5月2日、目黒蒲田電鉄が下丸子駅を開業。
- 1924(大正13)年6月1日、丸子駅を武蔵丸子駅と改称。
- 1926(大正15)年1月1日、武蔵丸子駅を沼部駅と改称。
- 1926(大正15)年2月14日、東京横浜電鉄、新丸子駅を開業。
となり、混同をいうなら下丸子駅の方をあげなければならない。なお、文章は変わっているが、この誤り(錯誤)は旧版から引き継がれている。
104ページ「菊名」
東横線の多摩川~横浜間は、多摩川~渋谷間よりもひと足早く開業した。そして東横線の菊名が開業して半年あまりのちとなる同年9月1日に、国有鉄道(当時の管轄は鉄道院)菊名が開業し、当駅は共同駅となった。
私の指摘
内閣鉄道院の廃止(鉄道省へ昇格)は1920(大正9)年のことであるので、当時の管轄は鉄道院とあるのは誤り(わざわざカッコ書きまで施して説明したのに)。
114ページ「大井町」
目黒蒲田電鉄が大井町への路線延伸を画策したのは、官設鉄道との接続がなければ、田園都市地域の発展を見込むことが難しいと考えたからだ。
私の指摘
もともと田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄の母胎となる法人)の最初の鉄道計画が大井町駅からのもので、目黒蒲田電鉄が画策したものではない。目黒駅や蒲田駅よりも早く大井町駅への接続が計画されていたのである。なぜ、大井町駅が接続駅とされたかについては、この近辺で最初の電車専用駅(当時は山手線も汽車のみ)として開業を目指していたからである。のち、目黒駅との接続が優先されるようになるのは「公式には鉄道省の指導云々」とされているが、これは山手線が電車中心に移行されることに加え、省線との接続に最も敷設距離が短いことが大きい。さらに真の理由としては池上電気鉄道と起終点を同じくすることで、鉄道省の指導という大義名分を必要としたこともある。
115ページ「下神明」
「神明」とは、旧蛇窪(へびくぼ)村にある天祖神社がその名で呼ばれていたものが転じたものという。
私の指摘
旧版と同じ誤り。歴史的には、江戸期以来の上蛇窪村と下蛇窪村が明治22年の町村制施行による合併で平塚村成立時に、村の大字となり(大字上蛇窪及び大字下蛇窪)、それが1932(昭和7)年の東京市併合に伴う荏原区の成立により、大字上蛇窪が上神明町、大字下蛇窪が下神明町となる。なぜ蛇窪が神明へと改名されたかについては、以前、当Blog記事(「蛇窪」という地名が消滅する過程で、地名の保存とは何かを考える)で示したように、都市化に伴う都会風の名称を欲したからに他ならない。なお、神明の由来となる天祖神社については、上蛇窪、下蛇窪どちらにも存在する(調査不足だが、おそらく蛇窪村が上下に分かれた際、神社も分祀されたと推定)。
115ページ「中延」
駅名に採られた「中延」は、当駅が設けられた一帯の字の名とされ、江戸時代までは「なかのべ」と読まれたとされるが、地名の由来については、諸説があるものの、確実なところは不明だ。当駅は、地上に相対式ホームを備えたスタイルで開業したが、蒲田寄りに国道1号(第二京浜国道)と交差する踏切があったことから戦後になって高架化が開始され、工事はおよそ1年の工期を要して1957(昭和32)年7月に完成した。この立体化工事は、踏切の解消を目的とするものするものとしては東急で初の例となり、工事完成とともに当駅も高架に生まれ変わっている。
私の指摘
ひどいね。これだけ短い文章に誤りが詰め込まれている。まず、大字小字の区別がついていないのでここから正すと、駅開設時は東京府荏原郡荏原町大字中延であり、1889(明治22)年の町村制施行前までは中延村であった(つまり字ではない)。なお、由来について不明だというなら「なかのべ」については蛇足だ。そして踏切解消の立体化が東急初というのは、おそらく東急50年史の読み方が誤っており、東急電鉄にとっての戦後初の立体化工事であって東急電鉄最初のものではない(戦前にいくつも施工している。代表例として、同じ第二京浜国道との立体化でいえば、目蒲線、池上線が戦前の施工)。なお、後段の「するものするもの」となっている箇所は、私の打ち間違いではなく元がそうなっている。
