約二年ほど前、東急池上線の千鳥町駅の前身と位置づけられる慶大グラウンド前駅と、同じく千鳥町駅の場所にあった光明寺駅について、「定説」では光明寺駅が伝説扱いで、光明寺駅の後継として慶大グラウンド前駅、そして千鳥町駅に改名して現在に至るとされている。だが、実際は池上電気鉄道が大正12年(1923年)5月4日に池上~雪ヶ谷間を単線開業させた際、光明寺駅が中間駅の一つとして開業し、その後、荏原郡池上町と同郡調布村の境界付近に慶大グラウンド前駅が開業。光明寺駅と共に併存し、慶大グラウンド前駅が光明寺駅寄りに移設したことを契機として、昭和4年(1929年)までに光明寺駅が廃止される流れとなることを関係資料等から解明した(詳細は当記事末尾の関連記事を参照)。しかし、肝心の地図資料でこれを示すものがなく(併存期間が約3年あまりと短く、かつ陸地測量部の地図発行時の隙間であったため)、果たして本当にそうだったのかという懸念が拭いきれないでいた。
探せば何とかなるものである。というよりは、別資料を漁っている際に偶然見つけたといった方が適切か。何にしてもついに慶大グラウンド前駅と光明寺駅の両方が掲載されている地図資料を見つけたのである。それは、「復興局編纂 東京都市計画道路網図(昭和三年三月十六日印刷、昭和三年三月二十日)」。かなり大きい地図なので、その一部のみを以下に示そう。
ベース地図は大正後期のものと思われるが、都市計画図の一環ということもあって、計画道路はもちろんだが、既存の道路や鉄道網も2万分の1以上のものにしては正確性が高い。そして、今回の話題である慶大グラウンド前駅は地図上「グランド前」とあり、その左上には「光明寺」とある。単に「光明寺」を消し忘れただけだという見方もできなくはないが、発行時期が昭和3年(1928年)3月とあることから、おそらくどんなに早くても昭和2年(1927年)までの情報は網羅されていることを慮れば、この地図資料が両駅併存の裏付けの一つと数えて良さそうだと考える。ちなみに、慶大グラウンド前駅が当初設置された場所は南北に貫く計画道路上に位置していたため(地図上、千本松とある「松」の字の下あたり)、この計画道路を避けるよう、地図上に書かれた位置に昭和2年(1927年)異動した。よって、この位置での両駅併存はわずか1~2年の間で、それがこの地図作成時期と重なるわけである。
といったところで、今回はここまで。
関連記事
国立公文書館の昭和02年08月01日付けの
平12運輸02156100の001
双信閉塞機設置および変更の件の添付図面によると池上の次がただ慶応と次が光明寺となっており、閉塞信号は慶応駅に設けられています。慶応とは慶応大学グラウンドのことだとおもいますが、複線のための閉塞装置ですが、ご指摘の通り双方の駅が併存していたのでしょう。既に院電の払い下げ車も運転されていたとおもいますが、単車運転でしたので駅間距離が短くてもなんとかなったのでしょう。駅の廃止は住民の抵抗があったのでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/03/26 11:24
追伸
光明寺駅は地図によると六郷用水の上にあるように示されていて現在より雪谷寄りの様に見えます。光明寺自身は目蒲線の新丸子の方が近く、慶大グラウンド前は武蔵新田駅の方が近いのと同様ですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/03/26 16:20
昭和4年測量の地図では、グラウント前駅の位置は 上の昭和3年の地図と同じで、光明寺駅はない。
光明寺駅は この間に廃止されたと考えれば矛盾はない。
問題は、昭和7年測量の地図に 現千鳥町駅と同じ場所に、駅名の記載はないが 駅らしき印があること。
この間にグラウント前駅は 再度移転したのか、グラウント前駅(二代目)に代わる 千鳥町駅が開設されたのだろうか?
投稿情報: s.yam | 2019/11/04 20:34
追伸
現地を検分してきました。痕跡は何もありませんが、道路や六郷用水跡などから、ある程度の感触は掴めました。
前回私的したように、昭和7年の地図には 駅名なしに 駅の印だけありますが、次の昭和12年の地図には、全く同じ場所に「ちどりちやう」という駅があります。
考えられることは、
〇昭和3年~4年に 光明寺駅がなくなり、ほぼ同じ場所(ただし六郷用水の南側)に、
➀グラウント前駅(三代目)が 昭和4年~7年の間に移設され、昭和11年に 千鳥町駅に改称されたか、
➁昭和4年~7年の間に 千鳥町駅が新設された、すなわち 昭和11年の改称は誤り、
の いずれかでしょうね。
投稿情報: s.yam | 2019/11/05 18:20
枯れたBlogにコメントいただきありがとうございます。
千鳥町への改称は、昭和7年10月1日にこの一帯が東京市に編入された際に誕生した「調布千鳥町」に由来するので、どんなに早くてもこの年月日以降であるのは確実です。また、池上電気鉄道は複線化後、目黒蒲田電鉄に統制されるまでの間、桐ヶ谷〜蒲田間の投資などを行っていないことから、合併された後の動きと見るのが適当だと考えますね。
どちらにしても、最近は史料等にあたっている時間がほとんど取れないため、まともな返しができなくて恐縮です。
投稿情報: XWIN II | 2019/11/07 19:28