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2013/03/18

コメント

武蔵小山
一つ先の西小山から洗足方面に行くと江戸見坂という坂があり、かなり急勾配です。第二延山小学校の同級生が多く住んでいて、よくその付近で遊んだことを思い出しました。多分これと混同したのでしょう。
下丸子
一時東横線の武蔵小杉の近所に工業都市という駅がありましたが、下丸子には友人が住んでいてよく遊びに行きましたが、駅を降りた瞬間からそのムードは工業都市そのものであり、品鶴線の多摩川から枝分かれした引き込み線が三菱重工まで土手の上を走っており戦車など運んでいました。
次回を楽しみにしています。
環八手前の空き地
東急の役員をしていた義兄の話によると雪谷からの奥沢線を田園調布駅に繋げるために池上電鉄が購入したが後にこの計画は池上電鉄が合併されてこの線も廃止になり、そのままになっていたとのことです。後に環八の立体交差の工事のときに、線路を移すのに役立ったのも皮肉なものですね。

環八手前の空地
これは大井町線との立体交差化のため、東横線の線路嵩上工事に不足する盛土用の土砂を確保した「空堀」の跡になります。詳細は故大谷修二著「奥沢物語」p69-71に、図と共に記載されています。これの長さは約150m(南北方向)、幅約10m(東西方向)、深さは最深で約8m(環八踏切付近で)あったそうです。
これができたのは、地平線だった自由が丘駅(当時の九品仏駅)を長さ520m、高さ5.79mの規模で立体化するためでした。この工事は渋谷方向の中根峠(立源寺付近)から、仏山(八幡小学校前)にかけて実施されました。まずは九品仏川(丑川)と呑川の川底を掘下げた土砂を使用し、次いで代官山トンネル(渋谷隧道)の開削土砂を使用しました。それでも不足する土砂を確保するために、この空堀ができたということです。これが環八との立体交差工事で役立ったのですから、東急の先見性にはスゴいものがあります。
ちなみに渋谷隧道は開削工法で、地上から掘下げた後、トンネルとして埋め戻したそうです。その際の余剰土砂をトラックで運んで使用したと言いますから、東急というか五島慶太氏の合理性を窺い知る事ができます。これは後年、九品仏浄真寺裏の池を、東急文化会館の地下工事で出た土砂で埋め、宅地として分譲販売した手腕に通ずるものがあります。
いつも素晴らしいブログをありがとうございます。また今後とも楽しみにしておりますので、よろしくお願い致します。

コメントいただきどうもありがとうございます。そして、コメントを10日ほど放置していて申し訳ございませんでした。
なるほど、地上だった東横線を高架化する際の土砂掘削後だったとは。九品仏池のあたりも仰せの通り、合理的な判断で行われていたわけですね。
耕地整理の際に生まれた土砂の行方は、様々なところで様々な方法がとられていますが、例えば洗足池にある弁天島も耕地整理時の残土によって造られたものとか。

さてさて、現在ほぼ死んでいる当Blogですが、ここ数年の多忙を言い訳にして更新せずにいますが、だいぶネタだけはたまってきているので放出するタイミングを見計らっています。どうせ、鮮度など関係ない内容なのでと言いつつ、人生は限られているので。

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