従来の定説が覆されて、今ではそれが邪説の一つになる。こういう事例は枚挙に暇がないが、私が若き日に学習した物理学の世界と、現在興味を持っている地域歴史研究のような世界とでは意味合いが大きく異なる。
物理学の世界では、19世紀までは自明とされていた「エーテル」の存在が否定されたことが、20世紀双璧といわれる「相対性理論」と「量子力学」につながったが、これは「理論」だけでなく「実験」及び「検証」によって明らかにされている。だが、歴史というものは、同じように見える事象であっても背景が異なるなどまったく二度と同じ事象は再現されず、しかも見方、立場によってまったく異なるものとなる。いわゆる「認識」の差が大きな違いのように見えてしまうのである。
なので、過去の歴史を語ると言うことは、どういう問題意識を持ち、どのような視点に立ってそれが論ぜられるかを明らかにしておかなければ、なかなか理解を得にくい。また、それを受け取る側も狭視点だったりすると、そもそも受け入られることもない。しかし、それを客観的事象にまで引き上げることができるもの。それこそが「歴史資料」の存在である(無論、「解釈」という新たな差異を生むことも多いが)。
と、前振りが長くなったが、今回示す「歴史資料」はよく知られた国の重要文化財にも指定されている「東京高崎間鉄道線路図」である。
本図は横長(370 mm x 1,240 mm)なので、全体を載せると肝心なところが見えにくくなってしまうことから、左側から4分の1ほどにとどめた。実際は、サイズを示したように思いっきり横長である。
拡大してみると、図左側に見える「品川ステーション」から右側に伸びる計画線が、現在のJR山手線にあたり、線の途中にある区切り線は1マイル毎に入れられているもので、目黒不動あたりが品川ステーションから3マイル、単に「ステーション」と記されている渋谷ステーション予定地付近が同5マイルとなる。そして、この計画線に途中まで平行する青い線が目黒川である。
さぁ、もうお気付きの方はおわかりだろう。渋谷ステーション予定地から下渋谷村方向の台地部を通り、火薬庫(現在は防衛省関連施設が集積)付近で目黒川を越え、目黒不動近くを通り、しばらく目黒川沿いの低地を抜け、官線付近で大きく曲線を描き、品川ステーションに入る、という経路は「目黒駅追い上げ」説を裏付けるものと言えるのだ。
では、比較しやすいように北を上として本図を回転させてみよう。同じく比較しやすいように新宿駅付近から掲載したので、計画線と現在のJR山手線とを見比べれば、その差がよくわかるだろう。ただ、本図が提出された明治14年(1881年)年12月23日から、明治18年(1885年)3月1日に品川ステーション~赤羽ステーション間が開業するまでの3年半弱の間に、全体計画に影響を及ぼす変更がなされた。それが、本図には記載されていない上野までの延長線である。
明治15年(1882年)7月18日、日本鉄道会社は株主総会で上野~川口間の鉄道敷設を決議し、同年8月3日に当時の監督官庁である工部省に申請した。官線に接続することを目指したが、地形が複雑であることや沿線予定地からの様々な意見等から、建設区間が短く地形も複雑でない(あくまで相対的に)上野を起点と変更したのである。無論、官線接続を諦めたわけではなく、あくまで本線を上野方面とし、品川ステーションへの接続は支線という扱いとした。この結果、本線としての上野~熊谷間を先行建設し、明治16年(1883年)7月28日に開業式を挙行、仮営業を開始したのだった。
そして、仮開業から約5か月を経た明治17年(1884年)1月、ようやく支線と位置づけられた品川~新宿間及び新宿~川口(岩淵)間の鉄道建設工事に着手。先にふれたように、明治18年(1885年)3月1日に開業。品川~赤羽間に、駅は本計画図のとおり渋谷、新宿、板橋に加え、本線との分岐駅として赤羽ステーションが設置された。さらに、同年3月16日とそれほど期間を置かずに目黒ステーションと目白ステーションが開業する。この遅れは、単に開業日に工事が間に合わなかったからとされる。
というわけで、簡単に流れを振り返ってみたが、ポイントは当初計画から本線を品川から上野までのルートに変更し、その後、明治17年(1884年)1月の工事開始まで1年半近くの間、品川までの計画がほとんど進捗しないことにある。そして着工時には、ルートは本図に示されたものからほぼ現在のルートに変わっている。つまり、渋谷からすぐに台地部を南に突っ切るのではなく、そのまま直線に南東方向に台地部を進み、火薬庫の東側(図では左側)を通過、永峰町の永と峯の字の間あたりを貫き、大崎村と書かれている辺りで目黒川平坦部に抜け、そのまま計画線につながる形となったのだ。
