さて、前回予告どおり、一昨日(16日)購入した「トラベルMOOK 東急電鉄の世界」の誤り・問題点を列挙し、それを糺していくことにしたい。なお、お断りとして本書の半分程度を占める鉄道車両等に関する点については、完全なる門外漢なのでいっさい指摘していない(というか、できるレベルにない)。指摘するのは専ら、駅のプロフィールにかかわる部分で歴史などにふれている点である。
なお、本書の著者は引用文献を示していないので、いかなる文献を参考にしたか不明だが、かなりの歴史音痴だと感ずる。誤った文献からの無批判引用ばかりか、おそらく正しい文献からの引用であっても的確に理解できず、無知による誤謬が散見される。それは、史料批判を行っていない云々ではなく、史料(資料)を読むための前提知識が欠如しているため、勘違いというより根本的に誤ってしまうとしか思えない表現が多々見られることからも伺うことができる。私の承知している知識は限定的なものでしかないので、おそらく以下にあげた以外でも多数誤りはあるに違いない。
能書きはこのくらいにして、本書62ページから展開する“全駅プロフィール「駅のツボ」”というコーナーについて見ていこう。
68ページ「自由が丘」
多くの人から憧れられている華やかな名前は、昭和初期に活躍した舞踏家、石井漠(いしいばく 1886-1962)が、この地に自由ヶ丘舞踏研究所を開設し、さらにその後、手塚岸衛が自由ヶ丘学園を創設したことに由来する。
これを読むと、まず自由ヶ丘舞踏研究所があって自由ヶ丘学園がそれに続くと読めるが、地元の方がご覧になったらひっくり返ることだろう(苦笑)。事実はまったく逆で、自由ヶ丘学園が先であり自由ヶ丘舞踏研究所が後である。また、正式には自由ヶ丘舞踏研究所という名称ではなく、石井漠舞踏研究所の通称名が自由ヶ丘舞踏研究所である。
学校(学園)名に自由という語を採用したのは、当時流行していた「自由主義教育」という概念・考え方を採用したもので、手塚岸衛のみならず、他でも自由学園という名が採用された学校がある。つまり、自由主義教育の自由から学校(学園)名が採用され、それが駅名に転じ、地名(大字名、町名)となっていったのである。とはいえ、石井漠が自由ヶ丘という駅名にまったく関与していなかったわけではなく、衾と予定されていた駅名を自由ヶ丘に改称させた運動の先鋒であったことは疑いない事実である。
著者は何を以て石井漠舞踏研究所が自由ヶ丘の元祖と思ったのだろう。引用文献が誤っていたのか、それとも資料解釈を誤ったのか。
68ページ「田園調布」
「調」とは税を意味し、税として収められる布が作られていたというのが地名の由来。さらに大正から昭和初期にかけて渋沢栄一が提唱した田園都市構想に沿った町づくり推進に合わせて「田園」の名が冠せられるようになった。
「調布」の説明であるが、調布村という名称が明治中期に誕生し、それ以前ではまったく地名として採用されてこなかった歴史を踏まえれば、ここで「調布」という語の意味をあげることは無価値である。なぜ、いきなり明治中期になって調布という語が村名に採用されたかが、その語自体の意味より価値があるだろう。あるいは、他の項目(例えば日吉駅の項)のように、駅名は駅所在地の調布村の名前に由来する。でいいのではないか。
そして調布に田園が冠せられるようになったのは、駅名が先ではなく調布村の区名として田園調布が採用されたものが先行する。調布村が区制を敷いた際、他の区名は大字名をそのまま区名としたが、田園都市分譲地のエリアは新興住民エリアとして他地区とは区別され、この時、田園都市の調布ということで田園調布としたのである。
69ページ「新丸子」
開業時の駅所在地の地名は上丸子であったが、目蒲線の丸子駅との混同を避けるために、新丸子を名乗って開業した駅。
東京横浜電鉄の新丸子駅開業は大正15年(1926年)で、既に目黒蒲田電鉄線の武蔵丸子駅は沼部駅と改称。健在だったのは下丸子駅のみである。よって、丸子駅との混同とはいいにくい、というかならない。
75ページ「横浜」
横浜という地名は、すでに江戸時代の文献には現れているというが、明治の開港以前は、寒々とした一漁村に過ぎなかったという。
横浜港は、安政5年(1858)年の日米修好通商条約によって開港したので、明治の開港以前という表現は不適切。実際、山下町付近は明治より以前に外国人居留地として成立しており、一寒村という状況では既になかった。
76ページ「池尻大橋」
新玉川線は渋谷と二子玉川を連絡することで都心と田園都市線を直結するバイパスとして建設された、比較的新しい路線である。現在は全線が地下を走るが、かつて存在していた東急玉川線の代替路線という意味合いもある。
これは誤りではないが、今日的視点からの見方が強い印象を受ける。というのは「都心と田園都市線を直結するバイパス」というのは結果論であって、本来的意義は「東急玉川線の代替路線」あるいは銀座線の延長線といった方が適切。
76ページ「三軒茶屋」
この街道の上に三軒の茶屋があったということが、地名の由来。
かなり細かいが、街道の上に、という表現はいまいち。街道に面するなど他の表現があるだろう。あまりに地下鉄視点という印象を受ける。
89ページ「武蔵小山」
駅のある一帯は高台となっており、遠い昔には江戸湾まで見渡すこともできたという。
実際に武蔵小山駅付近をご存じの方であれば、ここを高台だとはとても思えないだろう。確かに武蔵国風土記等には「江戸湾まで見渡す」という表現もあるのだが、いうまでもなくこれは小山八幡の高台を指す。つまり、小山村の説明を武蔵小山駅付近も同様だという錯覚からの勘違いで、武蔵小山駅は小山村の端っこにあり、このあたりは今も変わらず平坦地形である。とてもではないが崖地で高台でもない限り、見通しの利いた江戸期においてもここから江戸湾を見通せたとは考えにくい。
