このシリーズ、ずいぶん間を開けてしまいました。二週間半近く開けたことになりますか。前回(その13)と前々回(その12)と、さらにその前回(その11)は、ほとんど池上電気鉄道の話から離れて、目黒蒲田電鉄二子玉川線(奥沢~瀬田河原)が当初計画から、接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更した理由などを考察してきたが、今回は横道から戻って、いよいよ池上電気鉄道がいわゆる新奥沢線(奥沢線、調布線・国分寺線)建設に向けての話を進めていく。
わざわざ大きく横道に逸れて、二子玉川線計画変更の話を取り上げたのは、これが池上電気鉄道調布線・国分寺線計画と競合するからで、この背景を知ればこれからの話がさらに理解が深まると考えたからである。では、以前にも示したが、昭和3年(1928年)下半期の年表を掲げ、どのように両線(両社)の戦いが繰り広げられたかを確認しよう。
- 昭和3年(1928年)7月18日、池上電気鉄道、鉄道大臣に「調布線工事一部施行ニ付上申書」を提出。
- 昭和3年(1928年)8月29日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線(大岡山駅~瀬田河原間)の工事施行認可。
- 昭和3年(1928年)9月1日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~奥沢間、工事施行認可。
- 昭和3年(1928年)9月6日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線建設工事着手。
- 昭和3年(1928年)10月5日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~新奥沢駅間、開業。
昭和3年(1928年)上半期は、目黒蒲田電鉄二子玉川線の計画変更が地元住民(地主ら)からの陳情攻勢を受け、なかなか計画が進まなかったわけだが、池上電気鉄道は別の面で計画が進まなかった。それを確認できるのが、昭和3年(1928年)7月18日に鉄道大臣宛に提出された「調布線工事一部施行ニ付上申書」である。では、その全文を掲げよう。
調布線工事一部施行ニ付上申書
本年三月二十三日付池発第四八号ヲ以テ雪ヶ谷、奥沢間一部工事施行申請仕候処該路線ニ関シテハ目蒲電鉄線奥沢附近ニ於ケル弊社線トノ交叉関係未タ決定セサルノミナラス府県道第一〇六号トノ交叉関係モ亦決定難致事情等ニヨリ不取敢右道路ヲ横断セサルケ所ニ止メ工事施行致度特別ノ御詮議ヲ以テ御認可被成下度此段上申仕候也
昭和三年七月十八日
池上電気鉄道株式会社 取締役社長 男爵 中島久万吉
鉄道大臣 小川平吉 殿
これは、工事施行認可申請を出したものの、なかなか許可がおりなかった理由が明記されている。一つ目が
「目蒲電鉄線奥沢附近ニ於ケル弊社線トノ交叉関係未タ決定セサル」
とあり、目黒蒲田電鉄との協議がまったく整っていないこと。最終的にこれが致命傷となるのだが、この頃はまだ、池上電気鉄道が大きな危機感を持つまでには至っていなかったと思われる。そしてもう一つが、
「府県道第一〇六号トノ交叉関係モ亦決定難致事情」
ということで、「府県道第一〇六号」との交叉も決定致し難き事情とし、
「不取敢右道路ヲ横断セサルケ所ニ止メ工事施行致度」
と、「府県道第一〇六号」を横断する手前でとどめ、工事施行認可申請を許可してほしいと訴えている。つまり、目黒蒲田電鉄との交叉箇所を決められないのみならず、その手前の「府県道第一〇六号」すら越える工事もままならない旨、その手前で許可してほしいというのである。何とも虫がよすぎる話であるが、それほどまでに池上電気鉄道が工事を急いでいたのは、二子玉川線に先んじたいという理由にほかならない。なお、「府県道第一〇六号」とは、現在の東京都世田谷区奥沢と同区東玉川の境界を走る環八通りと中原街道を結ぶ道路のことをいい、まさに新奥沢駅の場所こそが「府県道第一〇六号」の手前にほかならないのであった。
この上申書による池上電気鉄道の願いは聞き届けられ、昭和3年(1928年)9月1日、ついに工事施行認可申請は許可される。
監第二七五三号
池上電気鉄道株式会社
昭和三年三月二十三日附池発第四八号申請雪ヶ谷起点、同一哩一鎖五十節間工事施行ノ件認可ス
本工事ハ昭和三年十一月三十日迄ニ著手シ昭和四年五月三十一日迄ニ竣功スヘシ
昭和三年九月一日
鉄道大臣 小川平吉
ご覧のとおり、調布線・国分寺線計画は「雪ヶ谷起点、同一哩一鎖五十節間」に縮められ、この区間に限って工事施工が許可されたのである。だが、目黒蒲田電鉄はこの3日前の8月29日に二子玉川線の工事施行認可を受けていた。この時点で、再び目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道にわずか3日であるが、リードを得たのである。
