前回に引き続き、今回も「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに話を進める。今回は、池上電気鉄道の終生のライバル目黒蒲田電鉄に係わる箇所を抜粋し、前回同様にあれこれ語っていく。では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」97~100ページの「目黒蒲田電鉄株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。
創立………………大正十一年九月
開業………………同十二年三月
資本金(公称)…一千百万円
資本金(払込)…五百六十万円
営業線亘長………八哩十九鎖
軌間………………三呎六吋
車輌ボギー車……三十一輌
車輌 貨車………二十四輛
運輸従業員………三百二十四名
兼業………………電力供給
(昭和二年五月末日現在)当社の営業線は省線目黒駅を起点とし、荏原、碑衾、調布等の町村を迂回し省線蒲田駅に至る八哩十九鎖にして全線東京都市計画区域内に存する。当社は、大正十一年九月の創立で、翌十二年三月に目黒、武蔵丸子(現今の沼部、大正十五、一改称)間五哩十五鎖を先ず開業し、次て同年十一月武蔵丸子、蒲田間三哩四鎖を竣工しここに目黒、蒲田間の全通を見たのである。斯くの如く当社は創業以来日尚浅く、開業当初は沿線の開発策として専ら田園都市の経営に尽瘁して居った程であるが、開通後間も無く偶大震火災に遭遇し、其の結果沿線町村の人口が急激に増加し、従って乗客亦頗に多きを加うるに至ったので、爾来著しき進展を示した。尚又大正十五年二月には、当社の姉妹会社たる東京横浜電鉄株式会社(注一)の丸子多摩川、神奈川間九哩二分が開通して目黒、神奈川間の直通連帯運転を開始した為一層乗客を増加するに至った。(注二)
今之を次表に就き一瞥するに、開業の当年度には乗客は一日平均一万人に満たぬ状態であったが、大正十三年度には二万四千人、同十四年度には三万八千人、而して同十五年度には五万人と比年躍進的激増を示して居る。因に大正十五年度の乗客賃金収入は一日平均二千八百三十円九十八銭である。
又資本金の如きも設立時は三百五十万円に過ぎなかったが、開業の翌年には早くも六百万円に増資し、大正十五年七月に至り再び増資を行い一千百万円とした。
次に当社の新設予定線は予て工事中の大井町線(幹線大岡山、省線大井町駅間)二哩三十八鎖が昭和二年七月上旬に竣工開通したので差当り既定のものはないが目下出願中に属する二線がある。其の一は大井町線の中間から分岐して当社線の武蔵新田駅に至る三哩、他は当社線の武蔵新田駅より分岐して玉川電鉄の二子駅に至る二哩半である。更に当社は近く前記東京横浜電鉄会社と合併すべく伝えられているが、後者は計画線として現在左の各線を有して居る。
(次表略。)注一 東京横浜電鉄株式会社は明治四十三年六月資本金三百五十万円を以て創立した武蔵電気鉄道株式会社を前身とし、線路敷設に至らずして大正十三年十月目黒蒲田電鉄関係者に事実上買収せられ、資本金を五百万円に増資すると同時に社名を現在のものに変更したのである。営業路線については本文に於て記した。
注二 東京横浜電鉄の開通後は目黒、神奈川間が事実上の本線となり蒲田行きは丸子多摩川で乗換を要することとなった。東京横浜電鉄計画線(昭和二年七月一日現在)
区間
渋谷────────祐天寺 一哩五〇鎖
祐天寺───────多摩川 三哩五七鎖
渋谷町(広尾)───麻布二ノ橋 〇哩七三鎖
渋谷町(広尾)───祐天寺 一哩六五鎖
渋谷町(中渋谷)──淀橋町 二哩六六鎖
玉川電気鉄道交叉箇所 〇哩一八鎖
神奈川───────高島町 〇哩四三鎖
計 一一哩五二鎖
備考 渋谷、祐天寺間及祐天寺、多摩川間は予て工事中であったが、昭和二年八月下旬に開通した。
長い引用となったが、池上電気鉄道とは羽振りの良さが全然違うことに驚かされる。乗客数と運賃(賃金)収入の差も、大正十五年度で比較すれば、
- 池上電気鉄道…… 3,516人 ・ 170.75円
- 目黒蒲田電鉄……50,000人 ・ 2,830.98円
と、どちらも15倍以上の開きがあり、全く勝負にならないことがわかる。
さて、本文中の興味深い点としては田園都市に関してのところで、東京市の見立てでは田園都市の経営は鉄道業の副業的な扱いとされている部分だ。歴史的には、田園都市株式会社の鉄道部門として成立した目黒蒲田電鉄であるが、わずか創立5年ほどで目黒~蒲田間、大井町~大岡山間、そして東京横浜電鉄の渋谷~神奈川間を開通させ、飛躍的な発展を遂げたことから、既に外部の目からも目黒蒲田電鉄の副業が田園都市だという認識に映ったのだろう。主客転倒とはまさにこのことである。さらに、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄の合併話も出ているが、実際に合併したのは本書が著されてから10年以上を経てからであり、いかに五島慶太といえども両社の合併に苦労したかもうかがえよう。本文から明らかだが、東京市は東京横浜電鉄を目黒蒲田電鉄と一体とみなしており、小さな池上電気鉄道でさえ独立した記事があるにもかかわらず、東京横浜電鉄の記事がない。
そして、やはり目黒蒲田電鉄及び田園都市の発展は「開通後間も無く偶大震火災に遭遇し、其の結果沿線町村の人口が急激に増加し、従って乗客亦頗に多きを加うるに至った」とあるように、同時代の見解としても関東大震災による沿線人口激増が最大の理由だということである。歴史に「if」はないが、東日本大震災も大きな影響を与えているのと同様、関東大震災もまたしかりということで、もし関東大震災がなかったとしたら、あるいは数年単位で遅れて発生していたとしたら…。
では、前回同様、最後に本書掲載の「目黒蒲田電鉄営業路線図 附 東京横浜電鉄計画線(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。
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