90ページ「謎の大踏切(環状8号線)複線分用地」
奥沢を発車した下り電車が左へ大きくカーブして、奥沢2号踏切を越えた地点より、進行左手に複線分位の空地が通称大踏切まで並行する。(中略) 現場が消えたいまでも不思議に思う。
これは誤りなどではなく、私も解決できていない問題なのであえてあげてみた次第。航空(空中)写真には、昭和8年(1933年)撮影のもの、都市計画図においては昭和4年(1929年)時点から、その存在は確認されている。単なる空き用地に過ぎないのか、重要な意味を持つものかはわからないが、長年東急電鉄にお勤めだった方にもわからないというが…。
92ページ「沼部」
沼部とは調布村の字名であるという。
正確に言えば、調布村の大字名に上沼部、下沼部があった。
93ページ「下丸子」
1938(昭和13)年からは蒲田発の区間列車が設定され、当駅で折り返し運転が実施されていたというが、戦前は、まだ人口が都市部にのみ集中していたことを示すエピソードといえそうだ。
下丸子駅までの区間列車は、東京市蒲田区下丸子町に進出した三菱重工、東京無線、北辰電気、富士航空、白洋舎、日本精工などの大工場が次々建設される中、通勤客の輸送需要に応えるためである。著者の歴史音痴(無知)もここまでひどいかと驚かされる表現だ。
95ページ「蒲田」
池上電鉄の駅は国鉄線にほぼ直角の角度でホームを設け、これに遅れた目蒲電鉄は、線路を迂回させる形で、国鉄線と池上電鉄の間にホームを設けている。
表現に問題はないが、そもそも蒲田駅への接続は池上電鉄よりも目蒲電鉄の方が先願権を有していた。つまり、武蔵電気鉄道の免許を譲渡された目蒲電鉄の方が先だったため、池上電鉄は蒲田駅に直接接続できなかったのである。このため、目蒲電鉄は池上電鉄と省線蒲田駅との間に入り込むことができた(直接接続できた)のだった。
だいぶ長くなってきた。お楽しみの池上線などを含め、次回に続く。
武蔵小山
一つ先の西小山から洗足方面に行くと江戸見坂という坂があり、かなり急勾配です。第二延山小学校の同級生が多く住んでいて、よくその付近で遊んだことを思い出しました。多分これと混同したのでしょう。
下丸子
一時東横線の武蔵小杉の近所に工業都市という駅がありましたが、下丸子には友人が住んでいてよく遊びに行きましたが、駅を降りた瞬間からそのムードは工業都市そのものであり、品鶴線の多摩川から枝分かれした引き込み線が三菱重工まで土手の上を走っており戦車など運んでいました。
次回を楽しみにしています。
環八手前の空き地
東急の役員をしていた義兄の話によると雪谷からの奥沢線を田園調布駅に繋げるために池上電鉄が購入したが後にこの計画は池上電鉄が合併されてこの線も廃止になり、そのままになっていたとのことです。後に環八の立体交差の工事のときに、線路を移すのに役立ったのも皮肉なものですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/03/18 10:05
環八手前の空地
これは大井町線との立体交差化のため、東横線の線路嵩上工事に不足する盛土用の土砂を確保した「空堀」の跡になります。詳細は故大谷修二著「奥沢物語」p69-71に、図と共に記載されています。これの長さは約150m(南北方向)、幅約10m(東西方向)、深さは最深で約8m(環八踏切付近で)あったそうです。
これができたのは、地平線だった自由が丘駅(当時の九品仏駅)を長さ520m、高さ5.79mの規模で立体化するためでした。この工事は渋谷方向の中根峠(立源寺付近)から、仏山(八幡小学校前)にかけて実施されました。まずは九品仏川(丑川)と呑川の川底を掘下げた土砂を使用し、次いで代官山トンネル(渋谷隧道)の開削土砂を使用しました。それでも不足する土砂を確保するために、この空堀ができたということです。これが環八との立体交差工事で役立ったのですから、東急の先見性にはスゴいものがあります。
ちなみに渋谷隧道は開削工法で、地上から掘下げた後、トンネルとして埋め戻したそうです。その際の余剰土砂をトラックで運んで使用したと言いますから、東急というか五島慶太氏の合理性を窺い知る事ができます。これは後年、九品仏浄真寺裏の池を、東急文化会館の地下工事で出た土砂で埋め、宅地として分譲販売した手腕に通ずるものがあります。
いつも素晴らしいブログをありがとうございます。また今後とも楽しみにしておりますので、よろしくお願い致します。
投稿情報: Oh!Sam | 2017/09/14 18:29
コメントいただきどうもありがとうございます。そして、コメントを10日ほど放置していて申し訳ございませんでした。
なるほど、地上だった東横線を高架化する際の土砂掘削後だったとは。九品仏池のあたりも仰せの通り、合理的な判断で行われていたわけですね。
耕地整理の際に生まれた土砂の行方は、様々なところで様々な方法がとられていますが、例えば洗足池にある弁天島も耕地整理時の残土によって造られたものとか。
さてさて、現在ほぼ死んでいる当Blogですが、ここ数年の多忙を言い訳にして更新せずにいますが、だいぶネタだけはたまってきているので放出するタイミングを見計らっています。どうせ、鮮度など関係ない内容なのでと言いつつ、人生は限られているので。
投稿情報: XWIN II | 2017/09/24 08:25