現在の東京都目黒区、品川区、大田区に展開した田園都市株式会社が分譲した洗足田園都市エリアを以下に示す。
図の説明については、後刻追記予定。
今回は記事というよりも、私が忘れないようにするための備忘録的な内容となっている。ので、散文的になっているのはご容赦願いたい。では以下からスタート。
まずは位置から確認すると、東京都品川区、目黒区、そして大田区の区界にあたり、赤い点線でその境界線を示している。おおよそ右半分が品川区、おおよそ左半分が大田区、そして逆三角形に見える上側部分が目黒区になる。つまり、洗足田園都市エリアはこの3区にまたがっているが、第一期分譲地は品川区と目黒区が多くを占め、大田区が若干。第二期分譲地は大半が品川区で、ごくわずか(4区画)が大田区で目黒区は無し。それ以降でも品川区(赤い部分)と大田区(紫色の部分)で分譲されるが、第一期はもちろん第二期の規模にも遠く及ばない小規模のものとなっている。
現在、品川区、目黒区、そして大田区と分かれているエリアだが、無論、分譲以前、用地買収の時期から3つの村に分かれていた。品川区にあたるところが荏原郡平塚村で、のちに町制施行で平塚町、すぐに改名して荏原町、そして東京市に合併された時に東京市荏原区を単独で構成。戦後に品川区と合併した。目黒区にあたるところは荏原郡碑衾村で、のちに町制施行で碑衾町、東京市合併時に隣接する目黒町と共に東京市目黒区を構成して現在に至る。大田区にあたるところは荏原郡馬込村で、のちに町制施行で馬込町、東京市合併時に隣接する入新井町などと東京市大森区を構成。戦後に蒲田区と合併し大田区となった。つまり、何度か合併を経験しているにもかかわらず、洗足田園都市を構成するエリアに走る境界線は、まったくそのまま存置され続けているのである。
洗足田園都市は、田園都市株式会社が最初に分譲を行ったところだが、東京急行50年史などに書かれているように、このあたりの用地買収が地価高騰を受けて困難になり、代わって多摩川台(現在の田園調布方面)の用地買収を進めたとされるが、実際に分譲されたエリアを確認すると、別の理由も見え隠れする。それが、地元主導の耕地整理組合の誕生である。
当blogでも耕地整理組合についてかなりふれているが、一応簡単におさらいしておくと、耕地整理組合とはもともと農耕地を区画整理することで土地の生産性を上げるのを目的に結成される組合だが、実際は耕地と称して住宅地のための区画整理事業を行っていた。住宅地のための法令(制度)もあったのだが、耕地整理組合が採用されたのは資金を工面する際の金利や土地処分の方法などが地主に有利だったからで、田園都市株式会社も洗足田園都市を開発するにあたってこの方法を採用し、会社が耕地整理組合を単独で結成して耕地整理事業を実施するという、実に奇妙な方法で行われたのだ(田園調布も同様)。
しかし、田園都市株式会社のいわゆる一人施工であれば、好きなように区画整理ができるが、第一期分譲エリアの北側では「碑文谷耕地整理組合」が結成され、田園都市株式会社の入り込む余地はなくなっていた。碑文谷耕地整理組合はこの一帯では比較的早く組合が結成され(無論、田園都市株式会社の計画に触発されたのだが)、洗足田園都市とほぼ同時期に区画整理が成された。一方、品川区側にあたるのは荏原郡平塚村大字小山にあたり、このあたりも小山耕地整理組合が結成されていた。要は、第一期分譲地は田園都市株式会社の一人施工で実現できたエリアに限られていたのである。
しかし、第二期分譲エリア以降は、田園都市株式会社が一人施工を行うにはエリアが狭すぎること。加えて、線路用地確保を容易にするため(現在の東急大井町線にあたる線路)、自ら地元の耕地整理組合の一員になるよう方針を変更し、第二期分譲地及び赤いエリアは平塚耕地整理組合事業地の一部として、紫色のエリアは千束耕地整理組合事業地の一部として分譲されたのである。
と今回はここまで。
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