本書は今を遡ること10年半ほど前、毎日新聞のスクープにより明らかにされた「旧石器遺跡捏造事件」の当事者(共犯者?)とも目された側であり、かつ前中期旧石器時代の理論的支柱とも言えたいわゆる岡村理論の提唱者でもある岡村道雄氏による著作である。本書の出版は昨年(2010年11月)であるが、ようやく購入できたので一気に読んでみた。以前、読んだことのある「旧石器捏造事件の研究」(著者:角張淳一、発行:鳥影社)については当blog記事「「旧石器捏造事件の研究」読了、とその感想」に示したとおり、何度も何度も読み返して理解を深める必要があるほど中身の濃い著作であったが、残念ながら本書はそのレベルにはるかに及ばない。言い方は悪いが、読み捨てるレベルでしかないとなる(あくまで角張氏の著作との比較)。
とはいえ、当事者と目される側からの情報発信は大変意義深いものであり、そういう意味では中身云々は関係がないとも言える。また、出版が歴史書を数多く出版している山川出版社であることも注目で、この経緯については本書の最後に「『旧石器遺跡捏造事件』を編集して」という本書の編集担当である酒井直行氏の4ページほどの小論で確認できるが、かつて結果として誤ってしまった書籍(「最古の日本人を求めて」発行:新人物往来社)にかかわったことに対する懺悔でもあるようだ。
本書「旧石器遺跡「捏造事件」」(表紙にはカギ括弧がついているが背表紙にはなく奥付などにも付いてないがこのように表記しておく)には、さすが論文の名手とされる岡村道雄氏だけあって目次が充実しているので、これを掲げることで本書の概要は掴めるだろう。
序章 旧石器遺跡捏造の経緯
第一章 「栄光」への軌跡
1 石器文化談話会の始まり
藤村の生い立ち
旧石器への関心
藤村との出会い
石器文化談話会の設立
発掘の仕組み
2 本格化する発掘活動
薬莱山麓へ
旧石器遺跡の発掘方法
層位と型式
3 「座散乱木」への道
旧石器発掘をめざして
最古「動物形土製品」の出土
不思議だった藤村の態度
4 大発見
前期旧石器存否論争
最高の瞬間
山田上ノ台遺跡でも
期待高まる座散乱木第三次発掘
続々出た前・中期旧石器とその時代
馬場檀Aに賭ける
試みられた科学的分析
復元された「原人の生活」
「前期旧石器論争は結着した」
第二章 失墜した“ゴッド・ハンド”
1 拡大していく戦果
宮城から関東へ
夢の“怪挙”「遺跡間接合」
東北旧石器文化研究所の設立で全国展開へ
「藤村業績」の宣伝に加担した私
覆い隠せなくなった矛盾
秩父で藤村・鎌田と論争
2 捏造発覚
毎日新聞の大スクープ
大混乱になった学術関係機関
地に墜ちた考古学への信頼
3 相次ぐ私への批判
自著の回収・絶版
“共犯者”扱いまでされた私への批判の嵐
「君はやってないんだよね」
「聖嶽遺跡」事件への波及と賀川学長の自殺
4 残された膨大な後始末
始まった検証への動き
心が凍りついた藤村の捏造痕跡
遠藤智一さんの無念
第三章 捏造発覚から一〇年を経て
1 見破れなかった藤村の知恵
割り箸であぶった石器が“世界初”の発見に
専門家も見破れなかった“埋め込み”実験
藤村が得意とした偽造「石器埋納遺構」
『岩宿の発見』がモデル?
2 見破れなかった私の甘さ
偽書『東日流外三郡誌』事件との共通点
“夢”が疑う目を曇らせた
マジックショーに魅せられていた私たち
疑問を呈するとすぐ石器が飛び出した
「まさかあの純朴な男が」という予断
3 私が経験した数々の疑問
いつから捏造は始まった?
