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2014/03/28

コメント

高低を分かりやすく色で説明されている労作には何時も感服しています。私見ですが、目黒川沿いの田んぼに盛り土するだけの当初の計画線の方が大幅に創業費を抑えることができると思いますが、機関車がまき散らす火の粉を恐れた住民の反対には抗せなかったのでしょう。もっとも明治末期まで電化されなかったので地主も先が読みきれなかったのでしょう。

コメントありがとうございます。
高低差を表す図は、国土地理院の提供する「数値地図」から展開できるものなので、手間いらずです。むしろ、古地図類から現在の精緻な地図に情報を落とし込む方が時間がかかりますね(作図法からして違うので)。
私の思うところ、火薬庫の影響もそれなりにあったのかなと思いますね。どちらのルートを通るにしても。

XWIN 様
海軍技術研究所に気を取られて火薬庫のことを失念しました。確かに目黒川沿いですとすぐ近くを走ることになり危険きわまりないことになりますね。山手線の貨物線は昭和になっても電化されていなかったので、池袋に向かう機関車は渋谷駅で十分に蒸気圧を上げて、原宿の勾配を石炭を焼べないで登ることを求められていました。やはり神宮の森の火災を恐れたのでしょう。

各位
「原宿の勾配を石炭をくべないで登る」
そういうことを要求されていたのですね。興味深いことです。
木造院様は、明治神宮の防火に着目されていますが、僕は、代々木練兵場が関係しているのではないかと考えました。というのは、代々木練兵場は、日本ではじめて飛行機が飛んだ場所で、かなりあとまで飛行場が置かれていたようで(昭和10年代の航空写真に、はっきりと滑走路の跡がみられます)、燃料の貯蔵場所がいづれかにあったかはわかりませんけれど、その防火という観点はいかがでしょうか?
このあたりの山手線といえば、なぜ、原宿駅に宮廷ホームが設けられたのかも、皇居からの距離を考えると不思議な気がしています。

桜上水様
昭和10年頃まで飛行場があったとは知りませんでした。ただ昭和16年頃に練兵場で当時旧制中学生に義務化されていた軍事教練を受けたことを記憶しております。原宿駅の宮廷ホームは一般の乗客に迷惑を掛けないで警備ができるのでここが選ばれたのかもしれません。しかし他方外国の使節を迎え入れるために東京駅の丸の内中央口は特別な出入り口と貴賓室があり、ラストエンペラーもこの駅を利用して一直線に二重橋に向かいました。

木造院様
父も同じ時期、代々木練兵場で教練を受けたと言っていました。市ヶ谷の陸軍士官学校予科から背嚢をかついで鉄砲持って、中央線沿いの遊歩道を走らされ、指導教官が年配者(体力がさすがに劣る)のクラスがうらやましかったそうです。
この遊歩道が意外に警備上のミソかもしれませんね。
当時の滑走路は土を固めただけでしたから、地上からではそれとわからなかったかもしれません。米軍撮影の航空写真では、なんだかわからないことになっていて、偽装されていた可能性を感じます。

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