blog記事が増えてきたので、それを整理する意味もこめ、シリーズ名を一部記事に付加しようと試みている(先のIA-64の歴史、みたいな感じ)が、今回もその一環としてシリーズ名を「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」と付けてみた。しかし、思いつきなので、今後は変わるかもしれない。という前振りをしつつ、今回は久々の地域歴史研究ネタで進めていこう。
以前、目黒蒲田電鉄(現 東京急行電鉄)が蒲田駅~矢口駅(現 矢口渡駅)間に、本門寺道駅を臨時駅として開設後、既得権よろしく駅を恒久化し、池上電気鉄道初期の交通需要で最大となる池上本門寺への旅客輸送を「妨害」しようとしたことについてふれた(「東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 前編」l以降)。これは池上本門寺の場所を思えば、本門寺道駅に価値などないが(無論、駅付近の人たちにとっては価値はある)、周辺交通事情を知らない人にとっては「ネーミングそのもの」に価値があったと言える。省線や私鉄間で乗り継ぎ切符が売られるようになれば、これはなおのことだろう。
こういう「詐欺まがい」的なネーミングについては、この本門寺道駅以外にも洗足池周辺でも見られたが、今回はもう一つ、慶大グラウンド前駅を取り上げる。慶大グラウンド前駅については、当Blogにおいて「慶大グランド前駅」なのか「慶大グラウンド前駅」なのかを議論し、鉄道ファンの間に流布される情報が誤りであることを論じた(「池上電気鉄道 慶大グラウンド前駅について(確定編)」ほか)が、この慶大グラウンド前駅こそ、池上電気鉄道における「本門寺道駅」的な駅なのである。
まず、名前からしてバス停っぽく、かつ直接的なネーミングだが、実際、慶應義塾大学の運動場や野球場(新田球場)の最寄り駅は、目黒蒲田電鉄の新田駅(現 武蔵新田駅)であり、そもそも慶大グラウンド前駅は存在しなかった。しかし、本門寺道駅が臨時駅として開設後、恒久的な扱いとなったことから、これを受けて池上電気鉄道も新田球場への最寄り駅として臨時駅開設の申請を行い、許可後に恒久的な扱いとしたのである。つまり、出自としては「臨時駅」からスタートし、ライバルの最寄り駅の方が近いにもかかわらず、いかにもネーミングから自らの方が近いと錯覚させるというパターンは「江戸の敵を長崎で」、のように本門寺道駅の敵を慶大グラウンド前駅で返す、というようなものなのである。ただ、慶大グラウンド前駅は、本門寺道駅ほど遠くはなかったところに、わずかばかりの良心を見ることができ…ないか(笑)。
さて、このような出自の慶大グラウンド前駅だが、この話に入る前に簡単に慶應義塾大学運動場の中核をなす新田球場についてふれておこう。大正年間、野球(ベースボール)熱は大変大きくなり、全国中等学校野球や東京六大学野球など、学生野球の盛り上がりは高く、中でも早稲田大学と慶應義塾大学の試合はその中の白眉と言えるもので、観客動員数は今とは比べものにならないほどだったという(あえて言えばプロ野球の阪神タイガースと読売ジャイアンツのようなものか)。そういう中にあって、単なる野球場では対応困難となり、新たに多くの観客を収容する野球場を求められた。慶應義塾大学は、当初は東京市芝区三田(現 東京都港区三田)に野球場を持っていたが、ここでは対応困難となって、一時的に田園調布の野球場(のちテニスコート等になり、今はマンション)を間借りした後、東京府荏原郡矢口村と同郡調布村の境界に位置する土地を買収し、ここに野球場をはじめとする運動場を開設した。これがいわゆる慶應グラウンド(グランド)である。最寄り駅は、目黒蒲田電鉄の新田駅で、当時は目黒駅及び蒲田駅からのみのアプローチであったが、郊外の野球場としてはいい立地条件だったといえる。(参考:慶應義塾写真データベースにある新田球場の写真)。