115ページ「荏原町」
荏原という地名は、古くは中世の古文書に登場するといい、明治期には東京府を構成する6つの郡のひとつに荏原郡があった。1947(昭和22)年に品川区と荏原区が合併して品川区となり、荏原は品川区内の町の名前となった。著名な繁華街がないことなどから、今日までこの地名がスポットを浴びる機会はあまりないが、東京の歴史を振り返ると、要所に荏原の名が表れる。
私の指摘
面倒なので後段は省いたが、全体を通じて駄文であり誤りと錯誤の巣窟である。たかが500文字程度でこれだけのデタラメ駄文が書けるというのは、ある意味才能かもしれない(失笑)。さて、まず旧版と同様、荏原の名は中世どころか、古代、万葉集などにも登場する古い地名である。郡名としても平安時代以前より続いており、武蔵国から東京府になっても続いている(なくなるのは1932(昭和7)年)。荏原町という名は、荏原郡が存在する頃からあり、平塚村が町制施行の際、平塚町と称したが、神奈川県の平塚町(現平塚市)と郵便物の混同が多いなどの理由から、荏原町に改名したのである。そして、東京市に合併となって荏原区となり、1941(昭和16)年の町名町界変更により、荏原一丁目から七丁目までが新たに誕生。そして品川区との合併後も町名としての荏原は存続し、住居表示後も町界等の異動はあったが、現在まで町名として生き続けている。そして「著名な繁華街~」以降は、筆者の無知ぶりをさらけ出している感想(妄想)文でしかないのでまったく無価値だ。文字数が少ないのだから、余計なことを書く余裕などないはずだが(失笑)。
116ページ「旗の台」
池上線との接続駅。大岡山、自由が丘とともに、多くの乗客が当駅を利用している。1927(昭和2)年7月6日に「東洗足」を名乗って開業。これによりわずかに遅れて、同年8月28日には池上電気鉄道がここに駅を設けて、当駅は2社の接続駅となった。ただし敷設免許の取得は池上電気鉄道のほうが早かったことから、両路線の交差部については、池上電気鉄道に優先権があり、大井町線が池上線をオーバークロスするかたちで線路が敷設される。また当初は、両路線の交差部に駅が設けられることはなく、目黒蒲田電気鉄道は交差部から170m大岡山寄りのところに「東洗足」を、池上電気鉄道は交差部から210m五反田寄りのところに「旗ヶ岡」を設けた。利用客にとっては不便でしかないこの方策は、両者がライバル関係にあったためという。
私の指摘
はい、全文書き直し。接続駅となったという説明の後に、それぞれは交差部から離れたところに駅を設置したという意味不明な説明。いかに筆者が歴史をわかっていないか、いや記述能力が足りていないかが良くわかるものである。そしてありもしない目黒蒲田電気鉄道という記述。正しくは目黒蒲田電鉄であり、どうにもこの筆者は表記の揺らぎがひどい。まぁ市販書なのだから、編集(校正)がダメだということもできるが。
116ページ「北千束」
大井町線の大井町~大岡山間開業から少し遅れて、沿線住民の要望を受け入れるかたちで開設された駅。開業時の駅名は「池月(いけづき)」で、駅の南にある千束神社に、源頼朝の愛馬とされた「池月」の銅像があることにちなんでつけられた駅名といわれる。駅の所在地の地名からはかけ離れたネーミングは、この駅が洗足池の最寄駅であることをPRするためのものだったという。実際には池上線の「千束池」が最寄り駅だが、「旗の台」駅の統合に時間が要されたのと同じように、目蒲電気鉄道と池上電気鉄道がライバル関係にあったことから、このような経緯が生まれた。
私の指摘
