「現在とまったく違う場所に開業していた目黒駅」という記事を8か月ほど前に書き、目黒駅に関する都市伝説(端的に言えば、目黒駅が最初から現在地に開業したという誤った前提で論を展開しているもの)を否定した。今回は、ではその頃に現在の目黒駅のある場所は、どんなだったのかを当時の地図で確認してみようという試みである。
これは明治20年頃のもので、開通間もない日本鉄道品川線(現 JR山手線)が単線で描かれており、既存の道路などがそのまま残されている(鉄道を後で追記したという印象)ことから、かなり無理して掘割式でこの地を通したこともうかがえよう。また、興味深いのは三田用水と道路に挟まれた領域(585番地、587番地の間)の掘割に占める面積がその前後よりも狭く(小さく)、住宅地(地番が書かれているのは住宅地)においては買収地を少なくしようとした配慮も見える。この地図からは、将来目黒駅が移設する地は、字千代ヶ崎だということも確認できる。
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比較のために、ほぼ同じ場所をゼンリンの電子地図で示す。幸いにして、この地は当時の村境界線が概ねそのまま区境界線に継承されているので、位置関係が掴みやすい。また、大規模な区画整理も行われなかったことから、江戸期以来の細い道路もそのまま残っている(若干の拡幅はあったが)ことも、位置関係を確認するのに好都合だ。
さて、現在の目黒駅についてはゼンリンの電子地図で区界が確認できるように、左(西)から目黒区、品川区、港区と続き、品川区にあるのに目黒駅だと言われている。だが、これは1947年(昭和22年)からの話で、それ以前は品川区ではなく荏原区であった。これも1932年(昭和7年)からの話であり、さらにその前は大崎町(村)だった。そして、今回とりあげた地図作成年代である1887年(明治20年)はといえば上大崎村にあたり、これは初代目黒駅の場所も同様であった。つまり、正しく言うなら、
上大崎村にあるのに目黒駅(停車場)だ。
というわけである。ついでに言えば、すぐに隣接する目黒と付いた村も、当時は目黒村ではなく下目黒村だった。目黒村となるのは、1889年(明治22年)の市制町村制による大合併が行われた際、下目黒村、中目黒村、上目黒村、駒場村が合併してからのこと。要は、同時期に目白と命名された停車場ができたことから明らかなように、最寄りが目黒不動だというのが由来である。
これも品川線が当初計画どおりに目黒川岸を通り、目黒不動尊の近くを擦るようになってさえいれば、当時から下目黒村で、現在でも目黒区に属するようになっていたのだから、将来に及ぼす影響など現時点ではわかるはずもないし、過去の歴史的経緯を知らずして今のことを語ることもナンセンス。そんな自明なことを思いつつ、今回はここまで。
現在とほぼ同じの道筋になっているのは驚きですが、くびれている掘り割りは貨物線(現在の湘南ライナー)が建設されて広がっています。三田用水は、中目黒の槍が先の切り通しと同様に山手線をダクトで横断して今里町の方に向かっていたのでしょうが、小生の記憶しているダクトは旧玉電の槍が先の上を跨いでいることだけです。大正15年の大崎町の地図でもほぼ同じですが、目黒駅が恵比寿寄りに描かれており、目蒲線の終点とはやや離れているように見えます。ただ思いついたことを投稿しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2014/01/19 12:54