この計画変更が、目黒駅追い上げ説の誕生につながっている。そして、明治末期~大正・昭和初期に編まれた地域の歴史書的なものに登場する座談会などでは、目黒村を通過するはずだった計画が目黒村の地主らの反対で、現在の路線になったという鉄道忌避伝説の一つとして語られ、今ではそれは伝説であって根拠がないと否定されている。地形的に現在線は妥当であって、工事技術等からもそれ以外の選択肢がないように書かれているものもある。また、反対の陳情なども見つかっていないということも否定の要件として加えられてもいる。
だが、果たしてそうなのだろうか。反対が東京府や工部省、日本鉄道会社などに公式になかった(後世の人が見つけられなかった)からといって、それで反対がないと言えるのだろうか。学問的立場では、証拠のないものは存在しないということはわかる。しかし、わざわざ自社の都合の悪いことを残したりするものなのだろうか。また、公式見解と事実というものが同じだとは限らないことは、私自身、企業人として常に体験していることでもある(例えば、株主総会等で説明する内容「建前」と、真の意図「企業秘密」は同じですか?)。さらに重要人物同士の会談で、鉄板と思われていた計画がひっくり返ることも体験している。真相は闇でも、噂だけは広がり、それが真実を伝えていることも珍しくない。
現在の事象でさえ、適切に伝わっているかどうか何とも言えないようなものが、100年以上も前のことを「残された資料」だけで判断するのはいかがなものだろうか、と感ずる。後世の学者風情が、自らの拙い知見と思い込みだけで、当時の人たちの噂話的なものを「伝説」と断ずることに違和感を覚える。最近、地域歴史研究を進めていると、むしろこういった学者風情の説がインチキであることも多いと感ずる。もちろん、昔話がインチキであるものも多いだろうが、当時、その人達がどう感じていたかを聞く(見る)ことの方がよほど価値があると思う。
そんなことを思いつつ、今回はここまで。
子供の頃から我が家に出入りしていた植木屋が中目黒に住んでいましたが、子供である私に目黒村の人々は馬鹿だと愚痴をこぼしていたのを思い出しました。茅葺き屋根ではSLの火の粉による火災の危険があり、激しい反対に遭遇したことも想像がつきますが、後日の渋谷の繁栄を見て目黒の村民は地団駄踏んでくやしがったが全ては後の祭りであったことも事実です。今日の深い谷間にある目黒駅を見る度にこの話を思い出します。小生の祖父も日本鉄道の技師をしておりました関係で似たような話を聞いたことがあります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/23 10:17
補足コメント
渋谷川の河川敷から目黒川への三田用水の尾根を越えるルートは多分現在の東横線に沿って鎧が崎を経由して目黒川の右岸に向かったものと想像しますがコメントを心待ちしています。目黒不動付近は猫の額のような現在の目黒駅付近より平坦であり市街地として発展するには適していたような気がします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/23 16:00
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
最初に頂戴したコメントについては、昨日午後に本文後半を追記した部分をご笑納ください。火のないところに何とやら、というのは正鵠を射ていることが多いと思うのですね。
>渋谷川の河川敷から目黒川への三田用水の尾根を越えるルートは多分現在の東横線に沿って鎧が崎を経由して目黒川の右岸に向かったものと想像しますがコメントを心待ちしています。
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御見込みのとおりかと私も考えています。代官山付近の谷を抜けて鑓ヶ崎に出るというパターンは、武蔵電鉄の計画などでも見られるので、地形的にはここを抜いていくというのがいい形になるかと思います。
投稿情報: XWIN II | 2010/08/24 07:37
コメント有り難うございます。目黒駅のオープンカットは当時としてはかなりの出費を強いられたとおもいますが、地主の干渉を嫌って中野から日野まで街道を無視して一直線の線路を敷設した甲武鉃道の例もありますので、どちらが良かったかは結果論ですので評価は困難です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/24 08:29