本当にこの筆者は無知だけでなく、でっち上げまで行っている。恥を知れ。まず「池月」の銅像だが、これは平成になってからできたもので、駅の開設時どころか、戦後から数えても40年以上経過した事象である。銅像に因む訳がない(こういう妄想文を見せつけられると、無知の上に思い込みが加わり、剰えノーチェックだとしか思えない)。さらに旧版でもそうだったが、千束神社ではなく千束八幡神社。源氏縁の話が出れば、当然そこは八幡神社であろう。駅名由来について、池月伝説は確かに洗足池周辺に関わるものであるが(他地域にもある)、線路用地を売り渡した千束耕地整理組合の有力者の希望であって、池からの遠近などは関係がないのだ。そして、駅名を「千束池」(正しくは洗足池)とする漢字変換ミス。目蒲電気鉄道と固有名詞を正しく書けない(正しくは目黒蒲田電鉄)。勝手にライバル関係にあったとの妄想(ここでこの話を取り上げるのなら、池月ではなく洗足公園に改名してからの方がまだわかる)。だんだん著者に対して厳しい書き方となってきているが、それだけ内容がひどいのでご容赦だ。
117ページ「自由が丘」
大井町線の建設を進める目蒲電気鉄道は、姉妹会社である東京横浜電鉄との接続駅を「九品仏前」駅とした。当初は「奥沢」がその予定地とされていたことから、計画の変更時には、奥沢の住民が反発するというひと幕もあり、誰もが鉄道誘致を願っていた当時の世相が窺える。
私の指摘
既に東横線の部でも自由が丘駅についてはふれており、そこでは目黒蒲田電鉄となっているのにどうしてここでは目蒲電気鉄道となっているのか。これは著者のみならず、編集者が腐っているとなるだろうか(あるいは筆者が数多のコピペを行っているからか)。そして内容もデタラメ。東横線の方では「九品仏」駅としているのに、ここでは「九品仏前」駅(この名は現九品仏駅が当初予定していた仮駅名)となっている。さらに予定地が奥沢となっているが、これは目蒲線(現 目黒線)と大井町線(二子玉川線)の接続予定地であって、東横線と大井町線の接続予定地ではない。元々の武蔵電気鉄道の計画では奥沢の地を通過はするが、接続については荏原電気鉄道の古い計画(軽便鉄道法時代)のものであって、東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道)の鉄道計画においては、今の世田谷区立八幡小学校辺りで交差するようになっていた。計画変更時の奥沢住民の反発(陳情等)は大井町線に対するものであって、東横線に対するものではない。おそらく、簡単な事項ですら混同する著者なので、この辺りの複雑な経緯は読み取れなくても仕方がないと思えるが、デタラメであることに相違はない。
118ページ「上野毛」
駅名に採られている野毛とは崖のことを指し、この地名も全国に数多く存在している。「野木」「乃木」も同様の地名であるといい、東京の赤坂には「乃木坂」があって、横浜の「野毛」も、崖の下にある地域に付いた地名だ。
私の指摘
はぁ・・・。著者は蘊蓄語っているつもりなんだろうねぇ。でも哀れ。東京赤坂の乃木坂は、この付近に居を構えていた乃木希典将軍に因むもので、明治天皇崩御の際、殉死したことを赤坂区議会が顕彰し、幽霊坂を乃木坂に改名したもので、著者がいうような理由ではない。こういうデタラメが全編通じてまかり通るのが、この本の「駅ガイド」に通底しているのである。
118ページ「二子玉川」
同社はこのほかにも、奥沢~瀬田河原間、(中略)の鉄道敷設免許申請を行なっているが、いずれも建設の要なしとして却下されている。
私の指摘
奥沢~瀬田河原間は、計画変更により、奥沢を九品仏(現自由が丘)、瀬田河原を二子玉川(玉川電気鉄道玉川駅付近)に変えたもの=二子玉川線=大井町線として完成したもので、却下などされていない。こういうレベルで鉄道の歴史を語っているのだから大笑い。
118ページ「目黒」