その後、周辺が住宅地化したことや、慶應義塾大学そのものから離れた場所にあった等の理由から、神奈川県横浜市の日吉に移転することになるまでの間、新田球場には野球の試合が開催される時は、ここに多くの観客が詰めかけたのである。これに目を付けたのが、まだ雪ヶ谷駅までしか開通できていなかった池上電気鉄道であった。当時、新田球場付近には駅はなく、池上駅~光明寺駅(現在の千鳥町駅の位置にほぼ相当)間に臨時駅を開設する申請を鉄道省に行ったのである。臨時駅の開業期間は、新田球場で野球の試合が開催される日とされ、まさに性格は臨時駅そのものと言えるだろう。
当時のダイヤや一両編成の小型電車で、どれほどの乗客を捌けるのかは定かでないが、少なくとも本門寺道駅の臨時駅開設と比べれば、それなりの正当性を持ちうると思うが、当然のごとくこの申請は許可され、臨時駅慶大グラウンド前駅は開設される。そして、本門寺道駅と同じように周辺の利用客からの要請という理由を盾にとって、通常駅への昇格をはかった。ついに慶應義塾大学の新田球場への旅客輸送を巡って、両社の戦いの火蓋は切って落とされたのである。
次回に続く。
待っておりました!
私にとっての「真打登場」って感じです ♪(*^▽^*)v
この続きも楽しみにしております。慶應グラウンド駅ですね。今でも時々他文献上にて「慶應グランド」と書いてあるのを見ると「あ、これ違うよ。ホントは『慶應グラウンド駅』なのにな」なんて、一人で悦に入っております (;^_^)
本日は、小学校からの友人と会ってきます。
その友人宅も、実は1930年以前から旗の台にありました。
カタチは変わりましたが、今も全くおなじ場所にあります……って、ちょっともどかしい言い方なんですけど、要するに半公共的な建物、と言っていいのかな。彼女は小学校からお嫁に行くまで、そこに住んでおりました。(『洗足』の名前がついた建物です)
その当時の写真などないか、きょうは聞いてこようと思っています。
投稿情報: りっこ | 2010/04/16 10:46
慶応義塾の綱町運動場には観客席のスタンドとネット用のポールが残っていました。戦時下でしたので武器庫があり軍事教練に利用されていました。よくもこんな狭い所でリーグ戦を行うことが出来たのかと驚いたものです。前回に申し上げたとおり小生が小学校1年生のときの運動会でずいぶんだだっ広いグランドだなとの印象を持ちましたが、あらためて写真を見るとその広さが分かります。次回のコメントを楽しみにしてます。国立公文書館に行こうかと思っていますが寒さ続きで出かけるのを見合わせております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/16 12:04
りっこ様
それって洗足教会ですか?もしそうなら村上牧師は私の第二延山小学校で同学年で、クリスマスには俄クリスチャンになってお菓子を貰いに行ったものです。九州の方に行かれたとのことですがその後おめに掛かっておりません。私事でブログを利用して申し訳ありませんがつい懐かしくて投稿した次第です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/18 16:26
コメントありがとうございます&遅れました。
諸般の事情で執筆が遅れていますが、文字だけなら何とかなりますが本記事は図が欠かせないので、作図には一定の時間を要するために、と言い訳を。
最大の理由は、欧州から部下が帰国できないために、その役回りを私がやっているからなのですが。
といったところで、中編はもうしばらくお待ちください(週末には何とか)。
投稿情報: XWIN II | 2010/04/20 07:38
XWN II様
お仕事中に資料を集めることは容易ではありません。昔の新聞のコピーを国会図書館で入手するのもかなりの時間が掛かります。最近昭和24年に起きた電車暴走事件の技術的検証を行ってみようかと思いましたが資料の入手に思いのほか手間取りました。ゆっくりお待ちしますので中身の濃い記事を期待しております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/20 09:55
木造院電車両マニア様
お返事遅れまして、すみません m(_ _)m
当たりです!
