地域の歴史に興味を持つきっかけは何だったろうか。なんて振り返るのはやめにして、少なくとも当Blogにおいては、これまで以下のようなものを主に取り上げてきた(一発ものを除く)。
- 自由が丘と緑が丘(東京都目黒区)
- 慶大グラウンド前駅(池上電気鉄道)
- 桐ヶ谷駅(池上電気鉄道)
- 雪ヶ谷駅(池上電気鉄道)
- 旗ヶ岡駅(池上電気鉄道)及び東洗足駅(目黒蒲田電鉄)
- 千束と洗足(東京都大田区・東京都目黒区)
よく見ればすべて東京急行電鉄(沿線)に因むものばかりで、なるほど私自身この沿線の住民であり利用者でもあるので、調べて納得うんそうかである。身近なものに興味を抱くということは、それ自体自然なことであるし、そして愛着もあるということだろう。中でも池上電気鉄道に関連しては、これまで4駅(洗足池駅を入れれば5駅)を取り上げてきており、近日中には奥沢線(巷間に言う新奥沢線)を取り上げる予定であるので、どうしてここまで池上電気鉄道が気になってきたのか、という話になる。これは以前にもふれたように、鉄道ファン関連書籍等において池上電気鉄道がらみの記事に多くの誤りがあり、その元凶の多くが「東京急行電鉄50年史」を引用した結果であることに愕然としたからである。
では、実際はどうだったのだろうかという疑問を解決する手段として、同時代資料、特に公文書資料を参照するというヒントを頂戴したことで、一気に視界が広がったという流れである。特に大事なことは、「絶対的資料」というものは基本的に存在せず、常に相対的に資料を読むことの重要性を身をもって体験できたのは意義深いことだった。どんな資料にも誤りはある(例えば、国土地理院の1万分の1地形図「自由が丘」の初版には「北千束駅」を「北洗足駅」と誤って記載している。国土地理院の地図は権威があるので、民間地図会社の発行した地図に「北千束駅」とあれば、未来の人は通常こちらを誤りと思うことだろう)。他資料はどう記載されているのか。その事象の妥当性に問題はないか。権威のある資料ほど鵜呑みする危険性は高い(反面、誤りは少ない)ので、子引き、孫引きされる可能性も高く、絶対的多数がそうだからといってそれを正しいとする姿勢にも疑問符を付けるくらいの勇気も、時には必要になるだろう。無論、立場によって同じ事象を論じても異なる見解となるものも多いので、見解が異なるからといって一方を嘘と決めつけるのもよくない。つまり一つの歴史を論ずるだけでも、相当なバッグボーンが必要になるわけである。
とは言いつつも、私が当Blogに記述するものは学術論文の類ではないので、そこまで徹底追求する形は取らないし、書き方についても同様である。あくまで私が楽しみながら書いているに過ぎず、それをたまたま読んでくださる方々がどうお感じになるかで十分である。
さて、前書き(能書き)が長くなったが、タイトルにあるように池上電気鉄道奥沢線に続いて取り上げる地域歴史研究ネタは、洗足田園都市を予定している。資料集めもそれなりに進み、図版の作成も遅れ気味であるがそれなりに進んでいる。ただ書き進めない理由は、まだまだ疑義がいくつか残っているからで、今回はそれを示し、もしご存じの方がいらっしゃれば甘えてしまおうという安易な発想に基づいている(苦笑)。では、以下に列挙しよう。
- 洗足住宅地第一期分譲地は、田園都市株式会社が耕地整理を一人施行で行ったとされるが、荏原郡碑衾村・荏原郡平塚村、荏原郡馬込村の3村それぞれにまたがっていたにもかかわらず、関連資料が荏原郡碑衾村にしか見られない。これはいかなる理由によるのか。
- 洗足住宅地第二期分譲地は、荏原郡平塚村のうち大字中延のみであり、ここは平塚第二耕地整理組合の組合地に含まれているように思われるが、実際は含まれていたのか含まれていなかったのか。
- 「東京急行電鉄50年史」や「街づくり五十年」(東急不動産社史)には、洗足田園都市に関する記述はあるが、どちらも資料不足によってなのか調布田園都市(多摩川台。田園調布)の記述よりもかなり薄い内容である。これは本当に資料不足なのか、あるいは社内的な理由で記述することを憚られていたのか。
- 洗足田園都市を通過する鉄道計画及び駅(停車場)計画の変遷について、一部調査し切れていない部分がある。一説によれば、洗足五叉路(現在の小山七丁目交差点)辺りに駅ができる予定だったとあるが、収集した資料にはそれを見出すことができない。これは事実なのか。
- 洗足住宅地第一期と第二期の間に存在する小規模住宅群(現在の東京都品川区旗の台六丁目1番及び2番ほか)は、どういった経緯で誕生したのか。また、この土地を田園都市株式会社が買収できなかった理由は何か。
- 社団法人洗足会の戦後にかかわる歴史。おそらく、戦時中に隣組制度によって町内会が再編成された際、洗足会はその機能を事実上失い、戦後になってこれもおそらく解散命令を受けたと思われる。その後、復活?した経緯、洗足会館等の財産の行方(そもそも社団法人化された理由は、田園都市株式会社が譲渡された資産を引き継ぐためであった)や、3区に分断された洗足会の位置づけ、現行の町内会(洗足二丁目町会、小山洗足町会など)との関連など、社団法人田園調布会との違いについても。
- 洗足住宅地の道路パターンなどを設計したのは誰か。
などなど。おそらく書いていくうちにさらなる疑問は出てくるだろうが、前半に書いたように学術論文を書くわけではないので、気楽にやっていくつもりでいる。といったところで、今回はここまで。
XWIN II様
ようやく待ちに待った洗足田園都市の問題に入りましたね。東京急行50年史にも説明が簡単です。5項の小規模住宅群ですが、西側は有隣社と呼んでいましたが東側はそうではないような気がします。6項の洗足会ですが太平洋戦争開始の頃学生団と言うものを結成しましたが,主導権は目黒区洗足の学生が握っていましたし、防空演習も目黒区洗足のボスが主導していました。荏原警察と碑文谷警察との関係がどうなっていたかは知りませんでした。戦後財産処分に関して問題が起きたと聞いておりますが詳しいことは知りません。第一期分譲と同時期の電鉄で発行した地図以外の地図が見つかりませんので噛み合ない部分を解明できませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/13 10:31