1922(大正12)年7月22日に設立された目黒蒲田電鉄は、まず大井町~調布村間の建設を画策したが、経営、用地買収などの面から路線を国有鉄道の山手線に接続することが望ましいとして、目黒(大崎町)~調布村間の路線建設を優先し、そののちに大井町~調布間を建設することにした。これが現在の目黒線、大井町線となっている。
私の指摘
目黒蒲田電鉄の設立年月日。正しくは9月2日だが、7月22日は発起人総会開催日である。そして、その後に続くものは東急50年史の言い分通りなので、著者の問題ではないが、こういうのを鵜呑みするのが怖いと指摘しておこう(なぜ池上電気鉄道と起終点を同じとしたかの理由は、表向きの理由しか正史には書けないだろう。これを批判的に読めないようでは歴史を語る資格なし)。
118ページ「不動前」
1923(大正12)年3月11日の目黒蒲田電鉄目黒線開業時に開設された。開業時の駅名は「目黒不動前」で、これは当駅から徒歩2分の距離にある目黒不動尊にちなんだものだった。
私の指摘
不動前駅から歩いて目黒不動尊に「2分」で行けるものなら行ってみなさい。私の感覚だと、門前から階段を登った先にあるお不動さんまででも2分じゃ厳しいと思うぞ。著者は駅から600メートル以上先にある門前まで2分というなら、時速18キロくらいは必要になるので、走ってならわからないでもない(阿呆笑)。
119ページ「洗足」
目黒蒲田電鉄が創業された当時、まず建設を目論んだのは大井町と多摩川台を結ぶ路線で、当駅から支線を分岐させて目黒に達する予定だったが、計画を変更して目黒線の建設が優先された。それで当駅付近の地価が高騰して用地買収が困難になったことから、分岐駅が大岡山に変更されたという経緯がある。当然当駅付近は高級住宅街として発展したが、早過ぎた地価の高騰のためか整備が進まず、東京を代表する高級住宅地の名は、後発の玉川台付近に譲られることになった。玉川台の一帯はのちに田園調布の名で知られるようになる。
私の指摘
わかってないね、本当に。まぁひどいデタラメに比べれば多少はマシ・・・ともいえぬか。まず、目黒蒲田電鉄が創業と言っている時点で、目黒~蒲田間が最優先だとなぜわからぬ(苦笑)。大井町からの第1期線は、田園都市株式会社の頃から優先度が下がっていたのであり、その結果が目黒蒲田電鉄の設立につながる。そして、おそらく東急50年史の読み取り誤りがここでも炸裂し、洗足地区の地価高騰は、最初の土地買収時(大正8年頃)にあった話で、高騰の理由は池上電気鉄道の計画話などがきっかけとなったものである。そして分岐駅が洗足駅から大岡山駅に変わった(戻った)のは、地価高騰というよりは人家密集したという方が大きく、鉄道建設前後の話をあたかも一つの話のように捉えている点が錯誤と言えよう(田園都市株式会社も目黒蒲田電鉄も行き当たりばったりの計画だったのだ)。で、編集さんが仕事をしていない証左である多摩川台と玉川台の入り混じり。さらに何をもって整備が進まずなのかもわからない。錯誤と混乱とデタラメが入り混じるひどい文章だ、これも。
119ページ「大岡山」
東京の都市圏が西に向かって一気に拡大するのは、1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生し、都市の再開発が行なわれたのちのことだ。当初は単なる中間駅として計画され、周辺に住宅地が開発される予定だった当駅は、目蒲線と大井町線の分岐駅が洗足でなく当駅に改められたことから、駅施設の拡充が続けられることになった。
私の指摘
再開発って意味わかってます? 農地等に家屋が散在するようなところが都市化するのを再開発とは言いませんね。そして、関東大震災にふれておきながら東京工業大学(当時、東京工業高等学校)の移転にふれないのも面白いですね。大岡山駅とその周辺の変化は、ほとんどすべて東工大の移転等に関わるものなので、これにふれていない時点でデタラメな論調だと直感的(苦笑)にわかる。