とはいえ、池上電気鉄道はわずかに1マイル1チェーン程(約1.6km)、目黒蒲田電鉄は大岡山駅~二子玉川間(約4km超)という工事施行区間長の違いや、池上電気鉄道は幹線道路である中原街道を立体交叉ではなく平面交叉で施工することは認められたことから、わずかに1か月程で雪ヶ谷駅~新奥沢駅間の鉄道敷設工事を完了し、工事施行認可を受けてから実に34日という短期日のうちに開業の日を迎えたのである。これだけ迅速に認可から開業まで実行できたのは、池上電気鉄道の歴史の中で後にも先にも本例しかないので、それだけこの新規線に活路を見出そうとしたことが伺えるというものだろう。
ここで、奥沢線(池上電気鉄道の開業後の正式名。通称としては新奥沢線とも呼ばれる)の概要を免許申請関連書類(図書)や当時の地図資料などから見ていこう。
奥沢線の駅は、本線から分岐する雪ヶ谷駅と、暫定的な終点である新奥沢駅と、その唯一の中間駅となる諏訪分駅の3駅でスタートした。このうち、暫定的な終点である新奥沢駅は計画の最も遅い時期に決まったもので、目黒蒲田電鉄線との交叉部分に駅が開設できていればこの駅は存在しなかった。また、諏訪分駅については、先にふれたように池上電気鉄道が当地に鉄道用地を入手できたのは諏訪分工区の協力あってこそなので、この地に駅ができることは用地買収の話が出た頃には決まっていた。仮駅名は「調布玉川」という何とも挑戦的な名称だったが、地元の意向を受けて字名でもあり工区名でもあった「諏訪分」とした。雪ヶ谷駅については、中原街道との平面交叉や諏訪分工区を通過すること等から、既存の駅位置では施工等が困難という理由により、五反田駅方向に約200メートルほど移動することになった(雪ヶ谷駅異動の話は、巷間には関田説が流布されているが、これは誤りであることを当blogの過去記事「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」で証明済)。
この中の資料群のうち、疑義を差し挟みたくなるのは、上に示した移転後の雪ヶ谷駅の図面である(なお、この図面に示される道路は池上西部耕地整理組合による耕地整理前のものであって、現在の道路パターンとは異なる点に注意が必要)。ご覧のように、3面ホームと4線(複々線)で構成される立派な駅であり、開業時の1面ホームと行き止まりの単線のみだった頃と比べると隔世の感がある。だが、果たしてこの図面どおりに完成したのかは、他の資料から判断がつきかねる。のちに「池上町史」に雪ヶ谷駅の写真が掲載されており、これを見る限りにおいてはこの図面どおりとなっていないが、これは池上電気鉄道が鉄道省に対し、仮設備(本来の設備ではない形での運用をこういう)としての使用許可申請を出して認められていることから、これはこれでいいのだが、問題は最初からこうだったのか、そうでないのかという点にある。
この写真は、雪ヶ谷駅を五反田駅方向に見て撮影(昭和7年(1932年)頃)されたもので、左側に分岐するのが奥沢線、右側にある直線の複線が本線(蒲田駅方向)となっている。この後にふれていくが、雪ヶ谷駅は仮設備への移行を何度か申請しているので、旅客運輸の増加する本線とまったく閑散とした奥沢線を複々線として存置するのは得策でないため、申請図面から写真までの間に異動があったのは確かだろう。しかし、本当に3面4線だったのかを申請図面からだけで判断するのはいかがなものかとして、他に証拠が見つかるまでの間は保留としておきたい。
こちらの図面は唯一の途中駅となる調布玉川駅(開通時は諏訪分駅)のものである。池上電気鉄道伝統の相対式ホームとなっている。これは開業時においても、ほぼこの図面どおりだったと思われる。
最後は、新奥沢駅の図面を示す。駅右側にある道路が、当時の府道106号線で拡幅予定線も描かれている。奥沢線がここで止めざるを得なかった理由が、この府道106号線と立体交叉をしなければならないと条件付けされたことが、ここで止まる大きな理由であった。もっとも、さらに大きな問題は目黒蒲田電鉄線との立体交叉で、これをどの場所において、そして工法が高架化か地下化によってかが決まらなければ、府道106号線の立体交叉の方法も異なることとなるのは自明である。もし、目黒蒲田電鉄線を高架で乗り越えるようにするのであれば、府道106号線の手前から盛土するなどしてこれを乗り越え、さらにそのまま高架で目黒蒲田電鉄線を乗り換えるようになる。一方、目黒蒲田電鉄線をくぐるようにするのであれば、府道106号線の下を掘らなければ上がったり下がったりと勾配の点から不利となる。そして、目黒蒲田電鉄線のどこと立体交叉を行うかという場所も決まらなければ、どのようにして府道106号と立体交叉させるのかという問題以上に、どこに高架線(あるいは地下・掘割線)を造るのかということも決まらない。
