今から約10年ほど前に発覚した旧石器遺跡捏造事件によって、砂上の楼閣だった我が国の旧石器遺時代に関する妄想(学会内だけの内輪話)はすべて崩壊したが、これをどう評価するかということが「10年」という区切りを迎えた昨年、一昨年あたりから様々な書籍が登場している。私も当blogで2冊取り上げたが、もう1冊新たに加わることとなった。
既に先々月には本屋に並んでいた「旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ」(竹岡俊樹 著、講談社)だが、多忙等を理由にするだけでなく「非常に濃い」内容だったので、講談社メチエ選書であるにもかかわらず一週間ほど要した(だいたいこのシリーズは1~2日もあれば読み終える)。中でも第三章「石器研究の方法」、第四章「日本列島における旧石器時代の文化と歴史」は本書の中心で、石器しか具体的資料がない中、いかにしてこの学問が進んできたのかが俯瞰できる内容で、ここは何度も読み直した。
で、やはり私的には著者には申し訳ないが、旧石器遺跡捏造事件にかかわる部分、つまり本書では第二章「岩宿遺跡の発掘から前期旧石器時代遺跡捏造事件へ」が一番気になる部分であった(それが本書の目的でないことは明らかなのだが)。やはりというか当然というか、石器のプロから見れば、捏造遺跡から発掘されたとされる石器群はいんちきそのものだとすぐにわかるレベルであり、著者はこんなことすら見抜くことができない学者のレベルの低さを嘆く。つまり、単なる文献の読み下し学(書物上での理解はできるが、実態はまったく理解できていない)でしかなく、その上で新たに構築される学説(内輪では理論とか言うらしいが…失笑)は、現実に全く即していない空想(妄想)の産物でしかない。それに見合った遺物(異物)がたまたま発見(発掘)されただけで、合理的な解釈を作り上げ、無理矢理自らの学説(理論)にあてはめてしまうという危うさは、学説に合った異物が出てくればそれを遺物と認定するのみならず、ついには捏造されたものすら正当化してしまったのだ。さらに捏造物によって、次々と歴史が書き換えられる事態に陥り、学説に見合う遺物(石器)を発見していくという流れは、周辺学問からは学問として相手にされなくなり、ついには「暴露」されて決着がついた。
こうして書いていても、なぜこのような単純な捏造を暴くことができなかったのか。もっといえば、旧石器に関わる人たちから何の疑念も出てこなかったのか。このような疑問は、ここに取り上げた3書を読了した今ではわかるが、わからないのはやはりなぜプロの集団であるはずの専門の学者たちが、捏造を暴くことができなかったのかという疑問に立ち返る。
では、3書の立ち位置というか、どういったスタンスで書かれたのかを私なりの理解でふれておこう。
旧石器遺跡捏造事件の総括は、旧石器遺跡捏造を暴くことができなかった学者集団(学会を名乗ってはいるが、とてもそのレベルに到達しているようには見えないのでこう表現)によって分厚い報告書が出されているが、いかんせん、まったく事の本質には一切と言っていいほどふれられていないので役に立たない。反省している姿勢は見えるが、被害者意識丸出しで救われない。よって、こういう集団に属している人たちの文献はまったく参考にならない。しかし、事件から10年以上を経て、学者集団に含まれていない(過去には入っていたが執筆時点では含まれていない)人たちから、それぞれの立場で執筆された文献が登場し、ようやくこの捏造事件の本質が見えてきた。
最初は角張氏の「旧石器捏造事件の研究」で、出版は昨年だが著者によればその数年前には脱稿していたものが、出版社倒産の憂き目に遭って日の目を長い間見なかったとのことだが、結果的に事件から10年という節目に登場してよかったと思う。本書は、アカデミズムの世界とは異なる立場、石器を取り扱う法人(会社組織)の視点で、プロの分析眼からこのまやかし旧石器について疑義を呈している。つまり、批判をしやすい立場にある(大学の序列関係や学会のしがらみとは比較的関係が薄い)が、相手にされなくなる(意見を封殺される)立場でもあり、状況証拠を積み重ねて捏造事件について語っているが、「なぜ」という部分については弱い。これは学者でないから──ということもあるのだろうが、私的には岩宿遺跡以来の不信感が著者のベースにあるからではないかと見る。つまり、旧石器そのものに対する疑義(そもそも存在する?)から発せられているように見えるため、捏造事件の根は個別遺跡、旧石器に拠る以上に、旧石器にかかわる考古学の手法にも疑義を呈す。こういうアカデミズムでない世界からの視点、ということに価値があるとなる。
そして岡村氏の「旧石器遺跡 捏造事件」は、捏造事件の首魁とも目された公的権威を持つ学者が、いかにして旧石器捏造遺跡の理論的バックボーンたり得たかを後付けできる書である。読み方如何で駄作(言い訳や保身に終始)とも受け取られるが、私は役人ならではの文書のうまさもあって、捏造遺跡がどのように公認されてきたかがわかる良書だと見る。確かに、本書は言い訳がましいところが少なくないが、当事者、いや首魁とも目された立場でありながら、それを淡々と書き下していることに価値がある。ここに書かれていることの多くは、この後にふれる竹岡氏の著書を読んだ後に確認すると、アカデミズムに公権力が加わるとどういう結末となるかも見えてくる。よくぞ書き、出版してくれたものだと感心する書籍であろう。
最後に竹岡氏の「旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ」は、旧石器見識眼を持つ学者が旧石器時代とは、どういう時代なのかを俯瞰して見せた後、石器しか遺物がないとはどういうことなのかを具体例をもって示している。捏造遺跡の旧石器はすぐに偽物(縄文時代のもの)と看破する理屈はどこにあるのかを短いながらも濃密に解説する本書は、岡村氏の言い分がいかに「書物の上だけの学問」であるかが明らかにされる。端的に言えば、海も魚も実物を見たことがない人が「釣りとはこういうものである」として、次から次へと釣り名人とされる人が釣り上げる成果物を丸呑みし、海に存在しないようなもの(ウサギとかニワトリとか)であっても、海にはウサギやニワトリがいるという説を吹聴し、海釣りの成果としてウサギやニワトリを取り上げるようなものである。実際に、海や魚を見知っている人からすれば、ウサギやニワトリが釣れるという時点でインチキだと感ずるだろう。つまり、旧石器のプロ(竹岡氏)からすれば、このようなレベルで簡単にわかってしまうというわけで、これが長年の間、捏造がまかり通っていたことが驚異だとなるのである。
時間がないので適当にまとめると、このような学説はインチキというかトンデモであってもそれを見極めるだけの眼力がなければ、その上で踊るしかなく、踊ることができなければ相手にされなくなる。何となく、ほかにもこういう世界がありそうだと思いつつ、今回はここまで。
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