120ページ「奥沢」
今日の目にはさしたる起伏のない地域に思える世田谷も、区内のいたる所に地形に因んだ地名が多く残り、かつてはこの一帯が武蔵野台地の端に当たる部分として、丘や沢が数多くあったことが窺える。
私の指摘
まぁごめん、このレベルだから勘弁して。どこ見てるんだろうねぇ。数百メートルレベルの起伏でもあると思っているかな(馬鹿笑)。昨今流行りの微地形について語るつもりであれば、もう少し言い方はあるだろう。文字数余っていそうなところなのだから。
120ページ「田園調布」
今日の東急電鉄のルーツの1つとされる目黒蒲田電鉄は、「理想的な田園都市の開発」を目的として実業家・渋沢栄一らによって立ち上げられた田園都市株式会社の鉄道事業を引き継ぐかたちで、1922(大正11)年7月22日に創立された。その経緯から見ても、開発思想の中核となる今日の田園調布一帯の発展の過程は、東急電鉄の歩みと切り離すことができず、ここにいち早く駅を設置し、都市開発の拠点としたのが目黒蒲田電鉄だったことも、当然の成り行きだった。
私の指摘
待て待て待て~。何がここにいち早く駅を設置し、だよ。バカじゃないの。どうもこいつ(筆者)は鉄道会社が主流と見ているようで、その愚かな発想がこういった駄文を拡大生産し続けている要因の一つだと慮ることができそうだ。まだ、大正年間は目黒蒲田電鉄に主体性などなく、田園都市の計画に従い、鉄道敷設と駅設置を行っていただけなので、当然の成り行き云々ではなく、田園都市開発と一体的に行われただけのこと。そして、またしても7月22日の事象を9月2日のものと取り違えている。こういう間違いを筆者が犯すのも、当然の成り行きだった(失笑)。
121ページ「沼部」
当時の目蒲電気鉄道は同日に目黒と当駅の間を開通させており、すなわち目黒から当駅までが、かつて目黒と蒲田を結んでいた目蒲線の、ひいては現在の東急電鉄全線の中でも最古の駅ということになる。
私の指摘
もうちょっとうまく書けば、間違いにはならなかったのに。現在の東急電鉄全線の中でも最古の駅と言ってしまったら、玉川電気鉄道出自の三軒茶屋駅か、軌道を除くとしても池上電気鉄道出自の池上、蓮沼、蒲田の3駅の方が古い。そして、東急多摩川線の説明から再び目蒲電気鉄道という誤り表記が復活する。本当に筆者が同じなのか疑問が残る(コピペなんだろうねぇ)。
122ページ「大崎広小路」
駅名の「広小路」とは、大火による延焼を食い止めるために、とくに広く造られた道路のことを指す。江戸時代に発達し、東京ではここ大崎広小路とともに、上野広小路が有名だが、秋田、名古屋、京都などにも同様の目的で広小路が造られている。まだ消化技術が未熟だった時代の人々の知恵の賜物だ。
私の指摘
時代超越錯誤。バカバカ言って悪いが事実なので仕方がない。本当にこの筆者はバカだな。江戸時代の広小路の説明を昭和初期に当てるというこの浅慮。このバカにとっては、江戸時代も昭和戦前も同じ文明未開だという感覚なのだろう。文明未開なのは貴様の頭の中だと言っておく。ちなみに大崎広小路の広小路とは、現在の山手通りのことをいい、耕地整理事業と都市計画道路策定のタイミングが合ったので、当該部分を先行して広い道路とし、前後の道路幅員と比べて広かったため、俗称として大崎広小路(東京府荏原郡大崎町の広い道路)とされたに過ぎない。確かに、都市計画道路の幅員が広いのは(そして大火建築物を建てるよう義務付けられるようになるのは)、延焼防止の意味も大きいが、それを江戸期の広小路と結びつける説明が愚かなのだ。(一所懸命集めた少ない知識を無理やり接合させたような印象。)
123ページ「荏原中延」
このように戦前の都市の鉄道は小刻みな開業を繰り返しているが、それはとりもなおさず、鉄道という交通機関にかかる期待が大きく、鉄道事業者の側も住民の期待に応え、経営を磐石なものにしたいと考えていたことの現れなのだろう。駅名は、駅が荏原郡中延町に造られたことに因む。