これらのことから、府道106号線との立体交叉が奥沢線にとっての致命傷だと言うことがわかるだろう。もし、これとの立体交叉がなければ、さらに目黒蒲田電鉄線に近づけることは可能だったはずだが(一部用地買収済みだったので)、目黒蒲田電鉄線との交叉場所・方法が協議できていなかったこともあって、事実上(工事施工法上)府道106号線の手前で止められてしまったのだった。
新奥沢駅の構造が分岐駅の雪ヶ谷駅に劣るのはともかくとして、途中駅の諏訪分駅(図面では調布玉川駅)にも劣るのは、府道106号線との立体交叉が完成する暁には、この駅設備は存在しなくなる(壊してしまう)からである。
以上、奥沢線は雪ヶ谷駅~新奥沢駅でスタートしたが、言うまでもなく国分寺線としての使命を果たすため、目黒蒲田電鉄との交叉をどのように設計・施工するのか。この一点が最重要課題となったのである。では、この話を進めるにあたり、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の関係する部分の流れを確認しよう。
- 昭和3年(1928年)8月29日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線(大岡山駅~瀬田河原間)の工事施行認可。
- 昭和3年(1928年)9月1日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~奥沢間、工事施行認可。
- 昭和3年(1928年)9月6日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線建設工事着手。
- 昭和3年(1928年)10月5日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~新奥沢駅間、開業。
- 昭和4年(1929年)4月1日、東京横浜電鉄、九品仏駅付近高架工事竣工。
- 昭和4年(1929年)7月22日、池上電気鉄道、逓信大臣に「起業目論見変更御届」を提出。
- 昭和4年(1929年)10月22日、東京横浜電鉄、九品仏駅を自由ヶ丘駅と改称。
- 昭和4年(1929年)11月1日、目黒蒲田電鉄、自由ヶ丘駅~二子玉川駅間、開業。
- 昭和4年(1929年)12月25日、目黒蒲田電鉄、大岡山駅~自由ヶ丘駅間、開業。大井町駅~二子玉川駅間で直通運転を開始し、大井町線と呼称。
以上のように、目黒蒲田電鉄は目黒蒲田電鉄本線(目黒駅~蒲田駅間。目蒲線)と支線(大井町線と二子玉川線)、そして東京横浜電鉄線(渋谷駅~神奈川駅間。東横線)との交叉方法について、なかなか確定せず、実際、奥沢線との交叉について、昭和3年(1928年)頃には確定できたとは言えない段階であったのは、これまで見てきたように確かである。そうこうしているうちに、目黒蒲田電鉄は大井町線と二子玉川線を一体運用することとし、設計変更を行いつつ、一気に開業まで持ち込んだ。これによって、奥沢線はどのような方法で目黒蒲田電鉄線及び東京横浜電鉄線と交叉するか、具体的検討に入ることができたわけだが、実際それは行われなかった。なぜなら、昭和4年(1929年)7月22日、池上電気鉄道、逓信大臣に「起業目論見変更御届」を提出、とあるように、ここで池上電気鉄道は大きな判断を下したからである。
昭和四年七月二十二日
池上電気鉄道株式会社
取締役社長 男爵 中島久万吉
主任技術者 定平建太郎
逓信大臣 小泉又次郎 殿
起業目論見変更御届
昭和三年七月二十七日附監第二九二二号ヲ以テ電気事業起業目論見変更届御許可相成度弊社鉄道雪ヶ谷起点一哩十三鎖ノ箇所ヲ終点ト致シ置キ候処現在電気事業開始終点即雪ヶ谷起点一哩一鎖五十節(一、六三九五「キロメートル」)ノ箇所ヲ終点ニ変更仕度之レニ伴フ起業目論見変更事項並ニ工事設計変更事項別紙添附書類ノ通リニ致度候間此段及御届出候也
起業目論見事項書(変更事項ノミ記載)
三 電気鉄道ノ起点終点及亘長
起点 変更ナシ
終点 東京府荏原郡玉川村大字等々力字諏訪分三千五百八十三番地
経過地 変更ナシ
亘長 一千六三九五
平面図 別紙添付第一号図ノ通リ
建設工事費概算書事業上ノ収支概算(収入ノ部及支出ノ部)別紙添付書ノ通リ
工事設計事項書(変更事項ノミ記載)
三 送電系統 別紙第弐号図ノ通リ
別紙は省略するが、ポイントは終点を変更したことにある。従来の終点は国分寺駅であったのだが、この変更申請では「東京府荏原郡玉川村大字等々力字諏訪分三千五百八十三番地」とされている。この場所は、新奥沢駅その場所であり、池上電気鉄道はこの時点までに国分寺線計画を放棄したのだった。
と、長くなってきたので、次回(その15)に続きます。
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