久々に雑誌「東京人」を買った。正直いつ以来購入したか思い出せないほどだが、ずいぶん軽くなったような印象でコスト削減が大変なのだなという第一印象。購入理由は、特集が「東京 鉄道遺産100」ということで(しかも86ページにわたって。表紙など含め148ページなので実に半分以上がこの特集)、第三者の見方がどういうものなのかを参考にするためである。エッセイ中心だが、人それぞれ視点が異なるので大いに参考になる。
なので、その人の想いが思い出に込められているわけで、正しい・間違いだとはあまり言うものではないし、勘違いは勘違いでそれ自身がその人の想いであるので、どうこう言うつもりはない。だが、やはり気になるのも事実。善し悪しでなく、私はこう思う的な書き方でキータッチを進めていく。
31ページに「東急池上線五反田駅高架橋」について「山手線五反田駅に隣接する白木屋の4階の高さに池上電気鉄道の五反田駅を建設。」とあるが、これでは白木屋(または白木屋が入居したビル)の方が池上線(当時は池上電気鉄道線)よりも先に建設されたように読めるが、実際は池上電気鉄道の五反田駅の方が先。池上電気鉄道の五反田駅は、昭和初期までの計画では省線(今に言うJR)五反田駅に寄り添うように地上に建設予定だったが、同社が拡張戦略に取って代わった際、山手線を乗り越え白金方面まで延伸するよう計画変更された。この結果、五反田駅は省線の高架のさらに上を乗り越えるように建設されたのである。そして、省線を越えた先に橋脚を支える役割を併せ持った2階建てのビルを建設。ここに白木屋がテナントとして入居したのであった。このビルが4階まで増築されるのは、池上電気鉄道が五反田駅から白金方面への延伸を諦めて以降。この時になって初めて4階の高さという表現となるのである。
48ページに「西武新宿線は、鷺ノ沼もそういう駅でしたよね?」とあるが、これは座談会での発言であり、おそらく原稿おこしをした際、鷺ノ宮と発言したものを鷺ノ沼と誤ったものだと見る。単なる打ち損じの線は捨てきれないが、何にしても編集上の問題だろう。
49ページに「田健治郎という台湾総督をやった人の壮大な屋敷が、東京府荏原郡多摩川村(現・世田谷区上野毛)にありまして、」というのも座談会の発言で、これも玉川村とすべきところを多摩川村としており、原稿おこしの問題。編集上の問題となる。
50ページに「自由学園が東京府北多摩郡久留米村の土地を購入したのが、大正十四年(一九二五年)です。この時代、田園調布、成城学園、国立など、郊外の学園都市ができていく。」とこれも座談会での原氏の発言だが、これは原稿起こしの問題ではなく、原氏の勘違いで田園調布は学園都市ではない。現在の東急東横線沿線は学校誘致を大岡山での成果によって積極的に展開はしたが、田園調布はそれ以前のものであり、学園都市とは無縁である。
50ページに「あのあたりは、昔、西武池袋線の上がり屋敷駅があった所です。」とあるのは、これも原稿起こしの問題で、正しくは上り屋敷駅(上がりではない)。
──と、このあたりでやめておこう。他にもあるだろうけど、今回はここまで。
東京人の3月号 購入しました。 池上線が結構取り上げられており、いかに、「昔のまんまか」ということがわかりますね。
私てきに印象に残ったのは、星野博美氏の「極私的鉄道風景 東急池上線戸越銀座-五反田」です。
この方、私よりお若いです。
でもって、小学校4年生のときに、春闘で池上線が全面スト
というと、1976年ですね。
国鉄のストライキは恒例でしたが、池上線までストだったとき。確かにありました。今では考えられませんが。
ただ、この女性は、池上線の線路を歩いて、五反田まで行こうとしたとのこと。
大崎広小路駅にあと少しのところで脱落って、これすごいでしょう。
あの天高い線路の上を、幾らスト中とはいえ、子供たちが数人ぞろぞろと歩いていける、そんな時代があったのかと、不思議な気がしました。私は、考えてみたこともなかったです。でもやってみたい気は……いや、怖いですネ(笑)
投稿情報: りっこ | 2012/02/18 10:38