これまで当blogにおいて各種文献やWikipedia等の誤りを指摘してきたが、今回はそうではなく、的確なことが書かれている文献を紹介する。それが「郷土目黒」という目黒区郷土研究会が発行しているもので、すべての記事が素晴らしいとは言えないが、さすがに地元のことを書いているだけあって興味深いものも多い。その中で今回ご紹介するのが「郷土目黒」第四十八集(平成十六年)の12~22ページに掲載されている「自由が丘・緑が丘物語」である。著者の阿部信彦氏は、父の代(昭和4年=1929年)から緑が丘地区に住み、まさに地域と共にあられる方と思われる。
とはいえ、記事の内容は私にとって既知のことがほとんどで特筆すべきものはないのだが、本稿の終了近い22ページに次のような記載がある。
「大岡山と自由ヶ丘の中間にできた駅は当初「中丸山」といった。先に触れた長屋門のあった旧名主栗山家の分家の栗山清氏にお聞きしたところ、地元の要望で新駅の傍の、今東京工大の施設の建つ小高い丘陵を中丸山と称していたので、それにあやかってつけたとのことであった。」
この話の信憑性の高いところは、この小高い丘陵を所有していたのが旧名主栗山家の分家の栗山氏だったこと(東工大敷地の南側=緑が丘駅北側の土地は今でも栗山氏所有)。さらに、当地区の耕地整理組合(衾東耕地整理組合)の組合長だった岡田衛氏もこの話をされていることから、「地元の声」として無視するどころか、東急50年史に書かれたいい加減なものよりも正当性は高いだろう。
(本件については「Wikipedia日本語版での間違い 東急大井町線(駅名の由来)編」に「東急50年史を引用していると思われるが、これが誤りで、中丸山とは駅北側にある今日東京工業大学が位置する高台のことを言う。駅・線路用地等を提供(等価交換含む)した大地主による希望命名である。また、玉川村大字奥沢に中丸という字名はなく、正しくは丸山(場所は奥沢駅南側辺り)である。ちなみに中丸は、玉川村大字等々力の字で現在の尾山台駅北側辺りをいうが、さすがにここから駅名を採用したとはならないだろう。」と既に当blogでもふれたとおり。)
とはいいつつも、このような郷土史を紹介する書籍に書かれているものがすべて参考になるかと言えば、残念ながら玉石混淆であるのもまた事実である。ただ、仮に間違っていたとしても「思い出話」的なものは、そのように記憶しているということだけでも有意なことであるので、一概にだめだとはならない。例えば、戦時中の情報統制で巷間に流布されていたことと、戦後になって情報公開されたものをわかった上での話を双方比較し、戦時中の話を「誤り」と決めつけることに難があることを挙げておこう。
というわけで、東急大井町線緑が丘(緑ヶ丘)駅のかつての駅名「中丸山」駅由来の話はここまで。
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