封印された疑問の数々
座散乱木「二つの不思議」論争
私にもよぎった疑念
見逃されていた「不自然な一致」
馬場壇、志引にもあったおかしな現象
4 この一〇年で考えたこと
旧石器が捏造の舞台に選ばれた理由
前旧石器存否論争の呪縛
なぜ不自然さを追及しなかったか
“大発見”ムードにかき消された少数意見
科学分析はなぜ捏造を見抜けなかった?
藤村の暴走を後押しした考古学ブーム
過熱マスコミ報道の功罪
欠けていたタフォノミーの精神
5 藤村との再会
疑問だらけの「藤村告白メモ」
どうしても本人に確かめたかったこと
「神の手」を自ら切り落としていた藤村
「覚えていない」の一点張り
第四章 明日への考古学
1 三つの過ち
頭になかった「第一発見者を疑え」
悔やまれる発掘担当者としての力不足
権威づけした重大責任
2 ささやかな私からの提言
①学問的記憶としての捏造事件
②石器研究方法の進展
③自然科学との連携と共同研究の深化
④発掘成果の公表と報告書の刊行
⑤検討・議論による成果の確定と公表・普及
⑥学問的・行政的なチェック体制
⑦発掘者・研究者倫理
⑧マスコミとの連携
3 考古学の信頼回復のために
①考古年代を暦年代に変える必要
②日本最古文化の探究
終章 旧石器遺跡捏造の総括
以上。かなり詳細にわたって目次を引用したので、概要は掴めよう。本書の読後感については、それこそ立場や経験などによって様々だと思うが、私が感じたのは「ああ、この人は学者なのではなく役人なんだ」という印象が第一で、客観的に振り返っている「つもり」であるが、その実、自己保身に走っているということである。反省の言葉や懺悔はあるが、あくまでそれは自身に向けられたものではなく、自分自身も巻き込まれたのだという主張である。これは、最近の原発事故における保安院や委員会の態度に近いところだ。
そして、本書229~230ページにわたって、対マスコミに対する著者の反省の弁がある。
新聞・テレビへのコメントでもマスコミの期待に応えすぎた。否定的・消極的なコメントでは記事にはならず、少し過大に評価してインパクトのあるように説明しないとコメントとして採用されない傾向がある。したがって異論・否定論は表面に出にくく、研究者の全員が承認したような状況になる。
とあるのは今も昔も変わらない。これは視聴者(読者)自体が素人であるので、取材するマスコミもあまり専門性を期待していないこともあるが、週刊こどもニュースで名をあげたわかりやすいと評判の池上彰氏もここに著者があげたような傾向が強い。こどもに対してはやむを得ない説明手法と見ていたが、今や大人に対しても同様で辟易するが、大人(視聴者)のレベルが低いのだから仕方がないか。まぁそれはともかく、捏造事件の首魁とも目された著者にしては、ちょっとインパクト弱めと思う内容だが、それは編集者のコントロール下に置かれた内容だと慮れるか…。
しかし、報告書スタイルとしては非常に参考になるのは疑いない。「なぜ?」という部分が解明できていないのは残念だが、様式美としては優れている。
語りたいことはまだあるが、最後に本書201ページの一部を引用して結語としたい。
結果的にはマスコミに取り上げられると世論の動向を左右し、社会的な風潮を生み、評価や権威づけにつながることとなる。
このような状況、関係性の下で、マスコミと研究との利害関係が一致する場合は、もたれ合い、馴れ合いを生みやすい。不確実な部分があっても触れず、取り上げずに、都合のよい面をできるだけ派手に取り上げ、面白くわかりやすいようにネタ作りしがちになる。また、応々にして既発見や先行研究、類例には触れずに、ニュースとして取り扱う場合もあるようだ。
このような馴れ合いは、結果的に成果の検証・吟味や論証が甘くなり、成果を評価して権威づけ、マスコミのニーズに沿った成果や研究の方向性さえ生むことになっているかもしれない。遺跡捏造の背景のひとつにも、このような傾向があって、捏造が長年続いてきたように思われる。
要するに、単純化したマスコミの構図(しかも思い込みによる誘導)で判断せず、自身の頭で考えてみる、要旨(言わんとすること)を再構築することが重要だ。そんなことを踏まえつつ、今回はここまで。
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