私の指摘
さて、と。小刻みな開業を繰り返すのは戦前の都市の鉄道に限ったものではなく(東急電鉄で見ても田園都市線は小刻みですね)、池上電気鉄道の場合は、特に目黒蒲田電鉄(と東京横浜電鉄)と対抗していたため、東京横浜電鉄の渋谷~丸子多摩川間と池上電気鉄道の雪ヶ谷~桐ヶ谷間の開業日が、全く同じだという事実を見ても伺えるはず。つまり、途中開業だろうが何だろうが、開業日をぶつけることに意味があったのである。そして、荏原郡中延町ではなく、正しくは東京府荏原郡荏原町大字中延である。
123ページ「旗の台」
当駅が設けられた地点より、およそ200m蒲田寄りに2つの路線の交差点があり、戦後の1951(昭和26)年5月1日になって、この地点からおよそ150m二子玉川寄りに設けられていた「北千束」が移転してきた。そして両駅が統合されて、現行の駅名での営業を開始した。(中略)。このような経緯で生まれた駅であることから、両線のホームは連絡通路で直結されているが、乗換えの方面によっては階段を上下する必要があり、設計の古さを見ることができる。
私の指摘
何が設計の古さだよ(慇懃笑)。本書旧版における当方の指摘でも、旗の台駅が改良されてこのようなことは解消されていると指摘したが、「新しい」と称する本書でも古いまま。この本のいい加減さ、デタラメさは、ありとあらゆることに及ぶ。旗の台駅の改良工事って何年前に行われたの? 他記事にもきれいになって改良された旗の台駅を取り上げているのに、乗り換え不便時代の記述がそのまま残されている。そして、北千束駅が移転してきたというぶっ飛んだ記述。わかってんの? 本当に。大井町線の旗の台駅の項でもこんなことは書いてないよ。で、正しくは「東洗足」。方角も字も違う上、現行駅を潰してしまうかの内容は、デタラメを通り越しており、形容し難い。もはや、金返せレベル。
124ページ「石川台」
開業時の駅名は「石川」だった。これは駅周辺の字の名を採ったもので、1928(昭和3)年4月13日に現行の駅名へと改称された。駅の近くを流れる呑川(のみがわ)が、昔は石川と呼ばれていたことから、そのまま駅名にも採用されたが、「石川台」という地名は当地にはなく、あくまでもほかの路線の駅との混用を避け、駅周辺のイメージアップも図る方策としての駅名の採用だったのだろう。(中略)駅舎を格調高いデザインに仕上げることは、鉄道という交通機関をリスペクトし、駅を住民の心の拠り所としようとする人々の心が具現化されたものといえる。地方鉄道の小さな駅であれ、地方の中核となる巨大な駅であれ、その図式は今も変わらない。
私の指摘
まず、本書誤り定番の小字・大字の混同から。駅周辺の字の名という曖昧な表現だが、実は分かっていてもなかなかここは説明が難しい。筆者のいうように、「石川」とは現在の呑川(読みは「のみかわ」が正しい。わざわざ「のみがわ」と仮名振ったのが誤り)のこの一帯での呼び名であるが、駅開設時の東京府荏原郡池上村においては、大字石川と同村大字雪ヶ谷の小字に石川があり、駅の開設場所は後者なので、東京府荏原郡池上村大字雪ヶ谷字石川に由来するとなる。ただ、実際に何に由来するのかというのは、候補が多いだけに決めつけにくいのである。そして、これが石川台に改名されるのは、石川という駅名が他にあり、混同を避けるためという定番理由だが、「台」と付加されたのは石川堤(呑川沿の堤の通称)など、石川(呑川)から見た台地側と捉えていいだろう。そして引用後段の駅舎については完全な駄文で、単なる後付けの感想である。古いものが残る(所謂ヴィンテージもの)ことへの、現代からのノスタルジーを語り損なった滑り文だと認定しておく(どこかからのコピペがたまたま適切でないところに挿入された疑いも強いが)。
124ページ「雪が谷大塚」
