「JR山手線の駅名の由来を改めて考察してみる」シリーズ(その1、その2、その3)を先週まで書いていたが、これを書いている最中、今さらながらであるが、開業当初の目黒駅の場所が現在とまったく違う場所にあることに気がついた(正確に言えば思い出した)。当時の地図(明治20年前後。開業して2年足らず)を見て確認しよう。
これだけ見ると、駅(停車場)の位置はわかるけど、今でいうとどの辺かはよほどの通でないとわからないだろう(地図中の「徳蔵寺」が今もほぼ同じ場所にあるのがヒント)。そこで、ゼンリンの電子地図で示すと、以下のとおりとなる。
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現在の目黒駅と五反田駅のほぼ中間、どちらかといえば五反田駅寄りにあたる場所にあった。明治28年(1895年)までにはこの場所からほぼ現在地に移転しているので、各種文献等にもこの事実にふれているものはほとんどない。実際、この場所は主要道路にも接続あるいは隣接しておらず、なぜこんな辺鄙なところに駅を設置したのかという疑問は当然のごとく起こってくる。だが、目黒駅と目白駅が同時開業している事実から、これが目黒不動尊への最寄り駅だと位置づければ、たとえ細道であっても概ね一本道で接続はしているので…………、微妙か(苦笑)。だからだろうが、開業して10年程度で移転したのも頷けるとなるのである。
以上、簡単だが、開業当初の目黒駅の場所について確認してみた。いつものことだが、今の目黒駅の位置から開業当初変わらずにいるという前提に立った論考(というレベルに到達していないものも含む)が多く、よってでたらめな結論に至るものも少なくない。他山の石を念頭に置きつつ、今回はここまで。
以前からあんな谷底に如何にしてホームを造ったのか不思議に思っていましたが、やはり不動様の参詣が目的の一つであればこの場所も納得がいきます。大森駅の池上道が御会式の人混みで人が線路に溢れ出して人身事故になったことを思えば、昨今の合理主義的な考えからほど遠い当時の人々の信心深さを考慮に入れなければなりませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/05/18 13:18
此の場所の付近に信号所を設けたという記録があり、目黒蒲田電鉄の建設資材をこの付近から引き込み線を利用して運搬したと東急50年史に記載されていますが、地形的にも可能だと思います。やはり鉄道省OBの威光で行った面もあるような気がしますが、考え過ぎでしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/09/12 11:45
はじめまして、先日目黒区中央図書館で見かけた目黒区教育委員会による書籍「目黒百景」によると上大崎村500番地付近に駅があったとされています。
残念ながら、その場所の地図を探すことができませんでした。
たぶん同じ場所なんだと思います。
投稿情報: iri | 2013/12/27 16:33
コメントありがとうございます。
さて「目黒百景」ですが、手元にはありませんが見たことがあります。ですが、残念なことに結構間違いが多いのです。
(1970年代の地方自治体編纂のものはいい加減な記述のものが少なくありません。)
当該書の記述が「上大崎村500番地」だったとしますと、この場所は字上ノ谷にあたる部分で、現在の品川区立第三日野小学校の北東にあたることから、まったく別の場所であり誤りかと考えます。
本記事に掲載した地図で確認できるように、この場所は村境にあたっており(一点鎖線が村境、二点鎖線が字境を意味します)、「字松葉」と見えるのが谷山村に所属する字松葉、左下の「甲耕地」と見えるのが桐ヶ谷村の字亀甲耕地、その他が上大崎村に所属する各字であって、目黒停車場(駅)は字西ノ谷に属します。地図に駅の地番は明記されていませんが、おそらく251番地にあたると見込まれます。
なお、初期の場所から異動した後の目黒駅の場所は、字永峯通595~600番地あたりであることから、この地番と錯誤した可能性が高いのではないでしょうか。細かいですが、目黒駅の駅舎としては移転直後、大正期、戦後、駅ビル完成後と変転を重ねているので、駅の異動をこの駅舎の変遷と勘違いしている可能性も指摘できます。
何にしても「目黒百景」の記述(上大崎村500番地付近に駅があった)が誤っていることは確かでしょう。
投稿情報: XWIN II | 2013/12/28 19:49