« ゼンリンの電子地図「いつもNAVI」仕様変更で後方互換性断たれる | メイン | 続×5・池上線開通式典の写真を分析する─「目で見る品川区の100年」より─ »

2011/07/02

コメント

3枚目の記念写真に関するご指摘に賛成します。
どんどん橋の線路は環七立体交差化の時に掘り下げられたはずなので、それ以前のどんどん橋は、この写真のような周辺地盤面と同レベルのものではなく、現況のものよりさらに高い階段が付いていたのではないかと思っておりました。
そうでないと、どんどん橋(いちのはし)から区境道の踏切(現在の「にのはし」)までの、直線距離で約95mしかない区間で6m近く登らなければならなくなってしまいます。

連続投稿失礼します。
黄色楕円内の橋脚が今はなきコの字跨線橋のものであり、それを「どんどん橋」越しに写しているアングルだとのご解釈であれば、賛成といったのは私の早とちりで、私は逆のアングルなのではないかと思っております。

理由として、前投稿での線路勾配に関する疑問の他に、

1.両脇の土手が下がっていく奥の方が旗の台駅方向であるようにも見えるが、逆に長原駅方向に登っていく線路を捉えても、同様に切り崩しの土手は浅くなっていくように見えたであろうこと。
2.「どんどん橋」のある通りと、コの字跨線橋のある通りの交通を比較すると、後者の方が夫婦坂方面から通りぬけ出来る道として、戦前からより重要だったのではないか。従ってコの字跨線橋も車両の通行を考慮し、それ故に階段ではなく(地図から見るに)数十メートルの斜路を設けていたのではないかという推測。

以上の2点が挙げられます。尤も「どんどん橋」に以前は階段がなく、車両の通行も可能だったのであれば私の見解は崩壊しますのでご容赦ください。

 そもそも8月28日の開業は桐が谷までで、その桐が谷も仮停車場の記述があり、自動閉塞信号は昭和3年となっていますので、大掛かりな開通祝賀会が行われるようなものでは無いような気がします。国立公文書館の昭和2年と3年の記録の項目にそれらしきことが書いてありますが、これを検証するために甲種合格の身とはいえこの酷暑の中竹橋をわたって近衛聯隊に行く勇気がありませんので涼しくなるのを待って調べに行くつもりです。
 どんどん橋の橋を支えている柱の上部の扇状の支柱は現在はコンクリで塗り込まれていますが原型を保ているので変化は無いと思います。区境の橋の在った所は無論踏み切りですが、立体交差工事中の写真を見ると勾配は環七から始まっておりこの踏み切りは環七の踏み切りより低くなっていますので、33.3パーミルの勾配でぎりぎりパンタの有効高をクリアできるんでは無いでしょうか。ただ両橋詰めが地面とフラットになっていますが、当時どのようになっていたかは分かりませんが、昭和8年代に既に階段が付いていましたので、現在の状態になったのはかなり以前からだったのでしょう。

ドンドン橋追伸
勾配の様子はヤフーで
田奈写真館ITSCOM.netを検索し、
東急3,000形 写真館 4号館を呼び出し
デハ3656と3655の環七立体交差工事中の写真を見ると、勾配が環七との交差点から始まっていることが分かり、どんどん橋も現在のまま写っていますので参考迄。

どんどん橋(とされる)写真について。
・両端に階段がない。
→先日現場を見てきましたら。昔の橋脚跡があり。ここから橋をかけたのかなと思いました。だとすると、この絵と合います。ただし、かさ上げしなくても、電車のパンタグラフ(昔のはパンタグラフとは言わないんでしたっけ?)がぶつからなかったのかなぁという疑問はあります。もっとも私は電車に詳しくないのでわかりませんが。
・右から8番目の人の装束が、神主さんみたい。
・「開通式典」タイトルの写真のメンバーと、どんどん橋に写る「地元の名士」は若干顔ぶれが違うような気がする。(ほとんどの人が洋装)
・昭和2年時点で、池上線が単線であれば、橋の下の複線線路が矛盾する。
・後方に踏切らしきものが見えない。
・線路が、後方から手前へ、上ってきているように見える。

なお、真ん中の写真ですが。「祝開通」とあるので、開通式のように見えますが、この門をくぐろうとする人々の面々が、奇妙です。真ん中に、「花嫁さん」みたいな人が歩いていくのはなぜでしょう。また、最後方の手前男性のいでたちも、不思議です。

どんどん橋
ゼンリンの地図から環七とどんどん橋の間の距離を計測してみましたが、157メートルでした。33.33パーミルと仮定して、つまり30メートル毎に1メートルの下りで標高差を計算すると5.2メートル下がりますが。緩和勾配と地面の下り斜面を考慮に入れると、パンタの有効高4155mm以上を保つために約2mのかさ上げが必要だと思います。当時は盛り土して傾斜を付けて橋との段差を無くし車の交通にも考慮したのでしょうが、今日は自転車でも無理であり、高齢者には階段も苦痛ですね。
中央線の小仏トンネルのようにパンタグラフの位置を引き下げなければならない程ではありませんが、かなり苦労しているようですね。
洗足池側の雪見橋も同様にかさ上げされています。工事費の関係で笹丸のように掘り割り施工をするには資金的に無理だったのでしょう。
立体化される前はただでさえ急勾配なのに旗が岡から旗の台に駅が移転したため今日の様に発電制動ではないのでブレーキシューの鉄粉に悩まされました。

鉄道関係まったく無知での質問ですが。
桐ヶ谷~雪ヶ谷間に関して単線であったとの記述がみつからず、逆に昭和2年から雪ヶ谷~蒲田間、約1ヶ月後に桐ヶ谷~雪ヶ谷間が複線開通したとの記述がありました。
故に写真から年号の昭和2年が間違いであるとの指摘にはならないのでは。

どんどん橋辺りの記念写真については、逆にこれこそが幻の橋で、逆コの字の橋だったのではないでしょうか。
遠くに見える橋柱がやけに高く写り、道路とフラットには見えません。
すなわち階段があるとも思えます。これがどんどん橋。
(最初のどんどん橋には階段があったとするならば)

コメントの確認

コメントのプレビュー

プレビュー中です。コメントはまだ投稿されていません。

処理中...
コメントを投稿できませんでした。エラー:
コメントを投稿しました。コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。 さらにコメントを投稿する

入力された文字と数字は画像と一致していません。再度入力してください。

最後に、下の画像の中に見える文字と数字を入力してください。これはプログラムを使ってコメントを自動的に投稿するのを防ぐために行われています。

画像を読み取れない場合は 別の画像を表示してください。

処理中...

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

アカウント情報

(名前とメールアドレスは必須です。メールアドレスは公開されません。)

2024年1 月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31