1923(大正12)年5月4日に開業した「雪ヶ谷」駅と、1927(昭和2)年8月19日に開業した「調布大塚」駅が至近距離にあったため、両駅を統合する形で1933(昭和8)年6月1日に開業した駅だ。「雪ヶ谷」駅は現在の当駅よりおよそ100m五反田寄りにあったといい、「調布大塚」駅は現在の雪が谷検車区のあたりに設けられていた。池上電気鉄道は、1923(大正12)年5月4日に線路を池上から雪ヶ谷まで延伸したが、当初はいち早く五反田までの延伸を計画していたものの、建設予定地の土地所有者が高値を主張したことから買収が難航し、部分開業を繰り返しながら五反田を目指すことになった。池上~雪ヶ谷間には光明寺、末広、御嶽山の3駅が設置され、雪ヶ谷~御嶽山間には車庫も開設されている。
私の指摘
さて、何処から突っ込もうか。まず、雪が谷大塚(雪ヶ谷大塚)駅統合伝説は、既に当方が立証しているように完全な錯誤というか誤りである。これは「東急50年史」がこのイカサマ伝説を正史として紹介してしまっているため、数多の書籍がこれを引用しており、50年史発行から40年以上を経た今でも嘘が継承されてしまっている。東急電鉄には、100年史編纂にあたり、しっかり対応いただきたいものだ。で、正しくは、調布大塚駅廃止後、雪ヶ谷駅が線路の曲線変更(緩和)等に伴い、現在地に移動後、1943(昭和18)年になって雪ヶ谷を雪ヶ谷大塚に改名(単に改名のみで駅位置等の変更はない)という流れであり、統合もしていなければ1933(昭和8)年の改名事実もなく、駅位置移動はさらにその後である。誤りの多い「東急50年史」の罪は重いが、この筆者なので引用(コピペ)すらまともに行えていないのは仕方がない。さらに思い込みと思われる筆者の錯誤は、五反田駅までの延伸を当たり前のように捉えているようだが、雪ヶ谷駅で延伸工事を止めざるを得なかったのは、目黒蒲田電鉄が起終点を同じにしたためで、当時は五反田駅ではなく目黒駅に接続予定であった。「当初はいち早く五反田までの延伸を計画」ではない。雪ヶ谷駅まで開通させて3年近くを要し、ようやく接続先を目黒駅から五反田駅に変えた(許認可を取り直した)のである。さらに建設予定地の云々については、おそらく池上から先の話だと思うが、高値を主張ではなく池上村の反対運動に遭ったためである(農業が継続できなくなるので反対という趣旨)。このため、路線計画を池上から北上して洗足池池畔を通る計画を半円状に調布村と池上村の境界を縫うような計画に変更せざるを得ず、結果、途中駅が光明寺、末広、御嶽山前となったのだ。
124ページ「御嶽山」
開業時の駅名は「御嶽山前」だった。1933(昭和8)年6月1日に現行の駅名に改称されている。駅名は、駅の西側徒歩3分の距離にある「御嶽神社」に因んだものとされ、(以下略)。
私の指摘
徒歩3分。地元の方、そんなにかかります? 無論、徒歩というのは個人差があるので、単純には言えないものの、いわゆる不動産表記上の1分80メートル(時速4.8km/h)を標準とするなら、2分とかからない(御嶽山駅下りホームで最も改札から遠い場所から測っても)。先に述べた不動前駅のところでは、駅から目黒不動尊まで2分としたこの筆者だが、どう見ても御嶽山駅から御嶽神社の方が距離が圧倒的に短い。どうせ何処かの風評から適当に持ってきただけだろうが、そういういい加減さはこれまで見てきたように枚挙に暇がないので、今更驚くには当たらない(愚笑)。
125ページ「千鳥町」
新しい駅名となった「千鳥町」は、この町が1932(昭和7)年に旧来の「東調布町」から分かれた時に生まれたという。
私の指摘
