今回は、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍から、池上電気鉄道に係わる箇所を抜粋し、これをネタにしてあれこれ語っていこうという趣旨である。では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」94~95ページの「池上電気鉄道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。
創立………………大正六年十二月
開業………………同十一年十月
資本金(公称)…三百五十万円
資本金(払込)…百五十六万八千七百五十円
営業線亘長………三哩二十九鎖
軌間………………三呎六吋
車輌ボギー車……八輌
運輸従業員………六十九名
兼業………………電力供給、土地家屋
(昭和二年四月末日現在)当社の営業線は省線蒲田駅前より池上町雪ヶ谷に至る三哩二十九鎖にして、全線東京都市計画区域内に在る。当社は大正六年十二月の創立で、当初の資本金は四十万円であったが、後、百八十五万円に増資した。而して大正十一年十月先ず蒲田、池上間一哩十四鎖の営業を開始し、次て翌十二年五月池上より雪ヶ谷の延長線二哩十五鎖を開通した。
当社線は他の郊外電車と異り大都市に直接の連絡なく、又沿線附近に遊覧地を有せず、加うるに大正十二年十一月以来目黒蒲田電鉄線が進出して当社線と競争に地位に立ったので従来業績は兎角沈滞勝ちであった。創業以来の乗客及び賃金を示せば次表の通りであって、大正十五年度中の乗客及び賃金は一日平均夫々三千五百十六人 百七十円七十五銭である。
当社は最近資本金を半減し事業の整理を行い、進んで拡張計画を立て、差当り予ての計画線たる雪ヶ谷、五反田間三哩四十二鎖及池上、大森間一哩五十六鎖の建設に着手したが、前者は昭和二年十月上旬に竣工した。又最近には五反田より芝区白金猿町市電終点を経て省線品川駅前に至る五十八鎖の特許を得たが、本線中猿町、品川間の線路は京浜電気鉄道線との供用の予定であると云う。
(次表略。)
昭和3年(1928年)に世に出た本書であるが、本文は昭和2年(1927年)4月末現在の状況で著されているため、池上電気鉄道はまだ五反田まで開通しておらず、蒲田~雪ヶ谷間のみの単線営業であったことから、惨憺たる書かれ方であると言えよう。戦前のお役所は、今のように民間企業(や市民など)に阿ることなどあり得なかったので、本書においても遠慮など全くない。しかし、一方的な悪口もないわけで、東京市からすれば池上電気鉄道はちょっと(いや、かなりか)今ひとつだという印象だったことは確かである。
もっとも、五反田駅まで全通した後は「大都市に直接の連絡なく」や「沿線附近に遊覧地を有せず」という東京市の指摘は解消され、目黒蒲田電鉄との対立が尖鋭化していくこととなる。また、会社創立時からの計画線である大森~池上間については、五反田から東京市内への乗り入れ(昭和7年10月より以前は五反田駅付近は東京市外)が最優先とされたこともあって、用地買収すら行っていなかった。五反田から白金猿町経由品川駅前の計画も、京浜電気鉄道が東京地下鉄道との関係を深めていくに連れ、池上電気鉄道は相手にされなくなり、本書の記述には出てこない起死回生の奥沢線計画に邁進していくわけである。
また、諸元を見ると、ボギー車8輌に対して運輸従業員が69名というのは、駅員等の配置を考えてもかなり多いという印象だ。昭和2年(1927年)4月末現在では、蒲田駅、蓮沼駅、池上駅、慶大グラウンド前駅、光明寺駅、末広駅、御嶽山前駅、雪ヶ谷駅と8駅しかなく、また単線であったので、ボギー車8輌というのも多すぎる。やはりこれは、五反田までの延長と全線複線化を見越した上での配置と見るのが的確だろうか。
では、最後に本書掲載の「池上電気鉄道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。
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