そして、友人に話を聞いて、幾つか記憶違いもありました。彼女はあそこからお嫁に行ったんではなくて、もうその大分前に、自宅は移転しておりました。(;^_^)
村上師というと、洗足教会、草創期の牧師さんですね。友人のお父上は、その後の後の代に当たっておられます。(ご健在です)その次の代の方が、現在も洗足教会におられるそうです。
でも、ちょっとお聞きしたいことがあります。この草創期の村上師が、電車両様と同級でおられたのですか?
実は、私の友人の父上は、電車両様よりも、年長なんです。
ということは、村上師は、随分若いときに洗足教会の牧師をなさっておられたのですね(20代~30代ということでしょうか)
私も、洗足教会に小学校時代、通いました。
幼稚園が、カトリックだったので、余り何も考えずに親が「小学校の正面だし」と、日曜学校に通わせたらしいです。
でも、実はカトリックとプロテスタントって、微妙に違うところがあって、子供心に少し違和感を覚えたものです。
まあそれでも、クリスマスの行事はやっぱり楽しかったですね。
ずっと続けたかったのですが、これもまた、親の気まぐれで、途中からガールスカウトに入れられてしまい…………(こちらは私には全く肌が合わなくて苦労しました)
XWIN II様、すみませんm(_ _)m 個人的コメントになっちゃって。
投稿情報: りっこ | 2010/04/22 15:03
りっこ様
洗足教会の草創器の村上牧師は私の同年生の父君です。私が教会へ行ったのは昭和10年前後であったと記憶しております。同君のお兄様も同じ教会で牧師をしておられました。私の友人は九州の方で牧師となり命の電話相談などしていたと聞いておりますがお目にかかっておりません。カトリックの洗足教会は聖心女子学院に通っていた関係で私の妹が洗礼を受け、結婚式もそこで挙げました。当時の司祭はは塚本神父でした。ちなみに小生は仏徒です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/22 18:57
木造院電車両マニア様
そうだったんですか。
私の友人のお父上は、反対に九州から、洗足教会へと赴任なさったんですよ。
どこかでつながりがあるかもしれませんね。
カトリック洗足教会へ、お妹様は、聖心に通いながら、そこで洗礼をお受けになったんですね。実は子供が生まれてから、しばらく、結婚して在住した場所で子供を連れて日曜学校に通っていたら、受洗を強く薦められ、足が遠のいてしまいましたσ(^◇^;)。。。
だって私も仏教徒ですもん。
投稿情報: りっこ | 2010/04/22 21:34
りっこ様
さいかち坂を昇ると左側に如何にも教会らしい建物が印象に残っています。中原街道の拡張のためか広場が狭くなっているような気がします。さいかちの木は女学校の敷地の中に移植されたとのことです。当時キリスト教会は洗足地区でここだけでしたので既に他界しました小生の兄もこの教会の信者でした。洗足幼稚園共々洗足田園都市の雰囲気を醸し出した貴重な存在でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/24 12:15
木造院電車両マニア様
友人に頼んで、当時の写真を今度見せてもらおうと思っています。
それから、「さいかちの木」
すみません。女学校の敷地の中に移植って……女学校ってどこのですか?香蘭ですか?
三光教会の中にありますね。私、三光教会って入ったことがないんです。ここはカソリックとも、プロテスタントとも違う、「英国国教会」ですよね?
割と狭い範囲に、三つの異なる宗派の教会があるっていうのも、珍しいのではないかと思います。
中学校の同級生同士が、三光教会で式を挙げたときに呼ばれたのですが、あいにく都合で行かれなかったのが、今でも心残りです。
投稿情報: りっこ | 2010/04/24 20:59
りっこ様
香蘭です。サイカチの木は中原街道拡張の時に香蘭女学校の敷地内に移植されたと聞いていますが確かめたことはありません。確かにカトリック、日基とアングリカンチャーチの三つがあるのは珍しいことです。サイカチの木があった所には井戸がありました。多分牛馬に水を飲ませるためだったのでしょう。坂を上る前に水を補給したのでしょう。中原街道はむかしから物流のための重要なルートでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/25 14:42