旧版と同じ誤りが繰り返されている(元凶は東急50年史)。東調布町とは、東京府荏原郡東調布町、つまり市制町村制に置ける「町」、つまり自治体名である。一方、千鳥町の由来である調布千鳥町(ちょうふちどりまちといい、ちどりちょうとは読まない)は、区市町村に属する「町」であって自治体名ではない。よって、分かれて生まれたというものではなく「町」という同じ漢字から勝手な連想による錯誤である。なお、引用しないが、光明寺駅と当駅との関係や前身を慶大グラウンド前駅とするなど、旧版より改められたところは数少ないがよかったと言えるところである。
125ページ「蓮沼」
駅名に採られた「蓮沼」という地名は、この地に蓮が生えた沼があったことから生まれた字の名だ。明治までは蓮沼村を名乗る田園地帯だったが、明治末期からは多摩川沿岸の干拓が行われて広大な平坦地が生まれ、これが現在の蒲田一帯の都市化を促す形となった。(中略)1927(昭和2)年7月25日には、池上線の線路が雪ヶ谷まで複線となったことで相対式ホームが設けられ、構内踏切も設置された。
私の指摘
間違いとまでは言わないが、地名の由来に「この地に蓮が生えた沼があったことから」なんて根拠があるようでないものをわざわざ持ち出すまでもない。それよりも気になるのは、「明治末期からは多摩川沿岸の干拓が行われて広大な平坦地が生まれ、これが現在の蒲田一帯の都市化を促す形となった」とあるところで、これは一体どこから引用(コピペ)したのかという疑義である。確かに明治後期の多摩川氾濫によって、洪水被害を抑止するための河川改修工事が行われ、その後、東京府と神奈川県の境界変更まで進んだが、その過程で干拓のようなことが行われたものの、それは多摩川沿岸であって蒲田一帯ではない。明治初期の地図からもわかるが、蓮沼村はこの頃既に干拓を行う必要もないほどであって、田園地帯の中に集落が点在していた。そして、1927(昭和2)年7月25日に複線化したとあるが、これも典拠を確認したいものである(東京横浜電鉄沿革史以外で)。複線工事の完了を指すのか、蓮沼駅のホームが相対化した時期を指すのか、それとも複線として営業運転を開始した時期を指すのか。史料によれば、複線の営業運転開始日は1927(昭和2)年7月28日であるので、その3日前は何を指すのか、疑義を呈しておく。
126ページ「蒲田」
池上電気鉄道の蒲田駅は、当初は国有鉄道の蒲田駅、目黒蒲田電鉄の蒲田駅とは直角方向にホームが設けられていたが、1945(昭和20)年4月に駅が戦災によって消失したのを機に改良工事が行なわれ、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の線路が並行する線形に改められた。
私の指摘
確かに当初は記述通りであるが、1927(昭和2)年に複線化した際、線路を北側に伸ばし、省線と目黒蒲田電鉄に並列になるよう駅位置が移動している。さらに1940(昭和15)年になって、再び2面2線で省線と直角方向になった。また、1945(昭和20)年のタイミングでありながら、目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の名が出てくるのもいただけない。当時、既に東京急行電鉄を名乗っているのだから、目蒲線、池上線と称した方がいいだろう。
以上。随分と長くなってしまったが、中盤あたりからあまりに錯誤や間違い、引用(コピペ)ミスとしか思えない箇所が多過ぎて、重大なものだけ取り上げたつもりだが、それでもこうなってしまった。なお、本書全体がこのような劣悪なレベルかは何とも言えない。鉄道技術等に係る箇所は真っ当なもの、素晴らしいものかもしれない。ただ、駅の歴史を語るものは、以上のとおりあまりに酷いもので、はっきり言えば店頭回収レベルである。そして、これまで何回かふれたように、本書の編集は機能しているのかという疑義を抱かざるを得ないほど、表記の不統一なども目立つ。単なるBlog記事などであれば、それはそれで個性だとなるので一向に構わないが、奥付を見れば一応、編集が存在しているようなので、出版社はしっかりした方がいいぞと指摘しておく。
最近のコメント